ガンジス川は、インドとバングラデシュを貫いてベンガル湾に注ぐ南アジア最大級の大河で、自然・歴史・宗教・社会が重なり合う「文明の回廊」です。ヒマラヤ山脈の氷雪とモンスーンの雨を源とし、広大な平野を潤しながら巨大なデルタを形成します。ヒンドゥー教では女神ガンガーとして崇められ、沐浴・葬送・巡礼など人々の人生儀礼に深く結びついてきました。一方で、農業・都市・工業・エネルギー・航運といった経済活動の大動脈でもあり、現代では水質悪化や過剰取水、氷河縮小、洪水・渇水リスクなど持続可能性の課題に直面しています。本稿では、地理と水文学、歴史と文化、生活と経済、環境課題と保全の取り組みという四つの視点から、ガンジス川の全体像をわかりやすく整理して解説します。
地理と水のしくみ―源流からデルタまで
ガンジス川の源流はヒマラヤの高地にあります。インド北部の高山域で氷河や万年雪に覆われた谷を発し、上流部では急峻な峡谷を刻みます。山地を抜けてからは、パンジャーブやガンジス平原の広大な沖積地に出て、支流を集めながら流量を増していきます。東側では強大な支流ブラフマプトラ川(バングラデシュではジャムナ川と呼ばれる)と合流し、扇状に広がるベンガル・デルタをかたちづくります。このデルタは世界最大級で、干潟・マングローブ林・網目状の水路が連なる独特の景観を持ち、豊かな生物多様性と同時に洪水・高潮のリスクを抱えています。
水の供給は、雪氷の融解と夏季モンスーンの降水が二本柱です。ヒマラヤの氷河は乾季にも一定の流量を保つ「自然の貯水池」として機能し、雨季にはインド洋からの湿った季節風が流域に集中豪雨をもたらします。これにより、年較差の大きな流況が生じ、雨季の増水と乾季の渇水が人びとの暮らしとインフラに強く影響します。土砂運搬量も巨大で、上流から運ばれた細粒のシルトが平野部に堆積して肥沃な土壌を再生産し、デルタでは新たな陸地が生まれる一方、河道の変動が激しく、橋や取水設備、堤防の維持に高度な工夫が求められます。
支流網は北から南へ段階的に形成され、ヤムナー、ゴムティ、ガーガー、ガンダク、コーシなどの大支流が左岸・右岸から合流します。コーシ川のように山地で大きな土砂を抱える河川は「流路の気まぐれ(サンドバーと複列流路)」で知られ、歴史的に流路が東西へ移動して広域の氾濫原を作ってきました。こうした水理は肥沃さと災害を同時にもたらし、伝統的な集落立地や農地管理の知恵(高床、盛土、季節移動、家畜避難など)を発達させました。
下流のバングラデシュでは、ガンジス川は現地でパドマ川と呼ばれ、ブラフマプトラ(ジャムナ)と合流後、さらにメグナ川系の水と混じり合い、複雑な水郷の景観を作ります。潮汐の影響が内陸深くまで及ぶため、汽水域の生態系が広がり、マングローブのスンダルバンスはトラやワニ、希少な鳥類・魚類の生息地として世界的に知られます。ここでは、淡水の確保(塩水侵入の緩和)と高潮・サイクロン対策が、生活と保全の鍵になります。
歴史と文化―聖なる川と都市の記憶
ガンジス川は、古代以来、インド亜大陸の政治・宗教・文学の舞台でした。ガンジス平原では古典期に都市国家が興り、王朝が交代するたびに川沿いの要地が整備されました。交通の背骨としての水運は、塩、穀物、綿織物、香辛料、石材、木材などを運び、集落を港町へ、港町を都市へと引き上げました。川筋の都市は、行政・宗教・学芸の中心として繁栄し、寺院、ステップウェル、ガート(沐浴階段)、キャラバンサライ(隊商宿)などが地域社会の核をなしました。
宗教的には、ガンジスは女神ガンガーとして人格化され、天界から地上へ降り注ぐ生命水と理解されます。ヒンドゥー教徒にとって川の水は「邪を洗い流す力」を持つとされ、巡礼者はガートで沐浴し、火葬後の遺灰を流します。とりわけ中流域の古都は、学僧と詩人の往来、絵画・音楽・舞踊の庇護、季節祭礼の賑わいによって精神文化の厚みを育んできました。イスラーム王朝やムガル朝の時代にも、聖地は生き続け、川沿いにはモスク、キャラバンサライ、庭園が築かれ、多文化的景観が重層的に残されています。
近代になると、植民地支配の下で運河網や恒常的灌漑が拡張され、綿花・小麦・サトウキビなどの商品作物の生産が伸びました。幹線鉄道の敷設は水運の役割を相対化しつつも、河川の橋梁建設や堤防・取水堰の整備を促し、「水を読む行政」の制度化が進みます。独立後は、洪水調節、通年航行、飲用・工業用水の確保、発電の多目的化を狙って、上流のダムや中下流の取水堰、導水路の建設が続けられました。これらの事業は、治水と開発に一定の成果をもたらす一方、下流の流況や土砂バランス、生態系、地域社会の生計に複雑な影響をおよぼしました。
文化的景観としての川は、文学・映画・写真・民俗芸能にも色濃く刻まれています。雨季の増水、朝霧の沐浴、灯篭流し、葬送の火、舟歌や祈りの旋律――そうしたモチーフは、地域の記憶と世界のイメージを媒介し、観光や精神世界の探索を引き寄せる磁力を持ち続けています。
生活と経済―灌漑、食料、航運、エネルギー
