亀船(亀甲船) – 世界史用語集

亀船(きせん/亀甲船〈きっこうせん〉)は、16世紀末の壬辰・慶長の役(文禄・慶長の役、1592–1598年)において、李舜臣(イ・スンシン)率いる朝鮮水軍が用いた突撃・近接戦闘用の軍船を指します。船体上部を甲板で覆い、無数の鉄釘や棘で防御し、船首の「亀の頭」から硫黄煙を吐いて敵船の視界と士気を乱すなど、白兵戦中心の当時の海戦に特化した設計が特徴です。潮流の激しい朝鮮沿岸での機動と、弓・火砲・火箭・火縄銃・長柄武器の組合せにより、日本側の大型安宅船や小回りの利く関船に対して高い戦果を挙げました。後世には「世界初の鉄甲艦」とする誇張も広まりましたが、実際には船体全面が鉄板で覆われていた確証は薄く、上部甲板の棘や部分的な鉄の補強が現実的と見られます。亀船は、朝鮮水軍の戦術革新と造船・火器の統合の象徴であり、海域アジアの軍事史を考えるうえで重要な事例です。

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成立背景と史料:なぜ「亀」の名か

亀船の原型は、15世紀の朝鮮王朝で試作された覆い甲板付きの軍船に遡るとされますが、本格的に戦列化されたのは李舜臣の全羅左水営での改革期(16世紀末)です。倭船が白兵戦による乗り込みを得意としたのに対し、朝鮮側は上甲板を完全に覆って敵の接舷・跳梁を防ぎ、側面と船首尾から集中的に射撃・投射を行う「打撃→離脱」の戦法を志向しました。この外形が、硬い甲羅を持つ亀を連想させたため「亀船」と呼ばれるようになったと考えられます。船首には装飾と実用を兼ねた「亀頭(龍頭とも)」が備えられ、内部に仕込んだ煙幕装置から硫黄や硝石を焚いて白煙を噴出させ、敵の視界・呼吸を阻害しました。

一次史料としては、李舜臣の『乱中日記』、朝鮮王朝の実録資料、同時期の軍器都監関連文書、さらに日本側の武将書状や記録があり、後世には李忠武公全書や朝鮮後期の軍学書に形状・寸法・武装に関する伝承がまとまります。ただし、絵図や模型は時代により差異があり、棘や甲板の構造、船首像の形状、火砲配置などには複数のヴァリアントが存在します。ゆえに、亀船は単一の固定規格というより、戦域・造船所・時期に応じた改良型の総称と見るのが妥当です。

名称の別称「亀甲船」は、上部甲板に多数の小窓(射撃孔)と格子状の梁が走る外観を、亀の甲羅の文様に擬えたものです。甲羅状の覆いは敵の石・矢・火器から乗員を守り、同時に甲板上に撒かれた鉄釘(逆茄子形の撒菱のようなもの)や突起で敵兵の飛び移りを阻止する役割を果たしました。

構造と武装:覆い甲板・煙幕・火砲の統合作用

船体は朝鮮の汎用軍船である板屋船(パナソン/パンオソン)を基礎とし、浅い喫水と幅広い船体で安定性と旋回性を確保しました。潮差が大きく岩礁の多い沿岸・内海での戦闘を前提に、外洋の長期航海よりも短距離での急加減速・反転を重視しています。推進は複数のオールと帆を併用し、風向に依存せず潮流を読んで自在に舵を切れることが生命線でした。舵は高い位置に配され、浅瀬での座礁回避に配慮されたと考えられます。

上部の覆い甲板(屋根)は、厚い板材と梁で組まれ、等間隔に開いた射撃孔・投射孔から火縄銃、弓、火箭、火砲の射撃が可能でした。甲板上面には鉄釘や尖鋭の棘を固定し、敵の接舷と跳乗を物理的に阻止します。この覆いの存在が、倭兵の得意とする白兵突入を封じ、朝鮮側が一方的に射撃優位を取れる条件を作りました。

船首の亀頭(龍頭)は象徴的要素であると同時に、実用的な突角(衝角)として機能した可能性がありますが、衝角戦法は船体損傷のリスクが高く、主戦術はあくまで射撃と煙幕による撹乱・近寄せ拒否でした。内部に組み込まれた煙幕装置は、硫黄・硝石・松脂などを焚いて白煙・刺激臭を発生させ、風下の敵船に浴びせかけます。視界遮断は火縄銃・弓の命中率を落とし、士気を萎えさせる心理効果も狙いました。

火砲は当時の朝鮮が得意とした鋳造技術の産物で、天字・地字・玄字・黄字といった口径別の砲(総称「砲」)を船体の前後左右に配置しました。旋回式の砲座や多方向の銃眼は、敵の包囲・接舷を許さない全周火力を実現します。さらに、複数管から矢や小鉄矢を一斉発射する火箭装置(しばしば「火車」「火箭床子」と総称、後世の挿絵では「火車〈ファチャ〉」と混称)や、火薬壺・焼夷弾の投下も組み合わされました。これらの火器は船体の安定性と相性が良く、波の穏やかな内海・湾内で大きな破壊力を発揮しました。

