汗血馬 – 世界史用語集

「汗血馬(かんけつば)」は、古代中国の史書で「汗のように血を流す」と形容された名馬を指す呼称です。とくに西域の大宛(だいえん、フェルガナ盆地)からもたらされた「天馬(てんば)」と結びつけて語られ、漢代の軍事や外交、シルクロードの形成に大きな影響を与えました。実際に馬が血の汗をかくのではなく、運動時に肩や首元から血がにじむ現象が観察されたことからこの名がついたとされます。これは皮膚寄生虫や血管の微細な損傷など複合的な生理・病理要因で説明できる可能性が高く、伝説的な表現と現実の観察が重ね合わさって成立した名称です。華北の短脚で持久性に劣る在来馬に比べ、汗血馬は長躯・細肢で脚が長く、速力・耐久力に優れ、遠征や騎射に適していたため、軍事革命に近い効果をもたらしました。本稿では、名称と起源、漢武帝の「天馬」獲得戦とその政治的意味、形質と「汗血」の生理学的説明、そして美術・文学における受容と近現代の誤解までを、わかりやすく解説します。

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名称・起源・分布―「天馬」と大宛、フェルガナの名馬

汗血馬という語は、主として漢代の資料に見えます。『史記・大宛列伝』『漢書・大宛伝』などでは、西域の大宛国に産する名馬が「天馬」と称され、走れば汗が血のようににじむと記されています。大宛は現在のキルギス・ウズベキスタン・タジキスタンにまたがるフェルガナ盆地に比定され、豊かな灌漑と牧草地、温暖な気候が良馬の生産に適していました。遊牧と農耕が交錯するこの地域では、サカ系・ソグド系の牧民が馬の育成に習熟し、東西交易の要衝として馬が重要な価値を持ちました。

東アジアの在来馬はおおむね小型で、荷駄や短距離の軍務には適していたものの、長距離の高速移動や長弓の騎射を想定した戦術には限界がありました。これに対して、フェルガナの馬は肩高が高く、長距離走と高地適応、乾燥地の環境に強いとされ、漢帝国の視線を強く引きつけました。中国側の呼称「天馬」は、単に性能の高さだけでなく、遠方の未知の地から来た神秘性、王権の権威付けに資する象徴性を帯びていました。

学術的には、汗血馬が具体的にどの品種に相当するかについて議論があります。しばしばトルクメニスタンのアハルテケ(Akhal-Teke)と同一視されますが、古代の「天馬」がフェルガナ一帯の多数の血統の総称であった可能性も高いです。アハルテケは細身で金属光沢のある被毛、長い首と脚を特徴とし、長距離走と耐熱性に秀でますが、古代文献に出る大宛馬が同一の母集団かは断定できません。交易の過程でパルティアやサカ系の馬も混入し、東漸する中で混血が進んだと見るのが妥当です。

漢武帝と「天馬」の戦争―張騫の報告から大宛遠征へ

汗血馬の名が歴史の表舞台に躍り出るのは、前漢の武帝(在位前141–前87年)の時代です。対匈奴戦で優位に立つため、武帝は騎兵戦力の質的強化を志向しました。そこで鍵を握ったのが、張騫(ちょうけん)の西域派遣です。張騫は数十年に及ぶ冒険の末に中央アジアの情勢を漢に伝え、その報告の中で大宛の良馬と西域諸国の情報が注目されました。武帝は「天馬」を国家的資産と見なし、交易と外交で入手を試みますが、数量と品質で満足できず、最終的に武力による獲得に踏み切ります。

この遠征が、いわゆる「大宛遠征」「天馬の戦い」です。将軍・李広利が前104年と前102〜前101年にかけて軍を率いて大宛に進撃し、補給と遠距離行軍の困難を克服しながらフェルガナ盆地の首邑(エウラ[エルシ]に比定される)を包囲しました。激戦の末に大宛は講和に応じ、良馬数十頭と今後の定期供給を約することで漢軍の撤退を得ました。漢側は帰国後、得た馬をもとに繁殖を図り、さらなる西域経営の足がかりとしました。この軍事行動は、単に名馬を求めただけでなく、匈奴包囲構想の一環としてオアシス諸国との外交網を強化し、シルクロードの東端を制度的に組み立てる契機となりました。

武帝の対外政策は、軍事拡張と財政負担の増大、塩鉄専売などの国内改革を伴いましたが、「天馬」の導入は軍制上の革新でした。長距離機動と弓騎の精度向上、将軍の威信の象徴化、使節の護衛や伝令の迅速化など、具体的な運用面で効果があったと考えられます。また、良馬の所有は王朝神話の更新でもあり、天子の徳が西域の神馬を呼ぶという寓意が詩文や図像で繰り返し強調されました。

