ジェンナー(Edward Jenner, 1749–1823)は、天然痘に対する予防接種「種痘法(ワクチン接種)」を確立した英国の医師です。彼は、牛の乳しぼりに従事する女性がかかる軽い感染症「牛痘(ぎゅうとう)」に一度罹患すると、致死的な天然痘にかかりにくいという民間知を科学的に検証し、人に牛痘膿を接種して免疫を獲得させる方法を定式化しました。1796年の実施例、1798年の論文公刊を契機に、この方法は世界中へ急速に広まり、19世紀の保健医療と人口動態を一変させました。20世紀の国際協力を通じて天然痘は1980年に根絶宣言に至りますが、その「起点」がジェンナーの種痘法でした。彼の仕事は、感染症対策における予防の優位、ワクチンという概念、公共の健康と個人の自由のせめぎ合いなど、現代につながる多くの論点を生み出した点でも重要です。
生涯と時代背景――民間知の観察から「種痘法」の着想へ
ジェンナーは1749年、イングランド西部グロスターシャーのバークリーで聖職者の家に生まれました。若くして外科医の徒弟となり、のちにロンドンで造詣の深い医師ジョン・ハンターに学びます。ハンターは博物学と観察を重んじ、「事実を集め、自然に問いかけよ」という姿勢をジェンナーに植え付けました。田園に戻った彼は地域医療に従事するかたわら、鳥類学や気象観測などの博物学的関心も育て、医療と自然観察を往復する生活を送ります。
当時のヨーロッパでは、天然痘は幼年期に高い致死率をもたらす恐怖の病でした。これに対して18世紀前半から広まりつつあったのが「人痘接種(ヴァリオレーション)」です。これは、患者の膿を健康者の皮膚に少量接種して軽症の天然痘を意図的に起こし、以後の免疫を得る方法でしたが、接種者自身が重症化して死亡したり、接種を媒介に流行を引き起こす危険がありました。コストや宗教的反発もあり、人痘は万能の解決ではありませんでした。
農村では一方で、「牛痘にかかった乳搾り女は天然痘に罹りにくい」という経験則が古くから語られていました。牛痘は人にも感染しますが通常は局所の軽い病変で済みます。ジェンナーはこの民間知に着目し、牛痘の膿を人に接種すれば、天然痘に対する安全な予防効果が得られるのではないかと考えました。彼は牧場と村の症例を丹念に追い、感染の時系列と発症の軽重を記録し、仮説を固めていきました。
方法の確立と普及――1796年の接種、1798年の公刊、ワクチン概念の誕生
1796年5月、ジェンナーは乳搾り女サラ・ネルムズの手にできた牛痘膿疱から採取した膿を、8歳の少年ジェームズ・フィップスの腕に接種しました。少年は局所の発熱と軽い全身症状のみを呈し回復します。約2か月後、ジェンナーはフィップスに人痘接種を試みましたが、天然痘は発症しませんでした。この実験的事例は、牛痘接種が天然痘発症を防ぐことを示す最初の決定的証拠になりました。
1798年、彼は自費出版の論文『牛痘に関する研究』を発表し、接種手技、反応の経過、再感染防御の観察を系統立てて報告しました。ここで彼は、牛(ラテン語でvacca)にちなみ「ワクチナ(vaccinia)」という語を用い、のちに「ワクチン」という一般概念が生まれる端緒を開きます。やがて王立協会や各地の医師、政府機関が関心を示し、接種所の設置、母子手帳のような記録の整備、接種を前提にした保険制度の工夫などが広がっていきました。
初期の普及は、人から人へ膿を継いでいく「アーム・トゥ・アーム法」で行われました。これは保存技術が未熟な時代に、接種材料(リンパ)を切らさない工夫でしたが、梅毒など別の感染症伝播の危険が指摘され、のちに子牛の皮膚で増やしたリンパ(動物種痘)や、グリセリンで処理した乾燥ワクチンへと技術改良が進みます。接種手技も、切皮から穿刺針(二股針)へと更新され、必要量が標準化されました。
ジェンナーは政治的な運動家ではありませんが、公衆衛生の整備にも尽力しました。彼の周囲の医師や支援者は「ジェンナー協会」を組織し、無料接種の普及や記録の標準化を推進します。英国では1840年に人痘が禁止され、種痘が公費で推奨され、1853年には幼児への種痘が法的に義務化されました。義務化は反接種運動の反発も招きますが、都市の死亡率は着実に低下し、産業社会の労働力と家族の安定に大きく寄与しました。
受容・議論・国際展開――反接種、宗教・自由の問題、日本への伝来と制度化
