儒学(じゅがく)とは、本来は孔子を源流とする儒家の思想を体系的に学ぶ学問を指し、中国古代に生まれた道徳・政治・社会秩序に関する教えが、経書の解釈を中心に巨大な学問体系へ成長したものです。やがて儒学は、中国王朝の官学として制度化され、科挙による官僚登用の基盤となり、その影響は朝鮮・日本・ベトナムなど東アジア世界に広がりました。単に「良い人になりましょう」という道徳説教ではなく、人間とは何か、社会はどうあるべきか、国家と天・宇宙との関係はどう理解すべきか、といった幅広い問いを扱う思想・学問が儒学です。
世界史や東アジア史で使われる「儒学」という言葉には、いくつかの層があります。春秋戦国時代の孔子・孟子・荀子などを源流とする古典的儒家の学説、前漢以降に国家の公式イデオロギーとして整理された経学(けいがく)、宋代の朱子らが仏教・道教との対話のなかで再構成した宋明理学(新儒学)、さらに近世日本や朝鮮で展開した多様な儒学(朱子学・陽明学・古学・考証学など)です。儒学とは、こうした長い歴史の中で、儒家の教えが「学問」として蓄積・整理され、政治・社会・教育の現場で使われ続けてきた総体だと理解すると分かりやすくなります。
儒学とは何か:儒家の思想が「学問」となるまで
儒学の出発点は、孔子に代表される儒家の思想です。孔子は、周王朝の礼楽秩序が崩れ、諸侯同士の争いが絶えない春秋時代末期に、「仁(人を思いやる徳)」と「礼(礼儀・制度)」を軸に社会を立て直すことを目ざしました。その教えは、『論語』に記された弟子たちとの対話を通じて伝えられますが、孔子自身は体系的な「学問書」を残したわけではありません。儒学という言葉でイメージされるような、完成された学問体系は、後世の学者たちの努力の積み重ねの結果です。
孔子の死後、その弟子や後継者の中から孟子・荀子などが現れ、儒家の思想を発展させました。孟子は人間の「性善説」を唱え、人民を大切にしない暴君は天命を失い、別の徳ある王朝に取って代わられるという易姓革命の考え方を示しました。一方、荀子は人間の「性悪説」を前提としつつ、教育と礼による道徳的矯正の必要性を強調しました。こうした議論は、「人間とは何か」「政治は何を目標にすべきか」という根本的な問いへの、儒家なりの答えを模索する営みでした。
戦国時代には、儒家のほかにも墨家・道家・法家など多様な学派(諸子百家)が現れ、互いに論争を繰り広げました。秦の統一ののち、一時期は法家思想が優勢になりますが、秦が短命に終わると、次の漢王朝は、長期安定のために「徳治」と「礼」を掲げる儒家の思想に再び注目します。前漢の武帝の時代に董仲舒が「罷黜百家・独尊儒術(諸学派を退け、儒家のみを尊ぶ)」を提言すると、儒家の教えは国家の公式イデオロギーとして採用され、「儒学」として官学化されていきました。
この段階で重要なのは、儒家の思想が「経書」を中心とするテキスト学として再編されたことです。古代から伝わる『詩』『書』『礼』『易』『春秋』などの経典に、儒家的な意味づけを与え、それらを読み解くことが「儒学を学ぶ」という行為の中心になりました。経書の暗記と解釈は、単なる知識ではなく、「正しい秩序や道徳を理解し、それを政治や日常生活で実践するための道」とみなされました。こうして、儒家の教えは、抽象的な徳目から、具体的な経典学=経学へと形を整えていきます。
したがって、儒家と儒学をわけて考えるとき、前者は「孔子らの説く思想・立場」、後者は「その思想を基礎にした学問体系」と整理できます。儒学は、儒家の思想を単に尊ぶだけでなく、テキストの解釈・注釈・整理を通じて、国家や社会の制度と結びつけて運用するための「知の装置」として機能しました。その意味で、儒学は単なる道徳論ではなく、政治哲学・歴史学・文献学・宇宙論なども含んだ総合的な学問だったのです。
漢代以降の儒学:経学と国家イデオロギー
前漢から後漢にかけて、儒学は経学として体系化され、国家の支配理念と深く結びついていきました。経書のテキストそのものも、秦の焚書・坑儒を経て断片的にしか残らなかったものを復元したり、異なる伝承を整理したりする作業が行われました。前漢中期には「今文経学」と「古文経学」と呼ばれる学派の対立が生まれ、どのテキストを正統とみなすか、どのように解釈するかをめぐって激しい論争が展開されました。
