九ヵ国条約 – 世界史用語集

九ヵ国条約とは、1921~22年のワシントン会議で締結された、中国に関する国際秩序の原則を定めた多国間条約の通称です。参加国は中国、アメリカ合衆国、イギリス、日本、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ポルトガルの九ヵ国で、基本理念は〈中国の主権・独立・領土保全の尊重〉と〈門戸開放・機会均等〉でした。簡単に言えば、列強が中国での特権争いを一定のルールに従わせ、領土の切り取り競争を抑制しつつ、公平な通商の原則を確認した取り決めです。ただし、軍事力や権益の不均衡はそのまま残ったため、条約は中国の完全な主権回復を保障するものではありませんでした。1930年代に入ると満洲事変などの現実が条約秩序を揺さぶり、理想と力のギャップが露わになっていきます。まずは〈中国問題をめぐる列強間の共通ルールを定めたが、実効性には限界を抱えた多国間条約〉と理解すれば、大枠をつかめます。

以下では、成立の背景、条約の内容と仕組み、国際政治への影響と限界、その後の展開という順で、九ヵ国条約の射程を丁寧に説明します。

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背景――ワシントン会議とアジア太平洋の再編

第一次世界大戦後、世界は軍拡競争の歯止めと戦後秩序の設計を迫られました。ヨーロッパでは国際連盟が発足し、海軍軍備をめぐっては英米日の対立が深刻化します。アジア太平洋では、日本が山東・南洋群島などで権益を拡大し、中国では軍閥割拠が続き、列強は治外法権・租界・関税自主権の制限など旧来の特権を維持していました。アメリカは門戸開放政策(Open Door)を掲げ、中国市場への平等なアクセスを重視しつつ、日本の地域的優位が固定化することを警戒していました。

こうした状況の下で、1921年11月から22年2月にかけてワシントンで国際会議が開催され、海軍軍縮(三国・五カ国の比率を定めるワシントン海軍軍縮条約)、太平洋の勢力均衡(四ヵ国条約)、そして中国問題に関する枠組み(九ヵ国条約)が並行して議論されました。中国代表が会議に参加し、中国の主権と権利を国際文書に明記させる機会が与えられた点は、それまでの「当事者不在の取り決め」とは異なる新機軸でした。もっとも、中国国内は統一が進まず、列強の対中姿勢も経済・安保の利害に左右され、理念と現実のあいだには常に隔たりがありました。

内容――主権尊重・門戸開放・機会均等の原則化

九ヵ国条約は、前文と本文条文からなり、核心は次の三点に集約できます。第一に、中国の主権・独立・領土保全の尊重です。列強は相互に、この原則に反する行動を慎み、侵略的手段による権益拡大を否認する姿勢を示しました。第二に、門戸開放・機会均等の確認です。すべての締約国が中国での通商・産業活動について平等な機会を持つこと、特定国が独占的権益を主張しないことがうたわれました。第三に、中国の行政・財政・司法改革を支援し、不平等条約の改正に向けた協議を進めることが盛り込まれました。

この枠組みを具体化するために、列強は複数の関連取り決めや覚書を交わしました。たとえば、関税自主権の漸進的回復に向けて関税会議を開催すること、治外法権(領事裁判権)の廃止に向けた制度整備を検討すること、鉄道・関税・塩税など財政基盤に関する国際監督の見直しを行うことなどです。山東問題では、別個の取り決めにより日本が山東半島の旧ドイツ権益を中国へ返還するプロセスが定められ、日中交渉(山東還付)が進みました。これらは、19世紀以来の対中不平等体制に一定の修正を加える試みでした。

制度面では、条約には紛争が生じた場合に協議を行う規定が設けられ、互いの通報義務や協議手続きが整備されました。ただし、強制力を持つ制裁メカニズムや常設の執行機関は設けられず、履行は締約国の善意と国際世論、そして列強の利害均衡に委ねられていました。つまり、九ヵ国条約は法的拘束力を持つ国際約束でありながら、集団安全保障の制度ではなく、実効性は構造的に限定されていたのです。

影響と限界――「理想の文言」と「力の現実」のズレ

九ヵ国条約は短期的には一定の効果を持ちました。ワシントン会議全体の成果として、海軍軍縮と太平洋における勢力均衡の確認が進み、中国に関しても列強の無秩序な権益競争に歯止めがかかりました。山東還付に象徴されるように、領土主権の形式的回復がいくつかの地域で実現し、中国の関税自主権についても増税や関税制度の見直しが段階的に進展しました。国際連盟や各国議会・世論は、条約の理念を支える圧力として機能し、中国国内の民族運動に対しても一定の鼓舞効果を与えました。

