社会革命党 – 世界史用語集

社会革命党(エスエル、SRとも呼ばれます)は、帝政ロシア末期からロシア革命・内戦期にかけて活動した大衆政党で、農民の土地問題を最重要課題とする「農本社会主義」を掲げました。19世紀のナロードニキ(人民主義)の伝統を継ぎ、土地の社会化(地主的私有の否定と共同体による利用)を主張し、革命前には政府高官の暗殺をも辞さない「戦闘団」による直接行動で知られました。1917年の革命では、地方の農村票を背景に憲法制定議会選挙で最多得票を獲得しますが、ボリシェヴィキ政権によって議会は解散され、党は右派と左派に分裂して内戦の渦に巻き込まれ、最終的に弾圧と亡命に追い込まれました。要するに、社会革命党は「土地を農民へ」という広範な期待を背負い、帝政打倒から革命後の国家像までをめぐってボリシェヴィキと競合した、もう一つのロシア革命の担い手だったと理解していただければ十分です。

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起源と思想――ナロードニキの継承と「土地社会化」

社会革命党は、1901年前後に各地の人民主義グループを統合するかたちで生まれました。思想的な源流は、農村共同体(オーブシチナ)を社会改良の基礎とみなした19世紀のナロードニキにあります。都市労働者に比べて圧倒的多数を占める農民層の解放と自立を重視し、土地問題の解決を革命の中心に置いた点が、マルクス主義を掲げる社会民主労働党(のちのボリシェヴィキ/メンシェヴィキ)と異なる特徴でした。

党綱領の核心は「土地の社会化」です。これは国有化(国家所有)とは異なり、土地そのものの私的所有を廃し、地域共同体・自治体・農業協同体が利用権を管理・再配分するという発想でした。農民が生活と生産の主体であることを尊重し、中央集権的な官僚統制や資本家の大規模私有に対する懐疑が強く表明されました。加えて、住民自治・地方分権・民主主義の拡充、言論の自由、普遍的な選挙権といった自由主義的要素も綱領に含まれ、当時のロシア社会で広範な支持を集める土台となりました。

思想面では、ヴィクトル・チェルノフが理論的指導者として知られます。彼は農民を「小商品生産者」ととらえ、ロシアでは農民階級が政治変革の主体になりうると論じました。この立場は、都市プロレタリアートを革命の唯一の主体と位置づけるマルクス主義正統派とは緊張関係にありましたが、同時に、急速な資本主義化が進む帝政末期の現実に即した柔軟な社会主義像として、多くの支持を得ました。

組織と戦術――「戦闘団」、浸透、そして大衆運動

社会革命党の前史と初期は、秘密結社的性格が濃厚でした。政治警察オフラーナによる弾圧が厳しかったため、党は合法・非合法の二重構造をとり、宣伝・組織化と並んで直接行動を担う「戦闘団(ボエヴァーヤ・アルガニザーツィヤ)」を運用しました。戦闘団は政府要人へのテロル(暗殺)を実行し、プレーヴェ内相やモスクワ総督セルゲイ大公の殺害などで知られます。こうした戦術は、帝政の暴力に対抗する「懲罰」として正当化される一方、無差別性や報復の連鎖を招く危険から、党内外で激しい論争を生みました。

戦闘団の歴史で特筆すべきは、指導者エヴノ・アーゼフが秘密警察の二重スパイであったという事件です。アーゼフは同時に党の中枢をも担い、同僚で創設者の一人グリゴーリー・ゲルシューニらを密告して逮捕に追い込んだ疑いが濃厚となり、1908年に大スキャンダルへ発展しました。この事件は党の道義的権威を大きく傷つけ、テロル路線の再検討と、公開政治・選挙闘争への比重移行を促す転機となりました。

1905年革命の渦中、社会革命党は農民暴動や労働者ストライキ、ソヴィエト(評議会)運動に関与し、ドゥーマ(国会)選挙を通じて農民派の代議士(トルードヴィキ)とも連携しました。党は都市の知識人・学生・職人層にも支持を広げ、女性活動家の参画が目立つ点も特徴でした。マリア・スピリドーノワのような象徴的存在は、専制への抵抗と社会的正義の訴えを結びつけ、党の人気を押し上げました。

1917年の革命――協力、分裂、そして権力をめぐる争い

二月革命で帝政が崩壊すると、暫定政府とソヴィエト権力が併存する「二重権力」の状況が生まれます。社会革命党は農民の支持を背景に暫定政府に要職を送り、土地問題の解決に向けた法整備を模索しました。アレクサンドル・ケレンスキーは法相・首相として革命政府を率いましたが、彼の党籍や政治的立場は複雑で、トルードヴィキやエスエルの周辺に位置しつつ広範な連立の顔として機能しました。

同年秋の憲法制定議会選挙で、社会革命党は地方農村票を集めて最多得票を獲得します(ただし、党内で路線が分かれていた左派エスエルの票が同一名簿に計上されるなど、集計の事情には複雑さがありました)。しかし、十月の武装蜂起で政権を握ったボリシェヴィキは、一回開会しただけの憲法制定議会を1918年1月に解散し、ソヴィエト政権の正統性を主張しました。ここで社会革命党は、革命の正統たる議会主義か、評議会主義かという根本的な問題でボリシェヴィキと対立することになります。

