甲申政変 – 世界史用語集

甲申政変(こうしんせいへん、朝: 갑신정변、英: Gapsin Coup)は、1884年(高宗21)に李氏朝鮮の首都・漢城(ソウル)で、急進的な近代化を目指す開化派の若手官僚・知識人が、清国の影響力を排して内政の主導権を握ろうと試みた三日限りの政変です。主導したのは金玉均(キム・オッキュン)、朴泳孝(パク・ヨンヒョ)、洪英植(ホン・ヨンシク)らで、日本公使館の後援を一部受けつつ、郵政開庁祝賀の饗宴を機に要人を急襲して政権樹立を宣言しました。しかし清国軍(袁世凱指揮)の介入と保守勢力の反撃で崩壊し、首謀者は日本に亡命、朝鮮はむしろ対清従属が強まる一時期を迎えます。短命に終わったものの、彼らの掲げた改革綱領は、身分制の撤廃・税制と官制の近代化・国家主権の確立など、その後の甲午改革(1894–96)へ継承される論点を先取りしており、東アジアの勢力均衡(清・日本・ロシア)と朝鮮の進路を考える上で外せない事件です。

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背景――壬午軍乱の余波、清の再介入と開化派の焦燥

19世紀後半の朝鮮は、開国(1876年の江華条約)以降、通商・外交の窓が開く一方で、財政難と社会矛盾が噴出していました。日本との通商開始は米や金の流出、価格変動を招き、官界・在来商人・農村に摩擦を生みます。1882年には旧式軍兵の待遇悪化と改革派への不満が爆発し、漢城で壬午軍乱が発生、日本公使館と日本人が襲撃され、高宗王室も動揺しました。この混乱に介入して鎮圧・調停の主導権を握ったのが清国で、袁世凱が常駐して朝鮮の内政・財政に深く関与する体制(事実上の宗主権の再強化)が築かれます。

清の保護下で、閔妃一族(閔氏)を中心とする保守・漸進派(事大党)が政権を主導しました。彼らは清との関係を重視しつつ税制・軍制の一部整備を進めましたが、近代的な国軍・財政・教育の抜本改革は遅れがちでした。若手の開化派は、日本の明治改革や清の洋務運動、欧米制度に学びつつ、上からの一気呵成の制度改造を志向します。金玉均・朴泳孝・洪英植・徐載弼(ソ・ジェピル)らは、留日・留学や外交を通じて新知識を吸収し、王権の下に近代的な内閣と官制を整える「王党的立憲改革」を構想しました。

1884年夏、清仏戦争(ベトナム問題)で清国がフランスと戦火を交えると、開化派は「宗主国の外部戦争で手薄な隙」を政変の好機と判断します。日本側でも、公使・花房義質の更迭後に着任した井上馨の下、朝鮮での影響力拡大を図る空気がありました。こうして、清の軍事的圧力に抗しうる「短期決戦型の宮廷クーデタ」が構想されていきます。

経過――郵政開庁の祝宴から三日天下へ

1884年12月4日(旧暦・甲申年冬)、新設の郵政機関「郵征局」の開庁祝宴が王宮近くで催され、王族・高官・外国公使が集いました。開化派はここを決行の場と定め、洪英植の配下が宴席で要人を急襲、保守派の重臣数名を殺害・排除します。その混乱に乗じて開化派は高宗を景福宮へ遷座させ、王命の形式で新政府樹立と改革綱領の公布を発表しました。彼らは日本公使館警備兵の支援を得て宮城と要衝の防衛線を敷き、清軍の出動を抑え込む算段でした。

政権掌握直後、開化派は「新政綱領」(史料によって14〜改革要目の数え方は揺れます)を布告し、①朝鮮の自主独立の確認(清への朝貢・冊封関係の実質的廃止)、②門閥・身分特権の撤廃、③官制の単純化と内閣制への移行、④従来の租税・貢納の整理と地税一元化、⑤兵制の近代化(親衛と常備軍の再編・警察創設)、⑥言論・通信・商工の保護、⑦王室財政と国家財政の分離、⑧旧弊の宦官・外戚政治の抑制、などを掲げました。形式上は王命に依拠した「王政下の近代化」であり、共和革命ではありませんでした。

