キプチャク・ハン国(一般に「金帳(きんちょう)汗国」Golden Horde とも呼ばれます)は、13世紀半ばにモンゴル帝国のジョチ家がユーラシア西部の草原地帯(ポントス草原=キプチャク草原)とヴォルガ中下流域を中心に築いた政権です。バトゥの西方遠征ののち、サライを都としてルーシ諸公国・ヴォルガ・ウラル周辺・黒海北岸の遊牧民・都市商業を包摂し、東はシベリア西端から西はドナウ下流に至る広域の秩序をつくりました。税・駅伝・通商を整え、ヤルリク(免許状)を通じてルーシの公位継承を裁定した支配は「タタールの軛」として記憶されますが、他方で宗教寛容と交易保護、イスラーム受容後の法秩序整備などを通じて地域社会の再編を進めた国家でもありました。14世紀にイスラーム化を遂げたのち、ティムールの侵攻や内紛で分裂し、最終的にカザン・アストラハン・クリミア・シビル・ノガイなどの後継諸政権へと派生しました。近世のモスクワ国家の台頭、オスマン帝国・リトアニア=ポーランドとの角逐、黒海—ヴォルガ交易の変容など、東欧・ロシア・中央アジアの形成に決定的な影響を与えた存在です。本稿では、成立と領域、政治・支配と宗教、経済・通商と都市文化、周辺との関係と分裂、遺産という観点からわかりやすく解説します。
成立と領域:ジョチ家の西方ウルス
起点はチンギス・ハンの長子ジョチの分封にあります。ジョチ本人は遠征途上で没したとされますが、その子バトゥが1236年以降の西方遠征を主導し、ヴォルガ・ブルガールを服属させ、ルーシ諸公国(ウラジーミル、キエフ、リャザン等)を征圧、1241年にはポーランド・ハンガリーにまで軍を進めました。オゴタイ・ハンの死に伴う帰還後、下ヴォルガの交通の要衝に建設されたサライ(のち「サライ・ベルケ」「新サライ」へ発展)が政治・経済の中心となり、ここを拠点に「ジョチ・ウルス(ジョチ家の領域)」が確立します。
領域は時期により変動しますが、基本的にはヴォルガ中下流、ウラル以西の森林—草原移行帯、黒海北岸の草原(ポントス草原)を含みました。北にはルーシの森林地帯、東にはカザフ草原、西にはドナウ下流とカルパチア縁辺、南にはコーカサス—クリミア—アゾフ海沿岸が接し、遊牧・半遊牧と都市オアシス、河川・海の物流が交差する地帯でした。ジョチ家内部では東方の「白帳」・西方の「青帳」(逆の伝承もあり)といった分掌観念が語られ、オルダ、シバン、トカ・テムルなど支系が各地に根を張りました。
政治・支配と宗教:ヤルリク・バスクァクからイスラーム化へ
支配の骨格は、モンゴル帝国由来の軍政・駅伝と、被支配地域の制度の組み合わせでした。ルーシ諸公国は自立的な内政を保ちながらも、ジョチ家の宗主権を認め、貢納と軍事的協力を課されました。サライから派遣される監督官(バスクァク)が人口・税の把握や治安を担い、のちには現地の公を通じて徴収する間接統治が主流となります。ハンはヤルリク(勅許状)を発給し、ウラジーミル大公位など主要公位の継承を裁定しました。これによりルーシ内部の主導権争いは、サライの承認を得る外交競争へと枠づけられ、モスクワ公国は機動的な納貢と対外交渉で徐々に優位を築きます。
宗教政策は寛容が基本でした。キリスト教会(正教会)は納税免除や財産保護のヤルリクを受け、司祭・修道院は布教と社会福祉を維持しました。他方、13世紀後半にベルケ・ハンがイスラームを受容すると、イスラームの影響が政権中枢に浸透します。ベルケはイルハン国のフラグと対立し、マムルーク朝エジプトと連携してコーカサスで抗争しました。14世紀にはウズベク・ハン(在位1313–1341)が国家宗教としてイスラームを推進し、イスラーム法(シャリーア)の枠組みとワクフ(寄進財産)が整備され、サライやボルガルでモスク・マドラサが建てられました。とはいえ、草原社会の慣習法(ヤサ)や遊牧貴族の権威も強く、イスラーム化は都市と宮廷を中心に段階的に進行しました。
統治は家臣団と王族の合議、婚姻・分封・再分配で成り立ち、しばしば後継争いが生じました。ノガイなど有力軍司令官が台頭して半独立化する局面、ジャーニ・ベク期の一時的な集中など、権力の集中と分散が交互に訪れます。王権の正統性はチンギス家血統に依拠しつつ、ルーシ・コーカサス・ヴォルガのエリートとの人質・婚姻・贈答で関係を維持しました。
経済・通商と都市文化:ヴォルガと黒海を結ぶネットワーク
キプチャク・ハン国の繁栄は、交易と課税に支えられました。ヴォルガ川は内陸水運の大動脈で、毛皮・蝋・蜂蜜・穀物・家畜・漁獲物・奴隷が上下流を行き来しました。黒海北岸のクリミア半島では、ジェノヴァやヴェネツィアの商館都市(カッファ、タン)と連携して、東西交易の節点を形成しました。イタリア商人は銀・織物・ワイン・工芸品を持ち込み、代わりに奴隷・毛皮・穀物などを購入し、地中海世界へ供給しました。コーカサス越えのルートは、トレビゾンドなどを経てアナトリア・地中海へ通じ、さらに東方はホラズム・カスピ海沿岸を通って中央アジアと結びつきました。