同時に、党は「右派」と「左派」に分裂しました。左派エスエルは、土地分配で農民の即時的要求に近いボリシェヴィキと一時的に協力し、人民委員会議に参加して連立政権を構成します。しかし、ドイツとの講和(ブレスト=リトフスク条約)に強く反対し、1918年7月にはドイツ大使ミルバッハを暗殺して反乱を起こしました(左派エスエル蜂起)。この事件は直ちに鎮圧され、左派エスエルは政権から排除されます。右派エスエルは当初からボリシェヴィキを批判し、地方でソヴィエト権力に抵抗しました。

内戦と敗北――コムーチ、ウファ政権、そして弾圧

1918年夏、チェコ軍団の蜂起をきっかけに内戦が激化すると、社会革命党の議員たちはサマーラで「憲法制定議会委員会(コムーチ)」を結成し、議会主義の復活を掲げて臨時政府を樹立しました。続いて各反ボリシェヴィキ勢力が合流し、ウファで「全ロシア臨時政府(ディレクトーリヤ)」が成立します。ここでもエスエルの政治家は重要な役割を果たしますが、軍事的主導権はしだいに将軍コルチャークらの手に移り、文民的・議会的な路線は後景に退きました。

赤軍の反攻と「戦時共産主義」の下で、社会革命党は都市でも農村でも活動の余地を失っていきます。チェーカー(非常委員会)による取り締まりは厳格化し、党員の逮捕・処刑・流刑が相次ぎました。1922年にはモスクワで「エスエル裁判」と呼ばれる公開裁判が行われ、多くの指導者が有罪判決を受けます。国内での組織は壊滅的打撃を受け、生き残った活動家は亡命して欧州各地で反ソ運動や救援活動、回想録の執筆に従事しました。

農村では、ボリシェヴィキ政権の穀物徴発に対する不満が広がり、各地で反乱が起こりましたが、社会革命党がそれらを全国的に指導する力は既に残っていませんでした。ネップ(新経済政策)への転換は一時的に緊張を緩めたものの、政権党による一党支配は固定化し、エスエルの再起の余地は閉ざされました。

人物・文化・評価――もう一つの「農民の革命」の可能性

社会革命党の顔ぶれとしては、理論家チェルノフのほか、武装闘争と政治工作の両面で活動したボリス・サーヴィンコフ、女性革命家のスピリドーノワ、戦闘団を率いたゲルシューニ、二重スパイとして党を崩壊させたアーゼフなどが挙げられます。地方では無数の農民指導者や学校教師、ゼムストヴォ(地方自治)関係者が党のネットワークを支え、新聞・パンフレット・巡回演説・読書会といった草の根の政治文化を育てました。

党の文化的側面では、ポピュリズムと倫理的社会主義の結合が特徴的でした。暴力をめぐっては自己正当化と内省が交錯し、テロルの是非は党史を通じて最後まで割れた論点でした。農民の共同体主義を重視したことで、近代的な大規模農業や工業化への対応が遅れたという批判もありますが、同時に、中央の官僚統制や暴力的動員に対し、地方自治と住民参加を重視する民主的感覚を持っていたことも事実です。

歴史的評価は、しばしば「もし憲法制定議会が存続していれば」という反実仮想と結びつきます。社会革命党が目指した土地社会化は、ボリシェヴィキの土地国有化とは異なる道であり、農民の自律に基づく連邦的・分権的な共和国像に近いものでした。第一次世界大戦・内戦・経済崩壊という極限状況のもとで、そのような道が現実に成立し得たかは議論が分かれますが、ロシア革命の多様性と未完性を示す対案として、今日も研究の対象となっています。

亡命後、エスエルの資料や回想録は各国に散らばり、20世紀後半のソ連解体以後、ロシア国内での再評価が進みました。地方史や農業政策史の観点から、彼らの思想と実践は、民主主義・自治・土地制度の歴史を考える上で貴重な参照点になっています。暗殺と分裂、敗北の記憶だけでは語り尽くせない、広範な農民大衆の政治化という遺産がそこにはあります。

総括――帝政打倒から国家像の争奪へ

社会革命党は、帝政打倒の同盟者から、革命後の国家像をめぐる競争相手へと立場が変化した政党でした。農民の土地要求という最大の社会的課題に真正面から取り組み、議会と自治、分権と自由をキーワードに、国のかたちを構想しました。しかし、戦争と内戦、非常措置の連鎖、組織の浸透工作、戦術上の分裂が重なり、権力の座を長く保つことはできませんでした。にもかかわらず、彼らが投げかけた問い—土地は誰のものか、国家と共同体の間をどう設計するか、暴力は政治正義を汚さないのか—は、時代と地域を超えて響き続けています。社会革命党を学ぶことは、ロシア革命を「一つの勝者の物語」ではなく、多様な構想と衝突の交錯として捉え直す入り口になるのです。