経学者たちは、経書の字句を丹念に読み解き、その中から政治や道徳の原理、天と人の関係を読み取ろうとしました。董仲舒は、「天人感応説」として、天変地異は人間社会、とくに君主の徳の欠如への警告であると解釈し、皇帝に道徳的責任を強く意識させました。こうした天命思想は、後の中国史を通じて、王朝交代や政治批判を正当化する理論的枠組みとして大きな影響を与えます。
同時に、儒学は律令や官制といった実務的な統治技術とも組み合わされました。法家由来の厳格な法制度と、儒家由来の徳治・礼治の理念が、現実の政治の中で折衷されていきます。その象徴が「儒表法裏(表向きは儒学を掲げ、内実は法家の仕組みで運営する)」という言葉で、皇帝専制を支える法的統制の枠組みの上に、儒学が道徳的・儀礼的な正当性を提供する構造が見られました。
隋・唐になると、科挙制度が整備され、儒学は官僚登用試験の中心科目となります。受験者は、経書の暗誦だけでなく、詩文作成や政策論文の作成能力を問われ、儒学的教養を持つことが「エリートとしての資格」と見なされました。この過程で、儒学は一部の知識人の学問にとどまらず、広範な士大夫層の共通教養として浸透していきます。
唐代には、韓愈らが仏教や道教の影響力の拡大を批判し、古代の儒家思想への回帰を唱えました。彼らは、文体の面でも「古文運動」を展開し、華麗な四六文ではなく、簡明直截な古い文体で経書や歴史を語ることを重視しました。これは、のちの宋代思想家たちが儒学を再構成する土台となります。こうして漢代以来の経学は、唐宋の転換期を経て、新たな哲学的儒学へとつながっていくことになります。
宋明理学と新しい儒学:朱子学・陽明学
宋代の儒学は、それまでの経書注釈中心の経学から一歩進み、宇宙論や心の在り方まで含む哲学体系として発展しました。これが「宋明理学」と呼ばれる新儒学です。なかでも朱熹(朱子)は、『四書』(『論語』『孟子』『大学』『中庸』)を学問の中心に据え、それぞれに詳細な注釈書を著しました。朱子は、世界の根本原理として「理」、それを具体的に形にしたものとして「気」を想定し、人間の心の中にも普遍的な理が宿ると考えました。
朱子学では、「格物致知(物事に即して理を究め、知を至らしめる)」という修養方法が重視されます。これは、身の回りの事物や行動をていねいに観察し、その背後にある理を探究することで、自らの知性と道徳性を高めていこうとする姿勢です。また、「居敬」と呼ばれる、常に心を正しく保ち、欲望に流されないようにする態度も、朱子学の中心概念でした。こうした理学的儒学は、単に経書を読むだけでなく、「自己の内面を鍛える学問」として多くの士大夫に受け入れられました。
朱子学は元・明・清を通じて「正統儒学」とされ、科挙試験の解答も朱子の注釈に基づくことが求められました。その一方で、朱子学の形式化・教条化に対する批判も生まれます。その代表が、明末の王陽明に代表される「心学(陽明学)」です。王陽明は、「心即理(心こそが理である)」と主張し、普遍的な理は外界の事物ではなく、自分の心の中にすでに備わっていると説きました。彼は、「知行合一(知ることと行うことは本来ひとつ)」を掲げ、頭で理解するだけでなく、実際の行動を通じて道を実現することの重要性を強調しました。
朱子学と陽明学は、いずれも儒学の一派ですが、修養の方法論や理と心の関係について異なる立場をとります。朱子学は、外界の事物や経書を通じて理を探求し、それを内面に取り込んでいく「外から内へ」のアプローチが強く、陽明学は、内なる良知に立ち返り、そこから世界を見直す「内から外へ」のアプローチといえます。こうした違いは、後に日本や朝鮮などで受容される際にも、大きな影響を与えました。
宋明理学の登場により、儒学は仏教・道教との対話のなかで、自らの枠組みを広げました。仏教からは心の内面へのまなざしや修行の方法、道教からは自然観や気の概念などを取り入れつつ、それらを儒家的な倫理・政治観と統合しようとしたのです。その結果として生まれた理学は、「道徳」「政治」「宇宙論」「心理学」を一体で扱う総合哲学として、東アジアの知識人に大きな影響を与えました。
東アジアに広がる儒学:朝鮮・日本・ベトナム
儒学は、中国だけで完結した学問ではありません。漢字文化圏の成立とともに、儒学は朝鮮半島・日本列島・ベトナムなどにも伝えられ、それぞれの地域で独自の発展を遂げました。朝鮮では、高麗末から李氏朝鮮にかけて朱子学が本格的に受容され、国家イデオロギーとして採用されました。朝鮮王朝の官僚登用も科挙によって行われ、両班と呼ばれる支配層は、儒学の学問と礼教を身につけることを当然の義務とされました。
