三国同盟離脱(イタリア) – 世界史用語集

「三国同盟離脱(イタリア)」は、第一次世界大戦のさなかにイタリア王国が独墺伊の三国同盟から事実上身を引き、1914年の中立宣言を経て1915年に協商側(英仏露)へ転じた動きを指す言い方です。ひとことで言えば、イタリアは同盟の条文を精密に読み直し、自国の領土的利益と国内政治を天秤にかけたうえで、同盟義務よりも「国益の最大化」と「地中海・アドリア海での安全保障」を優先して進路を変えたのです。背景には、三国同盟が本質的に「防御同盟」であったこと、オーストリア=ハンガリーとの領土・民族問題(いわゆる未回収のイタリア)への不満、1902年の対仏秘密中立協定や地中海での利害調整など、長年の矛盾が積み上がっていました。1915年4月のロンドン秘密条約は、南チロル(ブレンナー峠線まで)、トリエステ、イストリアの大半、ダルマチア沿岸の一部、ヴァローナ(ヴロラ)などを約束してイタリアを引き込み、同年5月の対墺宣戦で離脱は既成事実化します。この一連の過程は、同盟の条文、外交交渉、世論動員、王権と議会の力学が複雑に絡み合った転換劇でした。

要点を押さえると、(1)条約解釈の争い—三国同盟は防御条約なので、墺の対セルビア攻撃には自動参戦義務がない、(2)領土要求の再提示—トレンティーノやトリエステなど「未回収」地域の回収、(3)二正面の外交—独墺との改訂交渉と同時に英仏露と密約交渉を進める「二股」戦術、(4)国内政治—サランドラ内閣の「神聖なる利己主義」の標語、ジョリッティら中立派との対立、五月危機における国王の裁断、の四点に集約されます。以下では、前史から参戦決定までの道筋を、当時の言葉、制度、地域事情に即して整理します。

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前史—同盟の綻びと「未回収のイタリア」

1882年に成立した独墺伊三国同盟は、更新のたびにイタリアの地中海・北アフリカでの利害に配慮する条項を加えつつも、アドリア海・バルカンでオーストリア=ハンガリーと利害が衝突する根本問題を抱えていました。イタリア社会には、トレンティーノ=南チロルやトリエステ、イストリアなどアドリア海東岸のイタリア系住民居住地域を「未回収のイタリア(Italia irredenta)」と呼び、回収を悲願とする世論が根強くありました。これらは墺領ないしその勢力圏に属しており、同盟国を相手取った領土要求という構図自体が矛盾を孕んでいたのです。

イタリアは他方で現実主義的な外交も展開しました。1902年、フランスとの間で秘密裏に中立協定を結び、対仏戦争が勃発してもイタリアが中立を保つ余地を確保します。さらに、伊土戦争(1911–12年)でリビア(トリポリ・キレナイカ)とドデカネス諸島を占領し、地中海での存在感を高めましたが、これは英仏との調整も必要とする柔軟な路線でした。こうした前史は、三国同盟が必ずしも「自動参戦」を約束する鉄の枠組みではなく、政治的余地を残す取り決めであったことを示します。

1914年—開戦と中立宣言の法解釈

1914年6月のサラエヴォ事件後、墺がセルビアに最後通牒を発し、7月末から戦争が連鎖的に拡大すると、イタリアは直ちに中立を宣言します(8月初め)。サランドラ首相とソンニーノ外相は、三国同盟は「防御的性格」を持つため、同盟国が先に攻撃に踏み切った場合には自動参戦義務は生じないと主張しました。墺のセルビア攻撃は防御戦争に当たらない、ドイツの対仏開戦も同様だ、という法解釈に立脚するものです。条約文には、特定の相手(フランス・ロシア)からの攻撃に対する相互援助を定める一方、攻勢の場合の義務については留保がありました。イタリア政府はこの「限定条項」を最大限に活用して時間を稼ぎ、同盟の更新交渉と英仏露との並行交渉を同時に走らせ始めます。

中立宣言は、国力の準備不足と世論の分裂を考慮した現実的な一手でもありました。1914年の「赤い週(Settimana Rossa)」など社会不安の記憶が新しく、産業・兵站の整備も十分ではありませんでした。軍部はアルプス・アドリア戦線を想定した補給・道路・要塞の再点検を要しており、即時参戦は得策ではなかったのです。この間に、政府は「いずれの側につくにせよ、最大の代償を引き出す」という交渉戦略を固めていきます。

二正面外交—独墺への代償要求とロンドン秘密条約

1914年末から1915年春にかけて、イタリアは独墺と英仏露の双方に対し、参戦もしくは中立維持の条件として領土・権益の大幅な譲歩を求めました。独墺側には、トレンティーノやトリエステ、イストリアの割譲、南チロルの国境をブレンナー峠線まで引き上げること、アルバニアにおけるイタリアの利権承認などを提示します。しかし、オーストリア=ハンガリーは多民族帝国の均衡を崩す譲歩に消極的で、交渉は難航しました。ドイツは同盟維持のため譲歩を働きかけましたが、墺の内部事情と軍事情勢を前に決定打を欠きます。