ガンジス流域は、南アジアでもっとも人口密度が高い地域の一つで、川は生活の総合インフラです。農業では、雨期と灌漑水路を組み合わせて、稲、小麦、豆類、サトウキビ、油糧作物、園芸作物が栽培されます。河川水と地下水の併用、ため池や揚水井戸のネットワークは、二期作・三期作を可能にし、地域の食料供給を支えます。土壌は細粒のシルトに富み、肥沃ですが、過度の灌漑と不十分な排水は塩害や地盤沈下のリスクを高めるため、水利組合や村落の慣行に基づく配水・維持管理が重要になります。
都市用水と工業用水の需要は年々増加してきました。中流域の大都市や工業クラスターでは、取水口・浄水場・下水処理場が川辺に並び、繊維・皮革・食品・化学などの産業が集積します。近年は電子・自動車部品などのサプライチェーンも延び、用水の安定性と水質基準の遵守が競争力を左右する要因になっています。水をめぐる需要の多様化は、流域内での配分ルール、排水規制、再利用(再生水)や雨水活用の仕組みづくりを不可欠にします。
航運は歴史的に重要な役割を担ってきました。浅喫水の船やはしけ、筏による物流に加え、近代には可動堰や浚渫、灯標・水深標の整備、内航ネットワークの再生で、川を「第二のハイウェイ」として活用する取り組みが続いています。低炭素輸送の観点でも、内陸水運はトラック輸送の一部を置き換える可能性があり、港湾・河川ターミナルと鉄道・道路の接続改善が試みられています。
エネルギー面では、水力発電が上流の山地ダムで行われ、中流・下流では取水堰を併用した小水力も導入されています。発電は再生可能エネルギーとして価値がある一方、貯水による堆砂、魚類の回遊阻害、下流の流況変化などの環境影響が避けがたく、魚道やエコフロー(環境流量)の設定、土砂バイパス、堆砂管理といった緩和策が求められます。
環境課題と保全―水質、廃棄物、流況、ガバナンス
もっとも切実な課題の一つは水質です。都市部では生活排水の未処理流入、工業排水の不適正処理、宗教儀礼や観光由来の固形廃棄物が重なり、特に乾季の低流量期に汚染が顕著になります。上流・中流・下流で水質課題の質は異なり、上流では観光地の固形ごみや小規模排水、中流・下流では有機汚濁、病原性微生物、重金属、栄養塩の過剰などが問題化します。対策として、下水処理場の増設・高度化、下水道の未普及地域のカバー、分散型処理(DEWATS)、産業排水の事前処理義務化、河畔の緑地帯(リップラリアン・バッファー)の整備、固形廃棄物管理(分別・回収・最終処分)などが進められています。
流況・土砂の管理も重要です。上流域のダムや取水堰は、渇水期の供給安定化や洪水ピークのカットに寄与しますが、同時に下流への土砂供給を減らし、デルタの自然な維持力を弱めます。デルタでは地盤沈下や海面上昇と重なって、高潮・塩水遡上のリスクが高まります。これに対応するには、堆砂対策や土砂バイパス、放流操作の最適化、支流・湿地の復元、河畔林の回復、堤内地の遊水機能の強化など、流域スケールの「自然共生型治水」が効果を持ちます。
健康と衛生の観点では、飲料水の安全化、トイレ・下水の普及、衛生教育が基礎となります。特に沿川の貧困地域では、井戸水の汚染、下痢性疾患の流行、女性や子どもの労苦増加が課題化しやすく、上下水の社会的投資とコミュニティの参加が改善の鍵になります。宗教儀礼と環境配慮の両立も重要で、祭礼時の一時的な廃棄物対策、竹や土に還る素材の活用、ガート周辺の衛生管理など、伝統と現代の調和が模索されています。
ガバナンスの面では、流域をまたぐ州・国の協調が不可欠です。上流と下流、左岸と右岸、都市と農村、各部門(農業・工業・環境・エネルギー・航運)が異なる利害を持つため、データ共有と合意形成の仕組みが重要になります。流量・水質のリアルタイム監視、公開ダッシュボード、警報システム、流域委員会や利害関係者会議、科学と在来知の統合などが、透明性と信頼を高めます。国境を越える下流域では、洪水速報やサイクロン情報の連携、乾季の取水調整、越境湿地の保全協力など、国際的な水外交も実践されています。
気候変動は、氷河の縮小、極端降雨の増加、熱波や渇水の頻度増などを通じて、ガンジス川の将来に影響します。適応として、地下水涵養の強化(浸透井・雨庭・遊水地)、分散型貯留、耐洪水・耐塩性作物の導入、危険区域の土地利用規制、気象・水文予測の高度化、コミュニティ防災訓練の普及が挙げられます。同時に、再生可能エネルギーや省エネ、水循環の効率化、自然生態系の保全によって、温暖化の緩和にも寄与できます。
総じて、ガンジス川は「聖なる川」であると同時に、21世紀の持続可能性を試す実験場でもあります。信仰と生活、発展と保全、上流と下流、国家と地域――相反するように見える価値を、時間軸と空間軸の中で賢く両立させることが求められます。川はいつも流れを変えながら同じ名で呼ばれます。私たちの制度と意識もまた、変化する現実に合わせてしなやかに更新されるとき、ガンジス川は次の世代にも豊かさと祈りをたたえた姿で受け渡されていくはずです。