しかし、清軍は漢城城内外に駐屯し、袁世凱は即座に増援を要請して布陣を固めます。日本の守備兵は数十名規模で火力も限られ、王宮周辺の要地で小競り合いが続くうち、開化派の側は兵站・連絡が混乱しました。12月6日、清軍の本格的な突入と保守派の動員に押され、日本公使館は焼き討ちを受けて撤退、宮城内の戦闘で洪英植が戦死、開化派の統率は崩れます。12月7日には政変は完全に頓挫し、金玉均・朴泳孝らは日本艦に救出されて亡命、王宮と政権は保守派の手に戻りました。

改革綱領の中身――「王権の下の近代国家」への設計図

開化派の設計図は、急進的でありながらも王権の正統性を枠としたものでした。要点を掘り下げると、第一に対外関係の確立です。清との冊封・朝貢の廃止は、外交・通商の平等化を目指す主権回復の宣言でした。同時に日本との条約・関税・租界問題を再調整して、財政主権を取り戻す意図も含まれていました。

第二に、身分制と門閥の打破です。両班の世襲特権・科挙的人材登用の見直し、功績に基づく俸給官制の導入、王族・外戚の政治介入の遮断を志向しました。具体的には、法の下の平等化、訴訟・刑罰の近代化、奴婢制や身分差別的慣行の漸次撤廃が議題に上りました。

第三に、官僚制・財政・軍事の再編です。中枢に少数精鋭の内閣(議政府)を置き、各部局を簡素化、重複した官職を整理して歳出を圧縮します。租税は地税中心に整理し、中間搾取を抑え、関税・専売で近代財政の骨格を作る構想でした。軍事は、西式訓練と装備を備えた常備軍・警察の整備、王宮近衛の再編でクーデタと暴動への脆弱性を下げる狙いがあります。郵政・電信の整備、度量衡の統一、商工業の奨励も、物流と市場統合のインフラと位置づけられました。

第四に、王室財政(内帑)と国家財政(国庫)の分離です。王室の私人財と国家の公財を切り分け、財政責任の所在を明確にすることで、贈賄・収奪の温床になっていた曖昧さを解消しようとしました。教育・司法の近代化は、人材再生産と法治の基礎を整える意図からで、後年の普通学校・近代裁判所の整備につながる芽を含んでいます。

失敗の要因――軍事力の脆弱、対外環境、政治連合の薄さ

政変が三日で潰えた最大の理由は、武力の劣勢でした。清軍は壬午軍乱後に常駐し、漢城の要衝に兵を置いていました。これに対し、開化派が動員できた兵力は新式軍の一部と日本公使館守備兵に限られ、重火器・兵站・通信で圧倒的に劣っていました。政変の奇襲が成功しても、城内・城外の制圧、補給の確保、地方への指令という「第二段階」に移る余力がなかったのです。

国際環境も逆風でした。清仏戦争は清の劣勢を予感させたものの、直ちに極東の駐留体制を崩すには至らず、むしろ清は宗主権の誇示のため介入を強めました。日本政府も、国内政局(条約改正交渉と財政・軍備の課題)を抱え、正面衝突を避ける抑制的な兵力支援にとどまりました。英・米・露の公使館も、朝鮮の秩序回復を名目に清の鎮圧を容認する空気が強く、開化派が国際的承認を得る展望は薄かったのです。

国内政治の基盤の脆さも致命的でした。開化派は王命を得て正統性を装う戦術を取りましたが、地方官・郷紳・軍の指揮系統を掌握する準備が不足し、民衆運動との連携も弱かったため、王宮を出た先の政治連合が形成されませんでした。改革が触れる利害(身分・税制・特権)への説得・調停の回路を欠いたまま、クーデタという短兵急の手段を選ばざるを得なかったことが、持続可能性を損ないました。