一方、協商側は地中海のシーレーンとバルカン情勢の主導権を確保するため、イタリアの参戦を強く求めました。交渉の結果、1915年4月26日にロンドンで秘密条約が結ばれます。そこでは、イタリアが一か月以内に連合国側で参戦することと引き換えに、戦後の領土としてトレンティーノ、南チロル(ブレンナーまで)、トリエステ、イストリアの大部分、ダルマチア沿岸の一部と島嶼、クヴァルネル湾の島々、ヴァローナ港(アルバニア)とその周辺の保有、ドデカネス諸島の併合などが約束されました。また、オスマン帝国分割時の利害調整や、賠償・金融面の配慮も含まれました。これにより、イタリア政府は参戦の政治的正当化と世論動員の材料を手に入れます。

ロンドン秘密条約は、その名の通り議会にも公開されない密約でしたが、外相ソンニーノは「外交は結果で評価される」という立場を取り、迅速な決定を優先しました。条約は、戦後の国際秩序像(民族自決を掲げるウィルソン主義)と衝突する火種も内包していましたが、1915年春の時点では、アドリア海の戦略と未回収地の回収という切実な国内課題にこそ意味がありました。

国内政治—中立派と干渉派、五月危機と国王の裁断

外交の舞台裏と並行して、国内では激しい政治闘争が進みました。首相サランドラは「神聖なる利己主義(sacro egoismo)」を掲げ、国益の最大化を旗印に対外交渉を主導しました。外相ソンニーノは冷徹な計算で密約を進め、介入主義者(干渉派)—ダヌンツィオ、ムッソリーニらの鼓吹や都市中産層・青年層の動員—が街頭で勢いを増します。これに対し、元首相ジョリッティを軸とする中立派は、国力不足と戦争の長期化リスクを理由に参戦阻止を図り、議会工作で内閣打倒を試みました。

1915年5月、いわゆる「五月危機」が勃発します。ジョリッティ派の巻き返しに危機感を抱いた介入派はデモと言論で圧力を強め、ローマやミラノでは群衆が議会・新聞社に押しかけ、参戦支持の機運が沸点に達しました。国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、立憲君主の枠内でサランドラを支持し、議会承認を待たずに対墺宣戦の詔書交付へと舵を切ります。立憲主義の手続き上は議論を残す決断でしたが、王権・内閣・街頭の三者が一時的に合流するかたちで参戦が決定し、5月23日、イタリアはオーストリア=ハンガリーに宣戦布告しました。続いて8月にはドイツにも宣戦し、三国同盟からの離脱は法的にも政治的にも確定します。

この過程で、新聞・演説・象徴的儀礼(旗・記章・行進)を用いた世論戦が重要な役割を果たしました。ダヌンツィオの扇動的演説は都市の大衆を熱狂させ、参戦が「未回収地の解放」と「国民統合」の儀式であるかのように演出されました。他方で、農村や社会主義者・カトリック層には中立志向も根強く、国民の全会一致という状況ではありませんでした。世論の非対称性と都市中心の動員が、最終局面で政治判断に強い影響を与えたことは見逃せません。

離脱の帰結—戦場・講和・「勝利なき勝者」

離脱後、イタリアはイゾンツォ河畔での反復攻勢、カポレット(1917年)の大敗とピアーヴェでの立て直し、ヴィットリオ・ヴェネトの勝利(1918年)を経て、戦勝国の一員として講和会議に臨みます。しかし、戦後の講和ではロンドン秘密条約の全てが承認されるわけではありませんでした。ウィルソンの民族自決原則との衝突や、海上交通・海軍力の観点から英仏の思惑が働き、ダルマチア沿岸の広範な獲得は否定され、フィウーメ(リエカ)は当初イタリア領と認められませんでした(のちに自由国、1924年に一部併合)。このため、イタリア国内には「勝利なき勝者(vittoria mutilata=損なわれた勝利)」という不満が広がり、戦後政治の不安とファシズム台頭の土壌となります。

国際関係の視点では、イタリアの離脱は三国同盟の構造的脆弱性を露呈させ、英仏露による包囲網を相対的に強化しました。アドリア海・バルカンの戦略地図は大きく塗り替えられ、オーストリア=ハンガリーは南東戦線で兵力を拘束され、全体戦略の柔軟性を失います。独墺にとっては、一国の離脱が同盟全体の抑止力と交渉力を著しく低下させることを示す事例となりました。

法制度上の教訓としては、「防御同盟」の条文設計が危機時の解釈争いを呼び、政治指導部が国内外の情勢をテコに条約義務の縮減・回避を図る余地を残すことが明らかになりました。イタリアはこの余地を最大限に活用し、独墺との交渉材料としつつ、より大きな代償を提示した側(英仏露)へと舵を切りました。条約は紙の上の約束であると同時に、力関係と世論、国内政治の均衡によって実効性が左右されるという現実が浮き彫りになります。

総じて、イタリアの三国同盟離脱は、一見すれば同盟破りの身勝手に見えるかもしれませんが、当時の国際法・条約文・国益・国内政治・世論動員が複雑に重なった決断でした。未回収地というナショナルな情念、アドリア海の安全保障、地中海・近東の利権、そして戦後秩序への先読みが、1914~15年という短い期間に凝縮して交錯しました。これらの要素を重ね合わせて理解すると、なぜイタリアが中立から参戦へ、同盟から離脱へと動いたのか、その内的論理と外的条件が立体的に見えてきます。