「坤輿万国全図」 – 世界史用語集

「坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず)」は、1602年に明代北京でイエズス会士マテオ・リッチ(利瑪竇)と中国人学者の協力によって作成された大型世界地図で、東アジアで初めて本格的なヨーロッパ式の地理知識を体系的に紹介した作品として知られます。六幅対屏風格式の木版刷りで、中国語により地名・解説・図像が記され、当時最新の地理観—球体地球、五大陸の配置、アメリカ大陸やアフリカ沿岸の形状、航海路や気候帯—が、中国の知識人にも理解できるよう工夫されました。地図は単なる図ではなく、天地観の転換を促すテキストでもあり、儒学的語彙を使って地球儀・緯度経度・日照や潮汐の理を説明し、世界の民族・産物・風俗の記述を添えています。以後、東アジアの地理認識や対外観の更新に大きな影響を与え、日本・朝鮮・琉球に伝わって受容と改作が進みました。以下では、制作の背景と成立、図の構成と内容、受容とインパクト、史料としての価値と現代的意義の四つの観点から、坤輿万国全図の全体像をわかりやすく解説します。

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制作の背景と成立—北京の学術サロンと宣教戦略、木版本としての誕生

16世紀末、カトリックのイエズス会は東アジア宣教において「適応主義」と呼ばれる方法を採りました。これは、現地の学術と礼法に自らを合わせ、天文学・暦法・地理・数学・音楽といった学知を手土産に、知識人社会と対話する戦略です。マテオ・リッチはマカオから広州、肇慶、南京を経て北京入りし、官僚や学者のサロンに出入りして時計・西洋画・幾何学の驚きを披露しました。とりわけ地理は関心を引き、彼はラテン語・イタリア語圏で培った地図学(トレミー体系の改訂やメルカトル投影の潮流)を中国語で説明し、地球儀(坤輿儀)や世界図を試作します。

1602年、北京で学者李之藻や楊廷筠らの支援のもと、リッチは世界図の決定版として「坤輿万国全図」を刊行しました。題名の「坤輿」は易の「坤」(大地)と「輿」(車=世界)の合成で、宇宙の地上界全体を意味します。六扇に分かれた巨大な刷り物は、屏風や壁面に貼って鑑賞され、各扇に膨大な解説文が付されました。印刷は漢地の木版技術が用いられ、欧式の内容を中国の本草・地誌風の文字密度で包み込む独特のレイアウトとなっています。ヨーロッパの地図帳にみられる飾り枠・カルトゥーシュの意匠は、龍や海獣、船、異国人物像の図案として取り入れられ、視覚的な娯楽性も備えました。

成立の背後には、明末の知的風土もあります。陽明学の展開や考証学の芽生え、海禁の弛緩と商業の発展、マニラ・アカプルコ航路に象徴される銀の流入が、世界と中国を結びつけていました。士大夫は「四裔」に関心を広げ、海外事情を記す書が流行します。坤輿万国全図はその需要に応え、世界を「書籍として読む」ことを可能にしました。

図の構成と内容—投影法、世界叙述、科学知識の翻訳

坤輿万国全図は、地図としての図形と、辞典的なテキストの両輪でできています。図形面では、当時の欧州で一般的だった円筒図法や楕円図法を基に、東アジアの閲覧者に見やすいよう「東が中央」に来る配置が採られました。すなわち、東アジア・太平洋を中央に据え、ユーラシア西部と大西洋を左右に配し、アメリカ大陸を極端に東西へ引き伸ばした形で描きます。これは、当時の地理知識の限界—特に北西海岸・南洋諸島の輪郭—を反映する一方、中国人の視点から自らの居処(中国)が地図中央にあるという心理的親和性にも配慮した設計です。

地名は漢字音訳と意訳が併用され、たとえば「倭国」「日本」「呂宋(ルソン)」「墨西哥(メキシコ)」「秘魯(ペルー)」などが並びます。各地の欄外には「土人形貌」「衣食住」「産物」「宗教」「政体」を説明する長文が付され、珍果奇獣・金銀鉱・香料や絹の交易、王侯の制度、キリスト教の概説、回教(イスラーム)、猶太教(ユダヤ教)などが紹介されています。これにより、図は単なる位置関係の示図を超え、地理・民族・歴史を横断する百科的テクストとなりました。

科学知識の翻訳も注目点です。リッチは、地球球体説、緯度経度、赤道・回帰線・極圈、日照の長短、潮汐の原因、磁針(羅針)と方位の偏角に至るまでを、中国語の既存語彙と新造語を組み合わせて説明しました。たとえば「緯度」は「地之南北距」、経度は「東西距」と概念化され、「地球之形如丸」といった簡潔な比喩で球体を強調します。天球と地球の区別、季節の移り変わりを黄道傾斜で説明する図も添えられ、儒者が違和感なく読み進められるよう、経書の語と自然哲学の語りが巧みに折衷されました。

