コリントス同盟(ヘラス同盟) – 世界史用語集

コリントス同盟(ヘラス同盟)は、紀元前338年のカイロネイアの戦いでギリシア諸ポリスを制したマケドニア王フィリッポス2世が、翌年コリントで開いたシノドス(連合会議)によって結成した汎ギリシア的な政治・軍事同盟です。名目上は「ギリシア人全体(ヘラス)の平和と自治」を守り、対外的にはペルシア(アケメネス朝)討伐を共同目的とする枠組みで、マケドニア王が「連合軍最高司令官(ストラテゴス・アウトクラトール)」として盟主の地位に就きました。スパルタを除く主要ポリスが参加し、アテナイやテーバイ、コリント、アルゴスなどが連合の決議に拘束される形になりました。伝統的なポリス間の主導権争いに終止符を打ち、共通平和(コイネー・エイレーネー)と仲裁を制度化した点、そしてアレクサンドロス大王のアジア遠征を正当化する「国際法的」な根拠となった点が大きな特徴です。

同時代には、スパルタ主導の「ヘラス同盟」(紀元前481年成立)という呼称が、ペルシア戦争期の連合を指す文脈でも使われますが、ここで取り上げるのはフィリッポス2世・アレクサンドロス大王の下で機能したコリントス同盟です。混同を避けるため、本稿では「コリントス同盟」を主たる名称としつつ、同時に碑文や古典文献が用いる「ヘラスの連合」という自称にも触れます。以下では、成立の背景、組織と規約の中身、アレクサンドロスの時代の運用、崩壊と後世への影響を、世界史の学習で押さえるべき論点に絞って解説します。

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成立の背景—カイロネイア後の秩序設計と「共通平和」

紀元前4世紀後半のギリシア世界は、ペロポネソス戦争後の権力空白と、アテナイ・スパルタ・テーバイの三強均衡の揺らぎ、雇用兵の増大や内乱の頻発など、慢性的な不安定に直面していました。そこへ北方から台頭したマケドニアが、フィリッポス2世の軍制改革(サリッサを装備した重装歩兵ファランクス、騎兵の強化、攻城戦技術の導入)を背景に、北エーゲ海沿岸の資源と交易路を掌握し、諸ポリスの抗争に介入するようになります。紀元前338年、ボイオティアのカイロネイアでアテナイ・テーバイ同盟軍を撃破したフィリッポスは、武力による覇権を一時的事実として確立しました。

しかし、ポリス社会に長く根づいた自治(アウトノミア)と同盟の自由(エレウテリア)の観念を無視した恒久統治は反発を招きます。フィリッポスは覇権を永続させるため、軍事的勝利を合法性に転換する仕組みを必要としました。その設計図が、全ギリシア規模の「共通平和」と、それを保障する常設の会議体=同盟の創設でした。コリントに代表者を集めて開かれた会議は、対外戦争の決定、加盟ポリス間の紛争の仲裁、禁圧すべき内乱(スタシス)の定義などを規約化し、個別ポリスの単独外交・単独戦争を制限しました。

構想のもう一つの柱は、長年ギリシア世界を脅かしたペルシアへの「懲罰遠征」です。ペルシア戦争以来の記憶を呼び覚ますこの大義は、諸ポリスの対立を越えて連帯を訴える効果を持ちました。遠征は、戦乱で余剰化した兵士に活動の場を与え、ギリシア半島外の富を獲得して諸ポリスを利する可能性もありました。こうしてフィリッポスは、覇権を個人の武力ではなく「連合の決定」として包摂し、対外行動に国内的・国際的な正統性を付与したのです。

組織と規約—連合会議と最高司令官、自治と仲裁の制度

コリントス同盟の中核は、加盟各ポリス・同盟国家から代表を送る連合会議(シノドス)でした。会議は規約(シンフォーニア)に基づいて開催され、重要案件—対外戦争の宣言、停戦・講和、内部紛争の調停—はこの場で議決されました。議決権や票の重みについては、人口や軍事力に応じた配分があったと考えられますが、詳細は完全にはわかっていません。少なくとも、マケドニア王は「ストラテゴス・アウトクラトール(全権の最高司令官)」として連合軍の指揮権を持ち、軍事行動において決定的な主導権を握りました。

規約の柱は、第一に加盟者の「自治の承認」と相互不可侵、第二に加盟間の戦争の禁止と義務的仲裁、第三に政変・僭主の出現・内乱への介入条項、第四に対ペルシア戦の共同遂行でした。各ポリスが独自の法と制度を維持することは認められつつ、連合の平和を乱す単独行動は禁じられました。これにより、覇権国の恣意を「法の外衣」で覆いながら、従前の同盟秩序に代わる上位枠組みが整えられたといえます。

スパルタはこの同盟への参加を拒否しました。彼らは自らの伝統的独立と軍事的位階に自信を持ち、マケドニア王の上位権を認めることを潔しとしなかったのです。そのため、スパルタは事実上の「外部者」として半島内に残り、後年には反乱的行動も見られます。それでも大勢は同盟に組み込まれ、アテナイの海軍力や多くの中小ポリスの陸軍力が、連合の資源として動員可能になりました。

