漢軍八旗 – 世界史用語集

「漢軍八旗(かんぐんはっき)」は、清朝の軍事・社会制度である八旗体系のうち、主に漢人(ハン族)で編成された旗人集団を指す言葉です。清の前身である後金(満洲)勢力が勢力拡大の過程で受け入れた帰順漢人や明の降将・降兵、職人集団などを組織化し、満洲八旗・蒙古八旗とならんで三系統の一角を担いました。漢軍は火器運用や築城・補給、渡河・攻城などの実務に強みを持ち、北京入城前後の内地攻略や山海関突破後の諸都市制圧、南明勢力の掃討、対ロシア・対モンゴル境域の防衛などで重要な役割を果たしました。やがて平時には都市の守備や戸口管理、儀礼・警衛、手工業・運輸・税の補助などを担い、旗地(旗人の居住・給地)に定住して都市社会の一角を形成します。漢軍八旗は、同じ清の軍でも郷勇・団練や緑営(緑旗軍)とは原則的に別組織であり、身分・給与・法的地位が異なります。本稿では、成立の背景と編制、機能と社会的性格、他制度との関係、変容と衰退、そして用語上の注意点を、わかりやすく整理して解説します。

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成立の背景―後金の拡張と漢人勢力の編入

漢軍八旗の起点は、後金を率いたヌルハチ(努爾哈赤)の征服過程にあります。彼は女直(満洲)諸部の統合とともに、戦争・通商・人質・婚姻によって周辺の漢人社会から多様な人材を取り込みました。特に遼東・瀋陽・撫順などの城邑が陥落すると、武器製造に長けた工人、火器運用に通じた兵士、書吏・訳官、土木や運輸に熟達した人々が後金側に組み込まれました。八旗という枠組み自体は女直(満洲)社会の軍事動員制度として整備されましたが、勢力が拡大するにつれて、漢人を別系統として束ねる必要が生じます。

転機はホンタイジ(皇太極)の時代です。彼は称号を「大清」に改める国家構想のもと、編制の標準化と多民族統合を進めました。この時期、火器の大規模配備と工房の整備が進み、明から降った将帥・兵士・職人を「漢軍(ハンジュン)」として再編します。形式上は満洲八旗・蒙古八旗と並立させながらも、指揮系統や給与、居住の配置を調整し、実戦での役割分担を明確化しました。山海関の呉三桂の投降(1644)と北京入城以降は、内地の攻略・平定において、地理・言語・都市戦に強い漢軍の価値がさらに高まりました。

こうして、清朝初期には「満洲八旗・蒙古八旗・漢軍八旗」の三系列が整備されます。各系列はそれぞれ正黄・鑲黄・正白・鑲白・正紅・鑲紅・正藍・鑲藍の八色旗を持ち、計二十四旗の複合体をなしました。もっとも、満洲旗が皇帝直属・中核戦力として重視されたのに対し、漢軍は火器・工兵・都市守備・補給などの実務で強みを発揮し、民族的出自に応じた役割分化が制度的に埋め込まれていきます。

編制・装備・任務―火器・工兵と都市守備のプロフェッショナル

漢軍八旗の編制は、旗(バナー)・ニル(佐領)・甲(牛録)などの単位で構成され、各単位には軍務と生活の双方を支える管理者が置かれました。編制は軍事組織であると同時に戸籍制度でもあり、家族・家産・婚姻・相続が旗籍に紐づけられます。これにより、戦時動員・俸給・衣糧・土地配分・官吏登用が一体として運用され、軍民の境界が薄い「旗人社会」が都市に根づきました。

装備面では、漢軍は初期から火器部隊として注目されました。明制式の鳥銃(火繩銃)や紅夷大砲(オランダ式大砲)、熕作(砲熕製造)の技術、火薬・鉛球・砲架・築城・爆破・架橋といった工兵的技能を持つ集団が多く、攻城・防城・渡河・舟橋の敷設で実戦能力を発揮しました。清初の遠征では、満洲旗の騎射と蒙古旗の機動と連携し、漢軍の火力・土木で決着をつける戦術が広く用いられます。

任務は時期により変化します。征服期には、遼東から直隷・山東・江南に至る城郭線の攻略・守備、糧秣輸送路の確保、工房の移設・再建、河川のわたり口の掌握などが中心でした。北京入城後は、京城の内外警衛、王公府邸・宮城の工事、国庫・内庫の運搬、各地の駐防(駐屯防衛)や沿海の倉廩・税関の監督など、平時の行政実務を兼ねるようになります。地方の省城・要地には八旗城・営盤が置かれ、旗地・旗倉が都市構造の一部を成しました。

人材面での特徴は、武人だけでなく手巧みな職工・測量師・通訳・書吏などが多いことです。彼らは軍需生産・官工房・運河・堤防・城壁修繕といった公共事業に動員され、在地の文武官と協働しました。科挙による官僚登用の道も開かれていましたが、旗人としての別枠(八旗官学・官職)や俸給体系があり、一般の民戸(民間戸籍)とは昇進と身分の位相が異なりました。

