「寛容法」は、一般に1689年にイングランド議会が制定したToleration Act(トレラレーション法)を指し、当時の国教会(英国国教会)に属さないプロテスタント非国教徒(ディセンター)に、条件付きながら合法的礼拝の自由を認めた法律です。これは信教の自由を全面的に保障したものではなく、カトリック(当時の用語で“Papists”)や反三位一体派(ユニテリアン)には適用されず、また公職就任の障壁(コーポレーション法・審査法)も温存されました。それでも、ジェームズ2世の専断的「恩赦」(寛容宣言)を退け、議会立法として一定の宗教寛容を制度化した点で画期的でした。以後の英国における宗教的多元化、パブリック・スフィアの拡大、教育・出版の発展に道を開く出発点となった一方、差別と制限は19世紀まで根強く残り続けました。本稿では、制定の背景、制度内容、影響と限界、英国内外への波及という観点から、平易に整理して説明します。
制定の背景—名誉革命と「国教支配の再設計」
17世紀のイングランドは、清教徒革命・王政復古・宗教政策の大揺れを経験しました。王政復古後、王政と国教会を支える目的で、非国教徒やカトリックを締め付ける一連の法(クラレンドン法体系、1661年コーポレーション法、1662年統一法、1664/70年会衆禁止法、1673年審査法など)が整備され、国教会以外の礼拝や聖職者の職務は違法化されました。こうした「排他の枠」を、ジェームズ2世は1687年・88年の〈寛容宣言(Declaration of Indulgence)〉で国王大権により停止し、カトリックにも道を開こうとします。しかし、議会・法曹・国教会は、議会を経ない恩典による一方的停止を「違法な権力行使」とみなし、政体の危機意識が高まりました。
1688年の名誉革命でジェームズ2世が退位し、ウィリアム3世・メアリ2世が即位すると、統治の原理は「法律の支配」へと再調整されます。〈権利章典(Bill of Rights, 1689)〉は王権の恣意的停止権(Dispensing/Suspending Power)を否認しました。その上で、宗教政策も「勅許で与える寛大さ」ではなく「議会立法による制度化」へ転換します。こうして、国教会の優位は維持しつつも、非国教徒に一定の礼拝自由を与える「寛容法」という折衷案が構想されたのです。
背景には、対仏戦争を前にした国内結束の必要もありました。擬似的な統一ではなく、最低限の共存を認めて徴税・兵站・地方統治を円滑にしなければ、国家運営は立ち行きません。宗教政策は、そのまま国家財政・軍事・地方社会の統治技術と結びついていました。
制度の骨格—「条件付きの自由」と登録・宣誓の仕組み
寛容法が認めたのは、〈三位一体を受け入れる〉プロテスタント非国教徒の〈公開された礼拝〉の自由でした。適用対象には、長老派・独立派(会衆派)・バプテスト、そして一定の条件下でクエーカーなどが含まれます。反三位一体派(ユニテリアン)やカトリックは適用外とされ、彼らに対する刑罰法規はなお有効のままでした(反三位一体派の刑罰撤廃は1813年、カトリック解放は1829年)。
自由の行使には複数の条件が付きました。第一に、礼拝所(ミーティング・ハウス)を司教または治安判事に登録する義務があり、正面入口を施錠せず公開することが求められました。第二に、説教者・教師は〈忠誠・至上の誓い(オース・オブ・アレジアンス/オース・オブ・サプレマシー)〉を立て、国王至上と国家への忠誠を明言する必要がありました。第三に、〈39箇条〉のうち教会統治や典礼に関わる条項を除く教義部分への同意(サブスクリプション)が求められ、クエーカーは宣誓拒否の宗教的信条に鑑み〈宣言〉で代替する特例が設けられました。
この法は、会衆禁止法や五名法など、非公認の集会を禁じる旧法の適用を〈条件を満たす非国教徒〉に限り停止する効果も持ちました。つまり、登録・宣誓・教義同意の〈三点セット〉を整えた者に対しては警察権を行使しない、という消極的保障が中核だったのです。教会税(什一税)の免除や大学進学・公職就任の資格付与までは踏み込まず、1661年コーポレーション法と1673年審査法が残した〈公職への宗教テスト〉は存続しました(1828年に撤廃)。
運用面では、地方治安判事の裁量がなお大きく、同じ非国教徒でも地域によって取り扱いが違いました。登録を渋る地主や住民の反発、礼拝所の破壊・嫌がらせ、説教者の資格争いなど、現場の摩擦はしばらく続きます。他方で、登録が進むにつれ、非国教徒の会堂・学校・慈善団体は、法の枠内で活動基盤を固めていきました。
影響と限界—「寛容の制度化」とその狭さ