後日談と影響――天津条約、対清従属の再強化、そして甲午改革へ

政変後、日本は公使館焼き討ち・邦人被害を理由に朝鮮に賠償と謝罪を求め、1885年に漢城条約(清との間では天津条約)へと至ります。日清天津条約は、両国が朝鮮から兵を同時撤兵し、以後、派兵の際は事前通告することを取り決めました。表向きの均衡条項は、当面の衝突を避ける効果を持ちながら、朝鮮の主権的自立をなお制限する枠組みでもありました。国内では清の影響が一段と強まり、袁世凱が留まって宮廷・官界に影響力を及ぼします。

亡命した開化派の運命は苛烈でした。金玉均は日本で亡命生活を送りつつ著述・政論に携わりましたが、1894年、清末の上海で洪鐘宇(ホン・ジョンウ)により暗殺され、遺体は朝鮮に送還されて凌遅・梟示に処されました。朴泳孝はのちに帰国して日韓併合期をまたぐ長い政治・実業の経歴を歩み、徐載弼は米国で医師・ジャーナリストとなり、後年の独立協会運動に関与するなど、それぞれが別様のモダニティの表情を帯びていきます。

政策的影響では、開化派の綱領が直ちに実現することはありませんでしたが、1894年の甲午農民戦争(東学党の蜂起)と日清戦争を契機に発動された甲午改革は、身分制撤廃・科挙廃止・税制・官制の近代化など、甲申政変で提示された課題を広範に採り入れました。つまり甲申の「設計図」は、政治状況の一巡を経て、別の権力構成(日本の軍事的優越と清の敗北)の下で制度化されたのです。

国際関係史の目で見れば、甲申政変は東アジアの勢力均衡の揺らぎを示す早期警報でした。清は宗主権の再主張で朝鮮を押さえますが、その統制は外圧(露・日・欧米)への脆弱性を抱え、十年後の日清戦争で破綻します。日本は「小さな勝機」を戦略的成果に転化できず、むしろ天津条約で行動を縛られましたが、軍備と外交を再整備して甲午の決戦に備える時間を得ました。朝鮮にとっては、独立と近代化をめぐる主体的選択の困難さが露わになり、以後の独立協会運動・大韓帝国の改革、その後の保護国化へと連なっていきます。

史料と記憶――当事者の証言、外国公使の報告、日本・清の外交文書

甲申政変を学ぶ資料は多岐にわたります。まず当事者の回想・書簡・綱領文書(『甲申日記』『開化党宣言』『十四条目』の諸伝本など)があり、そこから開化派の構想と現場の混乱が生々しく伝わります。外国公使館の報告電報・日誌は、第三者の視点で兵力配置・外交交渉・都市の騒擾を克明に描き、時間順の復元に役立ちます。日本側の外務省記録・公使報告、清側の奏折・軍報は、支援・介入の度合いと判断過程を照らし出します。新聞・雑誌は世論と国際認知の経路を可視化し、政治像の形成に寄与しました。

記憶の位相でも、甲申政変は複数の物語を生みました。韓国では「自主独立と近代化を志した先駆的試み」であり、同時に「外勢を引き込んだ軽挙妄動」としても語られます。中国では、宗主権の行使と地域安定の視点から、清の介入を正当化する叙述が長く支配的でした。日本では、近代日本外交の未熟さ・軍事力と外交の不一致の教材として取り上げられます。こうした差異は、当時の国際秩序と国内政治の制約が、それぞれの社会に残した記憶の形を映しています。

総じて、甲申政変は、三日で終わった挫折の事件であると同時に、朝鮮が「王政下の近代国家」を模索する最初期の実験でした。軍事力・国際環境・政治連合の三条件が不利に重なれば、設計図は現実化しません。けれども、その設計図は地中に残り、時代の風向きが変わる瞬間に、別の権力配列のもとで芽を出していきます。甲申を手がかりに見えてくるのは、東アジア近代の出発点に走っていた、多方向の未完の線分たちなのです。