朝鮮儒学は、中国朱子学を徹底して研究しつつ、しばしば中国本家以上に厳格な礼教社会をつくり出しました。家族制度や婚姻、喪礼、祖先祭祀などの面で儒礼が細かく規定され、女性や庶民の行動規範も儒学的価値観によって制約されました。その一方で、李退渓・李栗谷らの高い思想的水準を持つ儒学者も現れ、朝鮮独自の理学・心学の展開を見せました。
日本では、飛鳥・奈良時代に律令体制とともに中国の儒教的制度が導入され、官人教育に儒学が用いられましたが、仏教や神道との並立が基本でした。本格的に儒学が社会に浸透するのは中世末〜近世です。室町時代には五山の禅僧が漢詩文とともに儒学を学び、戦国〜江戸初期にかけては、林羅山・林鵞峰らが朱子学を徳川幕府の正学として位置づけました。江戸時代には藩校や寺子屋で儒学に基づく教養が教えられ、武士だけでなく町人や百姓の子弟も、四書五経の一部に触れる機会を持ちました。
同時に、日本儒学は朱子学一色ではありませんでした。伊藤仁斎・荻生徂徠らは朱子学を批判し、『論語』『孟子』の原典に立ち返る「古学」「古文辞学」を提唱しました。中江藤樹・熊沢蕃山・大塩平八郎らの陽明学者は、「知行合一」の精神から、現実の政治と向き合い、しばしば幕府批判や改革運動と結びつきました。こうした多様な儒学は、近世日本の政治思想や倫理観、教育制度に深く関わり、明治以降の近代日本にも少なからぬ影響を及ぼしました。
ベトナムでも、中国王朝との関係の中で儒学と科挙が導入され、文人官僚層が形成されました。彼らは漢文で詩文を作り、歴史書や地誌を著し、儒学的秩序を基盤に自国の統治を正当化しました。フランス植民地化とともに科挙制度は廃止されますが、儒学的教養は長く社会の上層に影響を残しました。
このように、儒学は東アジア世界における「共通の言葉」でありながら、各地域で異なる政治体制・宗教・社会構造と結びつき、多様な姿をとりました。同じ『論語』や『孟子』を読んでいても、それをどう解釈し、どのような実践に結びつけたかは地域ごとに違いがあり、その違いをたどること自体が、東アジア史を理解する手がかりになります。
近代以降の儒学:批判と再評価
19〜20世紀、東アジアは欧米列強との出会いと近代化の波に直面しました。このとき、儒学はしばしば「封建的で旧いもの」「近代化の妨げ」として批判されました。中国では、清末の変法自強運動や辛亥革命の過程で、科挙制度が廃止され、儒学を基盤とした伝統的官僚制も大きく揺らぎます。五四運動の知識人たちは、「打倒孔家店(孔子の店を打ち壊せ)」をスローガンに掲げ、儒学的な家父長制や礼教を、封建的抑圧の象徴として攻撃しました。
日本でも、明治維新後は西洋の自由主義・個人主義・科学精神が積極的に取り入れられ、儒学は一時的に「旧学」として後景に退きます。ただし、近代国家建設の中で、家制度や学校教育の「修身」などに儒学的価値観が利用される側面もありました。忠孝・勤勉・和などの徳目は、形を変えながらも近代日本人の規範意識の一部として残り続けます。
20世紀後半になると、儒学に対する見方はさらに多様化します。一方では、儒学を「近代化を妨げた原因」とみなし、批判的に距離を置こうとする立場があります。他方で、「東アジアの経済発展の背景には、儒学的な教育重視・勤勉・家族志向がある」とみて、儒学のポジティブな側面を評価する議論も現れました。また、中国や韓国、台湾などでは、「伝統文化」としての儒学を再評価し、道徳教育やアイデンティティ形成の資源として活用しようとする動きも見られます。
学問の世界では、儒学研究がテキスト学にとどまらず、政治思想史・倫理学・比較哲学・ジェンダー研究など、多様な観点から展開されています。儒学の家族観や男女観を批判的に検討する研究、儒学を現代的な倫理理論として再構成しようとする試みなども行われています。これらは、儒学を単に「過去の遺物」として見るのではなく、現代社会の問題と対話しうる思想資源として捉え直そうとする動きです。
このように、儒学は、誕生から2500年以上にわたり、東アジア世界の政治・社会・文化を形づくる重要な学問であり続けました。その内容は一枚岩ではなく、経学・理学・心学・古学・考証学など、多くの流派と議論の重なりから成り立っています。世界史の中で「儒学」という用語に出会ったときには、単に「孔子の教え」だけでなく、「国家を支えた官学」「科挙と士大夫文化の基盤」「東アジア各地で変化し続けた伝統的学問」という、いくつかの層を意識して読むと、その意味がぐっと立体的に見えてきます。