寛容法の短期的効果は、弾圧の沈静化と宗教市場の〈半合法化〉でした。非国教徒の会堂は堂々と看板を掲げ、印刷・出版・教育の分野で活発に活動するようになります。彼らは〈ディセンティング・アカデミー〉と呼ばれる私立の高等教育機関を整え、神学・自然哲学・数学・商業実務などを教えました。これはオックスフォード/ケンブリッジに入れない非国教徒青年の〈学びの代替経路〉となり、18世紀の商業・金融・工学の担い手を多数生み出します。都市の集会・読書クラブ・新聞流通の場でも非国教徒は重要な役割を果たし、いわゆる〈公共圏〉の拡張に寄与しました。
同時に、限界は明白でした。第一に、〈公職への道〉は原則閉ざされたままで、自治体の役職・軍職・官職から非国教徒を締め出す装置(審査法・コーポレーション法)が温存されました。これに対し、国教会の聖餐に「たまに与る」ことでテストを形式的に通過し公職につく〈時折聖餐(Occasional Conformity)〉という抜け道が横行し、これを禁じる1711年法とその撤回(1719年)という政治的綱引きが続きます。第二に、カトリックは〈対象外〉のままで、自治権や教育・財産の制限は長く残りました(カトリック解放は1829年)。第三に、反三位一体派への刑罰(冒涜法等)は1813年まで撤廃されず、〈寛容〉の範囲は神学的に狭く切られていました。
また、寛容法はスコットランドやアイルランドの状況を全面的に処理したわけではありません。スコットランドでは長老主義教会の制度が固まりつつも、〈寛容〉の線引きは別の経路をとり、アイルランドでは1719年寛容法が長老派に適用される一方、カトリックに対する〈刑罰法(Penal Laws)〉は苛烈に続きました。帝国的広がりの中で見れば、寛容は段差の大きいパッチワークでした。
それでも、〈王の恩寵ではなく議会立法〉という形式は大きな意味をもちました。以後、宗教的差別の緩和は、請願・議論・法改正という公開の政治プロセスを通じて進むのが通例となり、19世紀の〈審査法撤廃(1828)〉〈カトリック解放(1829)〉〈ユダヤ人解放(1858)〉へと連続していきます。寛容法は「完全な自由」ではなく「制度化された妥協」でしたが、〈交渉可能な枠〉ができたことが決定的でした。
比較と継承—他地域の「寛容」とのちの法改正
世界史の用語として「寛容法」と言うとき、1689年のイングランド法を指すのが一般的ですが、英語圏にはこれと別に、1649年メリーランド植民地の〈宗教に関する法(Maryland Toleration Act)〉という先例もあります。これは〈三位一体を信じるキリスト教徒〉に信仰自由を与える一方、反三位一体派には刑罰を科す「狭い寛容」で、のちに内戦と政変のなかで撤回・復活を繰り返しました。比較すると、いずれも〈対象の限定〉〈登録・宣誓などの条件〉〈公職資格の制限維持〉という共通点をもち、近世的秩序のなかで宗教的多様性を部分的に認める〈段階的解禁モデル〉だったと整理できます。
イングランド本国の寛容法は、18〜19世紀の改正で少しずつ裾野が広がります。1753年の〈ユダヤ人自然化法〉は世論の反発で撤回されましたが、18世紀後半からユダヤ人市民の地位は漸進的に改善し、1858年に議会議員就任の宗教テストが撤廃されます。反三位一体派刑罰撤廃(1813)、審査法・コーポレーション法の撤廃(1828)、カトリック解放(1829)は、〈寛容〉を「例外的許容」から「権利」として再定義していく長い過程でした。非国教徒の大学入学制限も、オックスフォード・ケンブリッジの宗教テスト撤廃(1871)でようやく解かれます。
思想史的に言えば、ロック『寛容についての書簡』(1689)は、〈国家が救済の問題に介入しても魂を救えない〉という論点から教会と国家の役割分担を主張しました。ただし彼自身もカトリックや無神論を〈寛容〉の範囲外に置くなど、同時代の〈限界〉を共有しています。実務の法と思想の理論が相互作用しつつ、「寛容」はしだいに〈信教の自由〉へとトランスフォームしていきました。
総じて、1689年の寛容法は、宗教と国家の関係を「全包含」か「全面対立」かの二分法から救い出し、〈優位な国教+条件付きの寛容〉という運転モードを作った制度でした。その枠は狭く、差別も温存されましたが、法に基づく可視的なルールを定めることで、紛争を交渉可能なテーブルへ移し替える効果をもたらしました。のちの拡張・改正の歴史を含めて理解することで、「寛容法」という用語は、近世ヨーロッパの統治と宗教が共存の条件を探った試行錯誤の核心を照らす言葉として、より立体的に見えてくるはずです。