形質・性能・「汗血」の正体―生理・病理と飼養の条件

汗血馬の外見は、細身で筋肉の線が浮き、被毛は栗毛・鹿毛・金色がかった毛など多彩で、日光の下で金属光沢を帯びると形容されます。長い頸と斜尻、深い胸、硬質で細い四肢、薄い皮膚などがしばしば挙げられ、乾燥・高温下の持久走に向く体型です。こうした形質は、長く痩せた体躯が放熱と酸素供給に有利であるという生理的説明と整合します。実際、中央アジアのステップや半砂漠で鍛えられた馬は、水分管理と脂肪蓄積のパターンが在来馬と異なり、砂地・堅地での走破性が高いことが経験的に知られてきました。

では「汗血」とは何か。古代の表現は誇張や比喩を含みますが、いくつかの現代的説明が提案されています。第一に、皮膚寄生虫パラフィラリア(Parafilaria multipapillosa)などが原因となる「夏季出血(summer bleeding)」です。これは成虫や幼虫が皮下に寄生し、運動や暑熱で血行が増すと皮膚に小孔が開いて血がにじむ現象を引き起こすものです。第二に、激しい運動で毛細血管が破れ、汗腺付近に混じった血液が汗とともににじみ、赤褐色の「汗」に見える可能性です。第三に、鉄分を多く含む土壌や水、飼料由来の微量元素が被毛や皮脂の色調に影響し、赤みを帯びた発汗・体表の変色を強調したという解釈もあります。

これらは相互に排他的ではなく、複合的に現れた症状が「汗血」の印象を強くしたと考えられます。中央アジアの牧畜環境では寄生虫管理が現代ほど徹底されておらず、長距離遠征時の疲労・脱水・高温が生理的ストレスを増幅させました。加えて、軍陣での伝聞や王権のプロパガンダは、希少な馬の価値を誇張する方向に働きます。したがって、「血の汗」は伝説ではあるものの、観察された具体的現象を核に成立した記述と理解できます。

飼養面では、汗血馬の能力を引き出すには、乾燥地の粗飼料に適応した給餌と水分管理、薄皮と細肢を守る装蹄、長距離の漸進的調教が必要でした。湿潤で泥濘が多い華北・江南では蹄や皮膚疾患のリスクが高まり、環境適応に失敗すると故障が増えます。このため、漢は河西回廊や北地の牧場での繁殖・調教を重視し、軍馬監や苑馬監などの官署を整備して馬政を国家直営化しました。良馬の供給は実は飼養技術と水草地の維持というインフラの問題であり、単に血統の導入だけでは効果が持続しないことが歴史的にも確認されます。

美術・文学・記憶―「天馬」の図像と文化的受容、そして近現代の誤解

汗血馬(天馬)は、美術と文学の世界で豊かな表現を生みました。唐三彩の馬俑や、壁画・絵巻に描かれる長脚で高頭の馬は、異域趣味(胡風)と帝国の国際性を象徴しました。唐太宗の陵墓「昭陵六駿」に刻まれた名馬像は、帝王と名馬の結びつきを視覚的に提示し、政治的権威のレトリックを支えました。詩歌では、李白・杜甫・王維らが天馬や西域の馬を詠み、速さ・自由・威勢の比喩として用いています。宮廷絵画では、名馬図が宮廷の理想秩序を示すレファレンスとして重宝され、良馬の輸入と繁殖は宮廷儀礼と結びつけて顕彰されました。

一方、汗血馬=アハルテケ同一説は広く流布していますが、史料学的には慎重な扱いが必要です。アハルテケは確かに中央アジアの古い系統を保持し、細身・金色被毛・耐久力などで古代の記述と符合点が多い反面、フェルガナの地理とトルクメンのオアシス(アハル)は隣接しても同一ではありません。古代の「天馬」は地域の複合的な血統を指す総称だった可能性が高く、近現代のナショナル・アイデンティティや観光資源としてのブランド化が、単純化を促している面があります。学術的には、考古遺伝学や骨格形態学の成果を踏まえ、地域ごとに異なる群の交流・交雑を描くことが重要です。

また、「汗血」の字面から、馬体が恒常的に出血するように誤解されがちですが、前述の通り、これは特定条件下の一過的現象に由来する形容であり、馬の健康や能力を恒常的に損なうものではありません。むしろ、過酷な環境と調教で極限の能力を引き出した名馬に付された、半ば神話的な称号と理解すると、歴史資料の記述の意図が見えやすくなります。

総じて、汗血馬は「軍事技術としての馬政」と「帝国神話としての名馬崇拝」が交差する地点にあります。張騫の情報収集、武帝の遠征、河西回廊の牧地整備という国家的取り組みが、名馬の導入を可能にし、結果としてシルクロードの制度化に拍車をかけました。その影響は、戦術や物流の改善にとどまらず、文化と美術の表象、王権の象徴体系に深く刻まれています。汗血馬という言葉を見かけたとき、そこに重なる地理・生理・政治・美術の多層を意識して読み解くことが、歴史の実像に迫る近道になります。