クック – 世界史用語集

「クック」とは、18世紀のイギリス海軍士官・探検家ジェームズ・クック(James Cook, 1728–1779)を指すのが一般的です。彼は三度にわたる大航海で、太平洋の島嶼世界・オーストラリア東岸・ニュージーランド・北太平洋の海岸線・南極海の広がりを地図に刻み、近代的な測量・航海術・疫病対策を実地で確立しました。天文学の観測(タヒチでの金星太陽面通過)を契機に出航し、王立協会や海軍、商務庁など学術と国家が連携した「科学航海」の典型となった人物です。彼の航海は新知識の獲得と同時に、先住民社会との接触・摩擦・病弊・植民地化の入口にもなりました。ここでは、背景と生涯、三つの航海の目的と成果、技術・科学上の革新、接触の光と影を、できるだけ分かりやすく整理します。

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生涯と背景:石炭積み港から王立協会の「科学航海」へ

クックはイングランド北東部ヨークシャーの貧しい農家に生まれ、思春期に炭鉱港ウィットビーの商船隊に徒弟として入りました。北海・バルト海の厳しい航海で操船と測量の腕を磨き、地図作成の素養を身につけます。七年戦争期に海軍へ転じると、カナダ東岸の水路測量で頭角を現し、河川・入江・潮汐・磁針偏差の計測を厳密に行う実務家として評価されました。18世紀半ば、ヨーロッパの学界は金星の太陽面通過の観測に熱を上げ、地球—太陽間距離(天文単位)を精度よく決めようとしていました。王立協会は太平洋での観測地点としてタヒチを選び、海軍は観測隊の護送と、その後の地理調査を託す艦長にクックを指名します。こうして、学術・測量・帝国政策が結びついた「第一次航海」が始まります。

クックの特色は、卓越した航海術と地図作成、部下や学者との協働、そして規律と健康管理の徹底でした。彼は水夫の壊血病を防ぐため、酸味のある食材(サワークラウトや麦芽飲料)や新鮮な野菜・海草を積極的に補給・配給し、船内の換気・清掃・衣類乾燥を厳格に指示しました。この「衛生と食の管理」は、当時の長期航海で死者を激減させ、科学航海の成果を支える基盤になりました。

第一次航海(1768–1771):タヒチの金星観測、NZ・豪州東岸の地図化

クックはエンデバー号で1768年に出航し、1769年にタヒチで金星の太陽面通過を観測しました。観測に同行した博物学者ジョゼフ・バンクスらは、植物標本・動物標本・民族誌的記録を大量に採集し、航海は移動する博物館のような性格を帯びます。タヒチでは首長階層との贈与交換や儀礼的交流を重ねる一方、物品の盗難・女性を介した取引・疾病の持ち込みなど、接触の負の側面も表れました。

観測後、クックは王令に従って南太平洋の未知海域を探索し、ニュージーランド(当時は二つの大陸と想定されがちでした)の周航に成功して二つの大きな島であることを実証、詳細な海図を残しました。続いて南西に進路を取り、オーストラリア東岸に接近して海岸線を測量し、ボタニー湾に上陸します。グレート・バリア・リーフでは座礁の危機に見舞われ、艦底の補修と潮汐計算の綱渡りで脱出するなど、克明な記録は海難と技術のせめぎ合いを伝えます。彼の海図は海岸線の曲折、礁・浅瀬の位置、入江・安全な碇泊地、補給可能な淡水の所在まで記し、後続の航海や植民計画に決定的なインフラとなりました。

この航海は「未知の大陸=南方大陸(テラ・アウストラリス)」の実在をめぐる仮説に冷水を浴びせ、太平洋の地理像を現実に引き寄せました。他方で、ヨーロッパ人の到来は先住のアボリジニやマオリ社会に緊張をもたらし、交易・贈与・誤解・暴力の連鎖が、のちの入植時代へとつながっていきます。

第二次航海(1772–1775):南極海横断と「南方大陸」神話の終焉

第一次航海の余勢を駆って、クックは二隻(レゾリューション号とアドヴェンチャー号)を指揮し、今度は南極海へ直接切り込む目的で出航しました。彼は高緯度の氷縁を渡り歩き、南緯60度を越える航程を繰り返して、巨大な「温暖で豊饒な南方大陸」が南半球の中緯度に広がるという古来の想像を実測で否定しました。南極そのものの大陸接岸はできなかったものの、環南極の海氷帯を横断・周航したことで、南極海の存在と南半球の海洋的性格が明確になりました。