同盟の首都的役割を果たしたのは結成会議が開かれたコリントですが、常設の官僚機構や連合財政がどの程度整備されていたかについては議論があります。少なくとも、連合軍の維持・補給には各ポリスからの負担とマケドニア王家の資源が投入され、遠征に際しては沿岸都市の海上輸送力が不可欠でした。制度史的に見ると、コリントス同盟は「都市国家の集合体」と「王権の軍事国家」を接合する合意装置として設計されていた、と要約できます。

運用の展開—アレクサンドロスの承継、テーバイの破壊、アジア遠征の正当化

紀元前336年にフィリッポス2世が暗殺されると、若きアレクサンドロス3世(大王)が王位を継ぎました。即位直後、各地で離反の兆しが現れると、アレクサンドロスは迅速にギリシアへ南下し、コリントで連合の承認を再確認します。この「再承認」は、彼自身がフィリッポスの決定を継承し、連合の最高司令官たる地位を合法的に引き継いだことを意味しました。

翌紀元前335年、テーバイがマケドニア駐留軍に対して蜂起すると、アレクサンドロスは連合の名において鎮圧に動き、激戦の末にテーバイ市を破壊・住民を奴隷化・領土を分割という苛烈な処置を下しました。これは同盟規約の「内乱・僭主鎮圧条項」を適用したものと位置づけられ、他のポリスに対して同盟への服従を強く印象づける結果となりました。アテナイは震撼しつつも、外交的妥協により壊滅を免れます。ここでの経験は、以後のギリシアの対外姿勢—連合への協力か、慎重な中立か—を大きく規定しました。

紀元前334年、アレクサンドロスはヘレスポントス(ダーダネルス海峡)を渡って小アジアに上陸し、グラニコス川の戦い、続いてイッソス、ガウガメラの戦いでペルシア王ダレイオス3世を相次いで破ります。これらの遠征は形式上、コリントス同盟の「対ペルシア共同戦争」として遂行され、連合の名による宣言・資源動員が行われました。アレクサンドロスの軍の中核はマケドニア兵でしたが、ギリシア諸ポリスからの部隊や艦艇、財政支援もまた不可欠で、また占領地統治におけるギリシア人官僚・技術者の活躍も同盟の枠組みが後押ししました。

遠征がアジア内部へ進むにつれ、コリントス同盟の「ギリシア内政監督機能」は相対的に後景化し、アレクサンドロスの個人的王権と帝国建設が前面に出ます。それでも、彼が公的文書や布告で「全ギリシアの名」を用いることは、征服の正統性を内外に示す看板であり続けました。ギリシア本土では、マケドニア駐留軍と協力的な諸ポリスの政権が秩序を維持し、連合の形式は保たれました。

崩壊と後世への影響—ラミア戦争、ヘレニズム世界の連合モデル

紀元前323年にアレクサンドロスがバビュロンで急死すると、直ちにアテナイとエトリアなどが反マケドニア蜂起(ラミア戦争)を起こし、「コリントス同盟」の実体は急速に瓦解しました。紀元前322年、アンティパトロス率いるマケドニア側が勝利すると、アテナイは多くの政治的・財政的譲歩を強いられ、民主政は制限を受けます。以後ギリシアでは、ディアドコイ(後継者)諸将の抗争に巻き込まれながら、アカイア同盟やアイトリア同盟といった地方連合が台頭し、都市共同体の自治と軍事的集団防衛を両立させる新たな連合モデルが模索されました。

コリントス同盟の遺産は二つの側面で確認できます。第一に、「共通平和と仲裁」の理念です。これは紀元前4世紀のギリシアで繰り返し提唱されていた考え方ですが、コリントス同盟はそれを広域的な制度として最も完結に実装しました。第二に、「王権の軍事力」と「都市国家の同意」を接合する政治技術です。フィリッポスとアレクサンドロスは、軍事的覇権を連合の決定として包装することで、抵抗を減衰させ、対外戦争での動員を円滑化しました。ヘレニズム時代の王国—プトレマイオス朝やセレウコス朝—は、ギリシア都市との契約や特権付与、連盟との協調を通じて、この技法を各地で適用します。

他方で、コリントス同盟が「対等な同盟」だったかといえば、実態はマケドニア王権の覇権装置であったことも否めません。加盟ポリスの政体や外交の自由は大きく制限され、連合の名で行われた内政介入は、自治の理念としばしば緊張関係に立ちました。テーバイ破壊の記憶は、同盟の威嚇的側面を象徴します。この緊張は、後のアカイア同盟とマケドニアの関係、さらにはローマがギリシア世界に進出する際の政治宣伝(「ギリシアの自由」の回復)にも投影され、古典世界の国際秩序をめぐる思想史の重要な論点を形作りました。

総じて、コリントス同盟(ヘラス同盟)は、ポリス世界の分立と覇権争いに制度的な「蓋」をかけ、対外戦争の動員を共同意思の名で実現した、古代国際政治の画期的枠組みでした。短命ではありましたが、連合会議・規約・仲裁・最高司令官という装置の組み合わせは、以後のギリシア連合やローマ時代の都市連合、さらには近代以降の国際機構を考える際の比較素材としても、しばしば参照されてきました。コリントの会議場で交わされた「全ギリシアの名において」という言葉は、軍事的力と合意形成のあわいで政治を進める古代の知恵を、今日に伝えているのです。