しばしば語られる「鉄甲説」については注意が必要です。全身を鉄板で覆った装甲艦というイメージはロマンに満ちますが、当時の朝鮮の製鉄・造船技術、排水量、浮力、重心管理を考えると、広範囲の鉄板装甲は現実性に乏しいと評価されます。むしろ、甲板上の棘・金具、銃眼周辺の補強、要所への鉄帯、舳先の鉄製覆いなど、限定的な鉄の使用が合理的です。重要なのは、鉄そのものよりも、覆い甲板の構造と戦術の組み合わせが、敵の乗り込み優位を打ち消した点にあります。

戦術運用と海戦:閑山島・鳴梁・露梁の経験

亀船は単独で戦場を制する「切り札」というより、板屋船中心の艦隊に組み込まれた特攻・突破・撹乱の役割を担いました。李舜臣の戦術は、地形・潮流・風向を徹底的に活用し、敵艦を誘導・分断して一方的な射界に晒す「地形戦」でした。代表例である閑山島海戦(1592年)では、亀船が先頭で敵陣を突き崩し、背後から板屋船が集中砲火を浴びせる「鶴翼」的展開で日本側を大破させました。湾内での旋回・反転を繰り返し、接舷戦を避けつつ、敵の船隊を細切れにして各個撃破するのが基本です。

鳴梁海戦(1597年)は、亀船の数が限られた状況ながら、鳴梁海峡の強烈な潮流を利用して少数で多数を翻弄した戦いとして知られます。この戦い自体で亀船が決定的役割を果たしたかは議論がありますが、少なくとも覆い甲板と全周火力の思想は、小型・少数の艦でも狭水道での優位を確保する設計思想として継続していました。最終局面の露梁海戦(1598年)でも、朝鮮・明の連合艦隊において、亀船を含む朝鮮艦が日本軍の撤退阻止に貢献しています。

日本側の安宅船・関船は、火縄銃の斉射と白兵突入に優れ、接舷して甲板上の肉弾戦に持ち込むのが常道でした。亀船はまさにこの常道を外し、接舷を拒否して中距離火力で損害を与え、敵の隊形が崩れたところに短時間接近して再び離脱するヒット・アンド・アウェイを実現しました。潮流と地形が鍵で、李舜臣は敵を不利な向きに立たせ、味方が追い潮と風上を取る時間帯を選んで会戦に持ち込みました。

比較と評価:海域アジア軍事史の文脈で

亀船の意義を理解するには、同時代の海上戦力との比較が有効です。東アジアでは、明の福船・沙船、倭の安宅船・関船、琉球や東南アジアの帆走船などが活躍しました。西洋のガレー船・ガレオンは大洋横断や砲戦に適合しつつありましたが、朝鮮沿岸の複雑な海況では、小回りと浅喫水、潮流対応のオール推進が重要でした。亀船は、閉鎖的上甲板と全周火力という点で、地中海の「砲門ガレー」と一部の思想を共有しつつも、接舷拒否と煙幕・棘による対人防御を徹底した点で独自です。

技術的には、火砲と船体安定性のバランス、射撃孔の配置、乗員保護の工学が統合されました。戦術的には、地形決戦・潮流活用・欺騙の組み合わせが核心で、単なる「強力な船」ではなく「環境を味方に付ける艦隊運用」の一環です。ゆえに、亀船のみを抽出して「最強」「世界初」といった称号で語るのは適切ではなく、朝鮮水軍全体の制度改革(補給・造船・練度・指揮統制)と不可分の成果として評価するのが妥当です。

後世、亀船は朝鮮・韓国における防衛の象徴として国民的記憶に刻まれ、記念艦・復元模型・映画・教科書で広く知られる存在となりました。その過程で、鉄板装甲説や衝角主戦術などのロマン化も進みましたが、近代的な史料批判は、木造・覆い甲板・部分鉄補強・全周火力という現実的な構成を支持します。象徴としての価値と、実物の技術的・戦術的特性を分けて理解する態度が求められます。

総じて、亀船は朝鮮水軍の創意工夫と地域環境に適応した軍事技術の結晶でした。覆い甲板と防人装置で白兵戦のリスクを抑え、火砲・弓・火器の混成で敵を圧倒し、煙幕・潮流・地形で勝機を作る――これらの組み合わせが、日本側の得意とする「乗り込み優勢」を体系的に無力化しました。亀船の成功は、単一の装備の優越ではなく、地理・技術・訓練・指揮が合成された「運用の勝利」であったと理解すべきです。