種痘は魔法の弾丸ではなく、社会の受容があって初めて効果を発揮します。19世紀には、皮膚に動物由来の膿を入れることへの嫌悪、宗教的な違和感、国家が身体に介入することへの抵抗、まれに起こる副反応や接種起因の感染事故などが重なり、反接種運動がいくつも生まれました。風刺画は「牛の角が生える」と嘲笑し、労働者は罰金・投獄を恐れても拒否する例がありました。他方で、医師たちは統計と症例で説得し、自治体は衛生教育と無償接種で信頼を積み重ねます。こうしたせめぎ合いの内側で、「公衆衛生」という行政領域が徐々に形をとりました。
国際的には、ナポレオン戦争期の軍隊や植民地行政が種痘の拡散を加速させました。スペイン帝国は1803年に「バルミス遠征」を組織し、孤児の腕を媒介にアジア・アメリカへワクチンを運び、ポルトガル、フランス、オランダも各地で接種網を築きます。20世紀に入ると、冷凍乾燥技術と低温流通、二股針の導入が途上国でも接種を容易にし、WHOの世界的キャンペーン(1967–77年)で「輪状接種(リングワクチネーション)」が確立しました。これは患者周囲の接触者に重点接種を行って発生環を断ち切る方法で、最終局面の決め手となりました。
日本への伝来は19世紀半ばです。オランダ語医学の導入が進むなか、1849年前後から長崎・大阪・江戸で牛痘種痘の実施例が現れ、医師たちは接種所を設けて普及に努めました。大阪では緒方洪庵が除痘館を開いて接種と教育を行い、江戸では1858年、お玉ヶ池に「種痘所」が設けられ、西洋医学教育の拠点(のちの大学医学部の前身)ともなります。明治政府は種痘を制度化し、近代的戸籍・就学・兵役と結びついた接種の網が近代日本の人口構造を守りました。
倫理面では、ジェンナーが行った少年への接種・曝露試験は、今日の基準から見れば極めて慎重さを欠くものでした。19世紀当時、保護者の同意と医師の裁量が重視され、リスクと公益の釣り合いが異なる文化的枠組みで理解されていました。のちに研究倫理はヘルシンキ宣言などで厳格化され、臨床試験・ワクチン評価は制度化されていきます。種痘の物語は、科学の成果と倫理の学びが並走する必要を示しています。
評価とその後――「ワクチン」という発想、免疫学への橋渡し、根絶への道筋
ジェンナーの最も大きな意義は、「弱い病原体(あるいは病原体に似た抗原)で免疫を誘導し、強い病に備える」という発想を、具体的な操作と制度に落とし込んだことにあります。彼は抗体やウイルスの正体を知りませんでしたが、観察に基づく仮説と再現可能な手技で、予防の力を社会にもたらしました。この発想はパスツールの減弱生ワクチンやトキソイド、現代の不活化・組換え・mRNAワクチンへと連なり、感染症のみならず腫瘍免疫や自己免疫の理解にも派生的な影響を与えています。
天然痘の根絶は、ジェンナーが見た世界のはるか先で実現しました。20世紀後半、WHO主導の計画は、冷凍乾燥ワクチンと二股針を用い、サーベイランスと輪状接種で残存の火点を消していきました。1977年の自然感染の最終例を経て、1980年に根絶宣言がなされます。ヒトを唯一の宿主とする特性、明瞭な発疹による発見の容易さ、長期免疫の獲得、ワクチンの安定性――これらの条件が揃ったことが成功の背景でした。この成功体験は、ポリオ・麻疹の根絶・制圧や、パンデミック対策の構想にも影響を与えています。
とはいえ、種痘の歴史は称賛だけで終わるものではありません。義務接種をめぐる自由と公共善の対立、差別や不信が接種行動に与える影響、低頻度ながら避けられない有害事象への補償と説明、情報の非対称を埋める教育――これらは19世紀から続く課題です。さらに、天然痘ウイルス株の保管問題や、バイオセキュリティ、研究の自由と安全の均衡も現代的論点です。ジェンナーの物語は、人間社会が科学・制度・倫理を束ねてリスクを管理する長い営みの一章だといえます。
ジェンナーは1823年に没しました。生家のあるバークリーには記念館や銅像が残り、彼の名は「ワクチン」という言葉の由来として医学史に刻まれています。田園の診療所から世界の公衆衛生へ――その距離は、卓越した観察と粘り強い実践、社会の合意形成によって埋められました。天然痘根絶という結末は、偶然の副産物ではなく、ジェンナーの第一歩から始まった連続の果てに置かれているのです。私たちはその歩みを、成果と同じくらい、その過程の複雑さとして受け止める必要があるでしょう。