この航海では、海時計(クロノメーター)の実地試験や、磁針偏差の系統計測、温度・気圧・海水比重の観測など、計測の近代化が進みました。クロノメーターは経度決定の精度を飛躍させ、海図の信頼性を一段引き上げます。クックは船員の健康管理と規律を引き続き徹底し、長期の極海航海にもかかわらず壊血病による死者をわずかにとどめました。太平洋諸島では再び接触と贈与・交易を重ね、航海記にはカヌー技術・航法・首長制・装身具・歌謡などの記述が蓄積され、島嶼世界の比較民族誌の素材が集まりました。

結果として、第二次航海は地理学の長年の仮説を整理し、海洋の連続性と気象・海流のパターンを明らかにし、海図と気象誌の交点に新しい視野を開きました。これにより、商船航路・捕鯨・探検の意思決定がより合理化され、帝国と経済の「海の計画」が加速します。

第三次航海(1776–1779):北西航路の探索とハワイでの死

三度目の航海でクックは、北太平洋側から大西洋へ抜ける北西航路の発見を目指しました。彼は太平洋を横断し、ハワイ諸島に到達します。ここでの上陸は、島人の高度な航海技術・社会秩序との出会いであると同時に、誤解と緊張の種でもありました。贈与交換と宗教儀礼に沿って友好的な関係が築かれたかに見えましたが、物資の窃盗や補給の行き違いが深刻化し、接触の連鎖は不安定さを増します。

さらに北上して北米西岸を測量し、ベーリング海峡に至って氷に阻まれると、越冬と補給のためハワイに戻りました。1779年、船の小艇盗難への対応をめぐって島人と衝突が起こり、混乱の中でクックは殺害されます。彼の死は、探検の栄光と危うさ、そして異文化接触の脆さを象徴する出来事として世界的に知られるようになりました。航海自体は部下に引き継がれて完遂され、北太平洋・北米西岸の正確な海図と、海流・季節風・潮汐の観測記録が残されました。

技術・科学・実務の革新:海図・衛生・計測・言語記録

クックの最も確かな遺産は、正確な海図実用的な航海マニュアルです。彼は測深・三角測量・磁針偏差の補正・経緯度の反復観測を重ね、危険個所の注記・潮汐表・寄港地の淡水と薪の所在・現地民の対応法まで、航海記に体系的に記しました。クロノメーターと月距法の併用は、子午線の一貫性を実務に引き込み、船乗りに「経度の感覚」を与えました。

衛生に関しては、壊血病の原因(ビタミンC欠乏)が当時は知られていなかったにもかかわらず、経験則で野菜・果実・麦芽飲料・酸味食品の定期支給と換気・乾燥・掃除の徹底を行い、長期航海の死亡率を劇的に下げました。これは医療史における画期とされています。さらに、天候・海況・海氷・生物相の観察は博物学と気象学の資料となり、島嶼世界の言語・語彙・航法・神話を採録した記録は、後世の言語学・民族学研究の基礎資料になりました。

また、クックは指揮官として、規律と柔軟性の両立を重視しました。上陸時の交渉窓口を限定し、贈与と取引のルール化、武器携行の制限、避難と退避の手順など、接触プロトコルを運用しました。とはいえ、ルールは万能ではなく、価値観の相違・誤解・病原の流入が、しばしば予期せぬ衝突を生みました。

影響と評価:地図の革命と植民地化の入口

クックの航海は、地図と海運の革命でした。太平洋の巨大な空白が埋まり、航路設計・気象予測・補給計画が合理化され、商業航海・捕鯨・宣教・軍事行動が一斉に活発化します。他方で、それは植民地化の入口でもありました。海図と寄港地情報は入植・支配のインフラとなり、疫病・アルコール・銃器・新しい交易体系は先住社会の人口・環境・権力バランスを大きく変えました。ハワイやアオテアロア(ニュージーランド)、オーストラリア沿岸では、接触から定住・領有・法の押し付けへと段階が進み、暴力と不平等の歴史が始まります。

評価は二面性を帯びます。科学史・地理学史の観点では、精密な測量・衛生・記録の革新者として高く評価されます。文化史・植民地史の観点では、接触の不均衡、贈与の誤読、力の差を背景にした暴力を不可視化しがちな「発見」の語りを批判的に検討すべきとされます。近年は、現地社会の視点—マオリやハワイアンの口承、島嶼の自律的航法、首長制の政治—を併置し、クック像を多角的に再構成する試みが進んでいます。

いずれにせよ、クックは「世界を縮めた」人物でした。航海記は、海と島を連ねる実務知の集積であり、同時に異文化接触の倫理の問題集でもあります。地図に引かれた線は、単なる経線・海岸線ではなく、人間の出会いと衝突・学びと搾取が折り重なる線でした。その歴史を読み解くことは、海の時代の遺産と責任をともに見つめ直すことにほかなりません。