サライは国際都市でした。市場とキャラバンサライ、鋳貨・度量衡の標準、モスク・教会・商館が混在し、職人・商人・聖職者・官僚が集住しました。貨幣はディルハム系の銀貨や銅貨が鋳造・流通し、ウズベク・ハン期にはアラビア文字銘のイスラーム貨幣体系が整備されます。課税は関税・市税・交易税・頭税などが組み合わされ、遊牧地では家畜単位の貢納が採られました。牧畜と農耕、都市手工業の三位が連結する分業は、草原—森林—河川—海の境界に立つ国家の地の利を生かした構造でした。
文化面では、テュルク系(キプチャク語)とモンゴル語、さらにはペルシア語・ロシア語・アラビア語が併存し、文書はアラビア文字やウイグル文字で作成されました。ヤルリクは外交文書・免許状として重要で、ルーシの修道院免税や公位承認に関する原文が伝わっています。音楽・詩歌・叙事詩は遊牧貴族のサロン文化と結びつき、都市ではイスラーム学知が芽生えました。14世紀半ばの黒死病は黒海港市から広がり、クリミア—地中海—欧州へと伝播した可能性が指摘されますが、その危機を経ても交易の枠組みは継続しました。
周辺との関係:ルーシ、イルハン、マムルーク、リトアニア
ルーシとの関係は、服属と自律の混交でした。ノヴゴロドやトヴェリ、モスクワなどの公国はヤルリク獲得のためにサライに使節を送り、納貢と軍役を果たしました。モスクワは巧みな納税代行・徴税官としての役割を引き受け、競争相手を排除しつつ影響圏を拡大します。14世紀後半には、ドミトリー・ドンスコイがクリコヴォの戦いでハン国の将ママイを破り、象徴的な自立の一歩を刻みましたが、トクタミシュがモスクワを焼打ちするなど、支配の回復も見られました。やがて1480年、ウグラ川の対陣でモスクワ側が実質的に貢納関係を断ち、ルーシの独立性が確立していきます。
南方では、ベルケ期以降、イスラーム受容を契機にイルハン国(イラン・イラクのモンゴル政権)との対立が激化し、コーカサスをめぐる戦闘が続きました。同時に、エジプトのマムルーク朝とは交易・外交同盟を結び、反イルハンの軸を形成します。西方では、リトアニア=ポーランド連合が黒海北岸に勢力を伸ばし、南ロシア・ベラルーシの公国群を取り込みつつ、キプチャク草原の勢力とせめぎ合いました。ノガイ・オルダの自立化、ワラキアやモルダヴィアとの関係も複雑に交差し、黒海世界は多極的な力の場となりました。
分裂・変容と後継政権:ティムールの衝撃からクリミアへ
14世紀後半、王位継承争いが続く中で、中央アジアの覇者ティムールが介入し、トクタミシュ(当初はティムールに擁立された)が一時的に統一を回復します。しかし、のちにティムールと対立して1395年にサライが破壊され、交易拠点と行政中枢は致命的打撃を受けました。これ以降、キプチャク・ハン国は事実上の分裂期に入り、ヴォルガ—カマ流域にカザン・ハン国、下ヴォルガにアストラハン・ハン国、黒海北岸にクリミア・ハン国、ウラル—西シベリアにシビル・ハン国、草原にはノガイ・オルダなどが台頭します。クリミアはオスマン帝国の保護下で海上・草原の連結国として長く存続し、カザン・アストラハンは16世紀半ばにモスクワ国家(イヴァン4世)に征服され、ヴォルガ—カスピの秩序はロシアの勢力圏に組み込まれていきました。
分裂後も、ジョチ家血統の権威は各ハン国で継承され、キプチャク系言語とイスラーム文化はヴォルガ—ウラル—黒海北岸に深く根づきました。ルーシ世界においても、徴税・軍制・外交儀礼・郵驛制など、モンゴル—キプチャク期に整えられた制度はモスクワ国家の形成に影を落とし、貴族(ボヤール)と軍役身分、文書行政の技法、都市の空間構成にまで影響を及ぼしました。
遺産と歴史的意義:草原・河川・海を束ねた秩序の記憶
キプチャク・ハン国の歴史的意義は三点にまとめられます。第一に、草原—森林—河川—海をつなぐ交通・交易の秩序を構築し、東欧から中央アジアにかけての物資と人の流れを安定化させたことです。ヴォルガ水運と黒海港市、コーカサス越え、カスピ海周航が組み合わさり、ユーラシアの「横の連結」を支えました。第二に、宗教寛容と後のイスラーム国家化という二相の経験を通じて、多文化的共存と宗教法治のモデルを提示したことです。第三に、ルーシ国家の台頭と中央集権化、オスマン・リトアニア・ティムール朝との力学、さらには黒死病の伝播や奴隷貿易の構造など、前近代ユーラシア史の多数の重要事象に交差点として関与したことです。
今日、サライ遺跡やヴォルガ—黒海沿岸の考古学的成果は、都市計画・貨幣・工芸・信仰施設の具体像を明らかにしつつあります。文書史料(ヤルリク、年代記、商人記録)と合わせることで、征服としての記憶と、通商・制度形成としての持続の双方をバランスよく理解することが可能になります。キプチャク・ハン国は、征圧と交易、遊牧と都市、イスラームと多宗教、分裂と継承という対立軸を架橋した「中間世界」の国家でした。その実像に近づくことは、東欧・ロシア・中央アジアがどのように現在の姿になったのかを学ぶうえで欠かせない視座を与えてくれます。