旗人社会の生活と身分―俸禄・旗地・婚姻・法

漢軍八旗の成員は「旗人」として法的に区別され、俸禄・衣糧(糧米・銀)・衣服支給、時に土地や住居(旗地)の配分を受けました。旗地は都市内の特定区画にまとまって設けられ、道路・市場・寺廟・学堂が整備されて、同郷や同系統のネットワークが再形成されます。婚姻や相続は旗籍に登録され、戸籍管理と兵籍管理が重なり合う仕組みでした。

旗人の特権には、刑罰・訴訟での扱い、税負担の軽減、一部の営業独占、宮廷・工房・警衛への就職優先などが含まれました。ただし、時代が下るにつれて俸給財政が圧迫され、定期の支給が遅延したり、旗人の貧困化が問題化したりします。これにより、旗人が非正規の商業・賃労働に関わる例が増え、旗地の内部で債務・典当(質入れ)が広がるなど、社会問題が顕在化しました。

教育面では、八旗学堂や官学での読み書き・武芸教育が行われ、満洲語・漢語の両立が理想とされました。漢軍の場合、母語が漢語であるため読み書きの素養は比較的高く、文書事務・会計・測量・翻訳に多く就きました。宗教・信仰は多様で、祖先祭祀や道教・仏教の信仰が旗地の廟会(祭礼)と結びつき、地域文化と融合します。これが都市の祭礼空間や手工業ギルドとも連動し、旗人社会は都市文化の担い手にもなりました。

法の面では、旗人は八旗の法(旗例)と国家法(律例)の双方に服しました。重罪・軍紀違反の場合は旗内の機構で処理され、一般民事は地方官と協調して裁かれます。二重の法体系は統治コストを増やしましたが、同時に旗人統制の弛緩を防ぐ効果もありました。これにより、旗人と民戸のあいだには日常的な境界が引かれ、居住・営業・婚姻での棲み分けが生じました。

他制度との関係と変容・衰退―緑営・郷勇との分業から近代解体へ

清朝の軍事は、八旗(満洲・蒙古・漢軍)と緑営(緑旗軍)が二本柱でした。緑営は主に民戸出身の常備軍で、地方治安と辺境守備を担い、旗人の都市駐防と分業しました。漢軍八旗は、緑営と比べて身分特権と宮廷直轄性が強く、軍紀・俸給・昇進の階梯も異なります。地方の反乱鎮圧では、八旗・緑営に加えて一時的に募られる郷勇・団練が投入され、太平天国や捻軍の内戦期には、曾国藩・李鴻章らの地方軍(湘軍・淮軍)が主力化しました。これにより、八旗の戦闘力の低下と財政負担の重さが露呈します。

18〜19世紀、八旗全体は武芸の実効性低下と財政逼迫、教育・訓練の形骸化に悩まされました。漢軍八旗も例外ではなく、俸給の滞納や副業化、軍務の外注、旗地の疲弊が進みます。一方で、近代化の試み(洋務運動)では、火器・砲熕・造船・電信などに漢軍系の技能者が再動員される場面もありました。とはいえ、近代的常備軍(新軍)の編成が進むにつれ、旗人編制の軍事的有用性は急速に低下します。

同時に、身分秩序の変化が起こります。旗人・民戸の婚姻や移住が拡大し、旗籍の有名無実化が進みました。清末の新政・憲政準備は、徴兵と納税の原則を再編し、旗人特権の縮減を進めます。辛亥革命(1911)と清朝の崩壊により、八旗制度は基本的に解体され、旗地や旗倉の処分、旗人への補償・移住・職業転換が大きな社会問題となりました。北京・瀋陽・西安・杭州などの旧駐防都市では、旗人コミュニティが近代都市の下層・中層に再編成され、文化・言語・職能は都市社会の中へ吸収されていきます。

用語上の注意として、「漢軍八旗」は「満洲八旗」「蒙古八旗」と並ぶ系統名であり、「緑旗軍(緑営)」や「地方民兵(郷勇・団練)」とは別です。また、漢軍の中から選抜・昇格されて満洲旗に編入される事例(改籍)や、逆に満洲旗から漢軍へ降格される事例も存在し、民族と旗籍が固定的に一致するわけではありません。史料によっては、漢人であっても満洲旗籍の者、満洲系でも漢軍に属した者がいるため、個別の系譜と旗籍を確認する必要があります。

総じて、漢軍八旗は「征服王朝の多民族動員装置」の一部として生まれ、火器・工兵・都市守備の専門性で清の国家形成を支えました。やがて身分組織として都市社会に根づき、近代国家の成立とともに解体されるまで、軍事・行政・生活の三層を貫く制度として機能したのです。今日、八旗と聞くと満洲騎射のイメージが先行しますが、都市の城壁や倉廩を守り、橋を架け、砲を鋳造し、文書を処理した漢軍八旗の顔もまた、清代の現実を映す重要な一面であることを覚えておくと理解が深まります。