クシャーナ朝 – 世界史用語集

クシャーナ朝は、中央アジアから北西インドにかけて前1世紀末〜後3世紀に栄えた大帝国で、ユーラシア内陸の騎馬遊牧系勢力がオアシス都市とインド平原の経済圏に接続して生んだ、きわめてハイブリッドな国家です。起源は月氏(大月氏)の一支族で、ガンダーラ・バクトリア・パンジャーブ・ガンジス中流域に勢力を広げ、カニシカ1世の時代に最盛期を迎えました。通商・貨幣・仏教・イラン系神祇・ヘレニズム美術が混ざり合い、いわゆる「ガンダーラ美術」や金貨制度、シルクロード交易のネットワークを媒介しながら、東西文化の交差点として深い足跡を残しました。首都はプルシャプラ(現ペシャーワル)を中核とし、マトゥラー、ベグラム、タクシラ、バクトラなどが主要都市として繁栄します。本稿では、成立と拡大、政治と経済の仕組み、宗教と美術の融合、衰退と遺産という四つの観点から、クシャーナ朝の魅力と歴史的意義をわかりやすく整理します。

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成立と拡大:大月氏の一支族からユーラシアの結節点へ

クシャーナ朝の源流は、前2世紀に匈奴の圧迫を受けて西遷した大月氏にあります。彼らはフェルガナ・ソグディアナを経てバクトリア(バクトラ周辺)に定住し、いくつかの部族連合を形成しました。このうち「グシャナ(クシャーナ)」と呼ばれた一支族が頭角を現し、前1世紀末〜後1世紀にかけて勢力を拡大します。初期の王としては、クジュラ・カドフィセス(クジュラ・カラプシャ)とヴィマ・タクトゥ、ヴィマ・カドフィセスらが知られ、やがてパンジャーブからインドのマトゥラー方面へ進出して恒常的な領域支配を築きました。

最盛期はカニシカ1世(在位年代には諸説)で、彼は王号に「王の中の王(shaonano shao)」や「天子(devaputra)」を掲げ、中央アジアのオアシス回廊からインダス・ガンジスの交易路までを実効的に掌握しました。北方はソグド・タリム盆地方面へ、南はマトゥラー・サーンチー・ナーランダー周辺の宗教・都市と結びつき、東西の往来を保護することで租税・関税収入を安定化させました。都はプルシャプラ(プシャカル改め)に置かれ、マトゥラーと二都的に機能します。また、ベグラム(アフガニスタン)の宮殿遺跡からはローマ産ガラス器や中国漆器が出土し、宮廷が国際交易の分配拠点であったことが具体的に示されています。

政治構造は、征服地に在地の都市共同体や小王を温存しつつ、サトラップ(在地総督)的な長官を配置する重層的体制でした。バクトリア語(バクトリアン、ギリシア文字表記)やカローシュティー、ブラーフミーなど複数の言語・文字が併用され、王権文書や碑文は地域に応じて使い分けられました。ラバタク碑文に見られるように、カニシカは公用語としてバクトリア語を用い、ギリシア語表記の伝統を自王朝の権威表現に取り込んでいます。

政治・経済・貨幣:金貨の大量発行とシルクロードの制度化

クシャーナ朝の統治を支えたのは、広域通商の保護と貨幣経済の徹底です。王権は宿駅・関門・橋梁の維持と護送を通じて、ソグド商人やインド商人、イラン系の交易ネットワークを束ね、香辛料、織物、宝石、金銀、象牙、ガラス器、漆器、中国絹など多様な商品が往来しました。ガンダーラとマトゥラーは宗教中心であると同時に手工業の拠点であり、彫像制作や赤色磨研土器、宝飾品などの高付加価値工芸が活況を呈しました。

貨幣はクシャーナ史を語る上で最大の物証です。初期の銀貨・銅貨に加え、ヴィマ・カドフィセス以降は高純度の金貨が大量に鋳造され、ローマ金貨の流入と相互影響が指摘されます。表面には王の立像・騎馬像、裏面にはギリシア神・イラン神・インド神などの多彩な神祇が配され、銘文は当初ギリシア語、のちにバクトリア語へと移行しました。たとえば「OESHO(ウエショー)」と記された像は、インドのシヴァ(ウマーパティ)と同定され、三叉戟や牡牛ナンディーとともに表現されます。ほかにも、ナナ(女神)、ミスラ(ミトラ)、ファルル(王権の栄光=フワルナ)、セラピスやヘラクレスに由来するヘレニズム神格までが登場し、王権が多神的世界を調停する力であることを視覚的に示しました。