しかし、根本的な限界は三つありました。第一に、条約は中国に対する既存の特権体制(租界、鉄道利権、関税・塩税の担保、治外法権)を直ちに廃止するものではなく、あくまで「漸進的な改正」を約束するにとどまりました。第二に、条約の履行を担保する集団的措置が弱く、違反が生じても自動的な制裁や軍事的抑止は働きません。第三に、中国国内の政治的分裂(軍閥、北洋政府と広東政府の対立、のちの国共対立)が列強の思惑と絡み、条約の理念が現場で一貫して適用される条件が整いませんでした。

これらの限界は、1931年の満洲事変で一気に露わになります。日本の関東軍が南満洲で軍事行動を拡大すると、中国政府は九ヵ国条約違反を訴え、列強に共同歩調を求めました。九ヵ国条約締約国会議(九ヵ国会議)がロンドンなどで開催され、国際連盟の枠組みでも調査(リットン調査団)が行われましたが、最終的に日本の行動を実力で止めることはできず、国際的非難決議と勧告にとどまりました。アメリカのスティムソン宣言(攻撃によって権利を得ない・既存条約を破る事態を承認しないという不承認方針)は、九ヵ国条約の精神を再確認したものの、現場の力学を大きく変えるには至りませんでした。

こうして、九ヵ国条約は「理想の文言」と「力の現実」のズレを抱えたまま、1930年代のブロック化と戦争への道の中で影響力を失っていきます。条約そのものが破棄宣言で消滅したわけではありませんが、集団的履行の意志と能力が低下したことで、規範としての重みは急速に軽くなりました。

その後の展開――戦後秩序との接続と歴史的評価

第二次世界大戦後、中国(中華民国から中華人民共和国へ)をめぐる国際秩序は再編され、国際連合の集団安全保障体制やブレトンウッズ体制が整えられました。九ヵ国条約が掲げた主権尊重や門戸開放の理念は、国連憲章の領土保全原則や最恵国待遇・無差別原則(GATT→WTO)の形で、より包括的な制度へと受け継がれていきます。他方、戦後のアジアでは、冷戦構造のもとで安保体制が二極化し、中国の体制や対外政策の変化により、市場アクセスや投資の原則は政治関係に大きく左右されました。九ヵ国条約は直接の法的効力を失いながらも、〈勢力圏の固定化を避け、通商の機会均等を確保する〉という発想を歴史的前提として残したと言えます。

歴史学の評価では、九ヵ国条約は「列強の現実利益を調整するための最小公倍数的合意」であったと同時に、「中国の主権回復を国際的規範として明文化した画期」でもあったと捉えられます。前者の視点は、条約が実力での侵略を阻止できなかったこと、既得権益の骨格を維持したことを指摘します。後者の視点は、中国代表が国際会議の公的テーブルに着き、主権・領土保全が明文化された事実の意義を強調します。実効性の欠如は確かでも、理念の共有が国際世論の基準を変えていく効果を持つ――この二面性こそが、九ヵ国条約という用語の核心です。

また、この条約は同時に締結された四ヵ国条約・ワシントン海軍軍縮条約と合わせて、一種の「三点セット」として理解されます。四ヵ国条約は太平洋の勢力均衡と協議義務をうたい、海軍軍縮条約は主力艦の保有比率と艦齢制限を定め、九ヵ国条約は中国問題の大原則を定めました。三者は互いに補完関係にあり、太平洋と東アジアの秩序を「協議・均衡・自制」の組み合わせで管理しようとする試みでした。これは、戦後の多国間主義や条約による安定化の先駆的モデルとして、制度史の観点からも注目されます。

さらに、条約が掲げた「門戸開放・機会均等」は、単なる自由貿易のスローガンではなく、帝国主義時代の特権的勢力圏を相対化する規範でした。特定国の独占的条約権益(租借・勢力範囲)を正当化する論理に対し、共通ルールのもとでのアクセス平等を持ち込むことで、列強間の競争を「管理された競争」に変えようとしたのです。これは、地域覇権の固定化を避けたい国(当時のアメリカなど)にとって合理的であり、また中国にとっても完全ではないにせよ相対的改善をもたらすものでした。

他方、条約の限界を直視する視点も重要です。中国の統一が遅れ、関税自主権・不平等条約改正の歩みが緩慢だったこと、対日関係の悪化と軍事的緊張の高まりに国際社会が有効に対応できなかったことは、九ヵ国条約の「制度としての弱さ」を示しています。特に、強制力を伴う集団安全保障を欠いたこと、違反への自動的制裁メカニズムがなかったことは、1930年代の危機において致命的でした。

総じて、九ヵ国条約は、戦間期の国際政治が模索した「法と協議による秩序管理」の一つの到達点であり、同時にその脆さを映す鏡でした。理想の文言を国際条約に刻みながら、それを裏打ちする政治的意志と安全保障の枠組みが伴わないと、規範は容易に掘り崩される――この戒めは、その後の国際制度設計に深く影を落とし、戦後のより強固な多国間体制の形成へとつながっていきます。九ヵ国条約という言葉は、アジア太平洋の秩序史を学ぶうえで、理念と現実の交差点を示すキーワードであり続けています。