視覚表現としては、海に描かれた帆船と海獣、風を司る擬人像、羅針盤風のバラ、距離目盛が、異国情緒と技術性を同時に演出します。アフリカの図像では河川と動物が強調され、南米には銀山とインディオの像が、欧州には城塞と都市群が、アジアには仏塔・宮城が描かれます。これらの図像は正確さというより、読者の想像力を喚起する視覚的脚注の役割を果たし、テクストで描かれる世界像に厚みを与えました。

受容とインパクト—中国・日本・朝鮮への伝播、知の混淆と改作

坤輿万国全図は、刊行後すぐに中国の士大夫の間で話題となり、複製や増補、簡略版が相次ぎました。李之藻らは『職方外紀』などの地理叙述と連動させ、世界記述の文体を確立します。朝貢関係や辺政に関わる官僚にとって、海外の情報は実用的価値があり、海防・貿易・外交の議論に新視角を提供しました。また、天主教の教理書や科学書と併読され、天地自然の秩序をめぐる議論—天主・理気・格物—にも刺激を与えました。

日本には、江戸初期に長崎ルートを通じて伝来し、地図や書誌を蒐集する知識人・大名の間で珍重されました。寛永・元禄の頃には和刻本や模倣作が現れ、国学・洋学・唐通事らの手で注釈が付されます。やがて長崎のオランダ商館を通じた蘭学が勢力を伸ばすと、坤輿万国全図の記述は蘭書の地理学と比較され、誤差の修正や地名の再翻訳が試みられました。それでも、東アジアが自らを世界の一部として位置づけ直す第一歩としての象徴的価値は失われず、屏風や掛幅のかたちで江戸の町屋や武家屋敷に掲げられ、教養のディスプレイとして機能しました。

朝鮮王朝では実学派の知識人が関心を寄せ、海禁・辺政・通信使の議論に絡めて世界像を更新しました。朝鮮の地図伝統(儒者の天下図、八道図)と坤輿万国全図が混淆され、漢文の注釈により朝鮮式の受容が進みます。これらの地域的受容は、それぞれの文化が自らの枠組みでグローバル情報を翻訳した過程であり、世界図は単に輸入されるのではなく、ローカライズされていったのです。

さらに、坤輿万国全図は美術・工芸にも影響しました。屏風絵や蒔絵、陶磁器に世界地図や異国人物が描かれ、南蛮文化趣味(南蛮びいき)の一環として愛玩されます。異国の衣装・船・建物のモチーフは、歌舞伎や見世物の舞台装置にも取り入れられ、視覚文化の中で「世界」が手触りを持つようになりました。

史料としての価値と現代的意義—残存本、比較研究、グローバル・ヒストリーの窓

坤輿万国全図は現存が限られ、世界各地の図書館・博物館に数点が伝わるのみとされます。残存本の刷りや版木の差、擦れや補筆、縁取りや彩色の有無は、流通と使用の痕跡を物語ります。版ごとの文言差異や地名表記の揺れは、制作時の参照資料や翻訳過程、監修者の介入の度合いを推定する手掛かりです。例えば、ある版では日本列島の形状や琉球の位置、カリフォルニアが半島か島かの描写の違いが見られ、それぞれの時点の欧州側地理知識と東アジアの認識が交差する「ずれ」を反映しています。

比較研究では、同時期の欧州地図帳(メルカトル=ホンディウス系、オルテリウス系)や、リッチ以前の中国の天下図(藍田本「禹跡図」系、鄭和航海図の伝統)と照らし合わせることで、図像・用語・投影・説明のパーツがどのように移植・変形されたかが明らかになります。坤輿万国全図は、単なる「最新情報の受容」ではなく、知の翻訳—カテゴリーの対応づけ、語彙の選定、図像の折衷—の実践であり、異文明接触の現場記録です。

現代的意義は三つ挙げられます。第一に、グローバル・ヒストリー教育の素材として、世界像が文化によっていかに作られるかを具体的に示します。中心がどこに置かれるか、海がどう描かれるか、どの情報が欄外で強調されるか—これらは価値観の地図化です。第二に、科学コミュニケーションの古典例として、難解な理論(球体地球・天文・測地)を既存の言語資源でどう説明し、視覚化するかの工夫が凝縮されています。第三に、デジタル人文学の対象として、高精細画像の公開やテキストの翻刻・アノテーション、地名の古今対照・GIS接続といった手法が、歴史資料を新しい形で生かす可能性を開きました。

総じて、坤輿万国全図は、地図という形式を通じて「世界を言語化し可視化する技術」が文化横断で交換された証拠です。そこには、宣教と学問、権威と娯楽、科学と想像力が重なり合う複雑な層が見えます。四百年以上前に北京で刷られたこの六扇の図は、今日の私たちにも「世界をどう描くか」という問いを投げかけ続けています。地図は現実の写しではなく、社会が自分自身と他者をどう位置づけるかの表現です。坤輿万国全図を読み解くことは、近世東アジアが世界と向き合いはじめた瞬間の思考のダイナミクスを追体験することであり、グローバル化の現在を相対化する手がかりにもなるのです。