税制は、市場税・通行税・職能税などの多段的な課税で構成され、都市の自治と王領直轄領のバランスを取りつつ運営されました。農業はインダス川・ガンジス川流域の灌漑を基盤に、麦・粟・稲・綿などが栽培され、騎馬・ラクダ輸送が交易の背骨を支えました。諸地域の貨幣が併存する中で、クシャーナ金貨は広域決済の共通媒体として機能し、経済統合の指標となりました。

宗教と美術:ガンダーラとマトゥラー、そして大乗仏教の転回

クシャーナ朝を象徴するのが、宗教の多元性と美術の融合です。宮廷はイラン系・インド系・ヘレニズム系の神々を同時に祀り、王は「神々の庇護者」として振る舞いました。この多元性のうえに、仏教の保護が重なります。特にカニシカは大乗仏教保護の伝承で名高く、カシミール方面での宗教会議(いわゆる「第4回結集」伝承)や、ナーガールジュナなど思想家との結びつきを示す文献伝承が広がりました。史実の細部は議論がありますが、クシャーナ期にサンスクリット仏典の編纂・流通が促進され、菩薩信仰や仏像礼拝が制度化したことは確かです。

美術面では、ガンダーラ美術マトゥラー美術が双璧をなします。ガンダーラはヘレニズムの写実とドラペリー表現を巧みに取り込み、波打つ衣文と理想化された顔貌をもつ釈迦・菩薩像を量産しました。アポロ型の顔立ち、ヘラクレス風の金剛力士(ヴァジュラパーニ)の図像はその典型です。マトゥラーは印度在来の造形感覚を基礎に、赤砂岩の力強い肉体表現と正面性を特徴とし、仏像・ジャイナ像・バラモン教神像のすべてで豊かな展開を見せます。両者の間では職人・図像・需要が往来し、仏教聖地のストゥーパ装飾や奉納像、王権の記念碑など、多領域で相互に影響しあいました。

経典と翻訳の流通も、クシャーナの保護下で加速しました。中央アジアのオアシス都市(ホータン・クチャ・トルファン)を経て、漢地へ仏教が伝播する際、ガンダーラ系の言語・図像・僧団組織が媒体となり、仏像礼拝や菩薩信仰が受容されます。サンスクリット・プラークリット・ガンダーリー語など複数の言語世界が交差し、カローシュティーやブラーフミーの写本が長距離を移動しました。この過程で、宗教は交易とともに移動するというユーラシア史の大原則が、クシャーナの保護政策によって強化されたのです。

衰退と遺産:分裂ののちも生きる通商圏と図像・貨幣の力

3世紀に入ると、クシャーナ朝は外圧と内部分裂に直面します。西からはサーサーン朝ペルシアが台頭してガンダーラ・カブール方面へ影響力を伸ばし、北東からはクシャーン・ササニアンやキダラ朝(小クシャーナ)、のちにはエフタル(白匈奴)が進出しました。王統は西部と東部に分裂し、パンジャーブ・マトゥラー方面の支配は次第に弱体化します。それでも、クシャーナ的な貨幣様式・王号・宗教図像は後継政権に受け継がれ、通商網は断片化しつつも生き残りました。

遺産は多方面に及びます。第一に、貨幣制度の革新です。高品位金貨の流通は、インド亜大陸の後代王朝(例:グプタ朝)に継承され、王像と神祇の組み合わせというアイコノグラフィーは、美術と貨幣の相互参照を常態化させました。第二に、仏教の制度化と図像の定着です。仏像という新しい礼拝対象の普及、菩薩像の図像学、ストゥーパと回廊の装飾プログラムは、東アジア・東南アジアの仏教美術の基礎語彙となりました。第三に、文化融合のモデルです。クシャーナは、言語・文字・宗教・装飾モチーフを排他的に切り分けるのではなく、交易と権威の枠の中で選択的に編集し直す術を示しました。バクトリア語をギリシア文字で表記する実践、ギリシア神とインド神の並置、王権称号の複合は、その典型です。

考古学・文献学の面でも、クシャーナは研究の宝庫です。ラバタク碑文やマトゥラー碑文群、ベグラム遺宝、タクシラのストゥーパ群、ペシャーワル谷の大ストゥーパ基壇など、史料は多言語・多素材にわたり、歴史の再構成に立体的な手がかりを与えます。シルクロード研究においても、ソグド・パルティア・クシャーナ・サーサーンという連続の中で、交易と宗教、貨幣と美術の結びつきを実証する要石的存在です。

総じて、クシャーナ朝は「どこから来て、どの言語で、どの神を祀るのか」というアイデンティティを、多元性のまま統合した稀有な王権でした。東西の媒介者としての役割、金貨と図像の力、仏教と多神世界の調停—これらは、単なる地域王朝の枠を越えた世界史的意義を持ちます。クシャーナを学ぶことは、異文化接触と帝国運営、宗教の公共性と芸術の国際語が、どのように〈制度〉として成立するのかを理解する最良の窓口になります。