シュトレーゼマン – 世界史用語集

「シュトレーゼマン」とは、第一次世界大戦後の混乱の中にあったドイツ、いわゆるワイマール共和国で活躍した政治家グスタフ=シュトレーゼマンを指す呼び名です。彼は短期間ながら首相(外相兼任)として政権を担い、その後は外務大臣として長くドイツ外交の舵取りを行いました。激しいインフレや政治的暴力、賠償問題などで崩壊寸前だったドイツを、内政と外交の両面から立て直そうとした人物として知られています。

世界史の教科書などでは、シュトレーゼマンは「ワイマール共和国を一時的な安定期に導いた政治家」「ロカルノ条約によって周辺諸国との関係改善を進めた外相」といった形で紹介されます。彼は強硬なナショナリズムや暴力革命とは異なる道を選び、議会制民主主義の枠内で経済再建と国際協調を追求しました。その路線は、短い期間ではあっても、戦間期のドイツに比較的落ち着きをもたらし、「ワイマール体制の黄金期」と呼ばれる時間を生み出しました。

この解説では、まずシュトレーゼマンの生涯と活動した時代背景を整理し、そのうえで、彼が直面したドイツ国内の危機と、それに対してどのような政策をとったのかを見ていきます。さらに、外務大臣としての彼の外交姿勢、とくにロカルノ条約や国際連盟加盟を通じた国際協調の試みを取り上げ、最後に、その死後にドイツがどのような方向へ向かっていったのかとの関係も含めて説明していきます。概要だけ読んでもシュトレーゼマンのイメージをつかめるようにしつつ、細部まで知りたい人は各セクションでさらに深く理解できる構成にしていきます。

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シュトレーゼマンの略歴と時代背景

グスタフ=シュトレーゼマン(Gustav Stresemann, 1878–1929)は、ドイツ帝国時代のベルリン近郊に生まれた政治家です。比較的庶民的な家庭の出身で、父親は小さなビール醸造業を営んでいました。大学では経済学や歴史を学び、若い頃から政治への関心を示して、帝国時代の自由主義政党の一員として活動を始めます。当初は、ドイツ帝国の中で穏健な国民自由党系の政治家として知られ、帝国議会の議員にも選出されました。

彼の政治的キャリアに大きな影響を与えたのは、第一次世界大戦の勃発と敗北です。戦争初期には、多くのドイツ人と同様に、戦争の遂行を支持する立場に立っていましたが、戦争が長期化し、国内が疲弊していく中で状況は急速に悪化しました。1918年の敗戦と皇帝ヴィルヘルム2世の退位、ドイツ革命による帝政の崩壊は、ドイツ社会全体を大きく揺るがす出来事でした。

帝政崩壊後に成立したワイマール共和国は、初めて本格的な議会制民主主義を採用したドイツの国家でしたが、その出発点はきわめて不安定でした。敗戦国としての屈辱、ヴェルサイユ条約による厳しい賠償義務、領土の喪失、軍備制限などが、国民の間に強い不満と屈辱感を生み出していました。さらに、国内では左派と右派の急進勢力が武装蜂起やクーデタ未遂を繰り返し、政治的暴力が横行していました。

シュトレーゼマンは、こうした混乱の中で、旧帝国時代の自由主義勢力の流れをくむ「ドイツ人民党(DVP)」を率いて政治の舞台に立ち続けました。DVPは保守自由主義寄りで、当初は共和制に批判的な姿勢も見せていましたが、しだいに現実的な路線を取り、議会制の枠内で政策を行う方針へと移行していきます。シュトレーゼマン自身も、帝政期の保守的な立場から、ワイマール共和国を前提にその安定と国際的地位の回復を図る方向へと考えを変化させていきました。

1923年、ワイマール共和国は最大級の危機に直面します。戦後賠償の支払い遅延を理由に、フランスとベルギーがドイツの工業地帯ルール地方を占領し、ドイツ政府が「消極的抵抗」としてストライキを呼びかけた結果、国内の生産は止まり、税収も落ち込み、政府は紙幣増刷によって支出を賄おうとしました。その結果、物価が際限なく上昇する「ハイパーインフレ」が発生し、ドイツの通貨・マルクはほとんど価値を失います。この未曾有の経済危機のさなか、シュトレーゼマンは首相兼外相として政権を担うことになります。

1923年の危機と内政の立て直し

シュトレーゼマン内閣が成立したのは1923年8月のことで、彼の政権はわずか数か月しか続きませんでした。しかし、その短い期間に行われた決断は、ワイマール共和国を崩壊のふちから引き戻す重要な転換点となりました。まず彼は、ルール地方占領に対する「消極的抵抗」を中止し、生産の再開を優先する方針を打ち出します。これは、フランスへの屈服と受け取られるおそれがあるため国内の保守・民族主義勢力から激しい批判を受けましたが、経済の破綻を止めるためには避けて通れない選択でした。

次に、シュトレーゼマン政権は、極度のインフレを収束させるために、新しい通貨の導入に踏み切ります。農地や工業生産力など、実体のある担保を背景にした「レンテンマルク」と呼ばれる臨時通貨を発行し、これを基準に通貨価値の安定を図ろうとしました。レンテンマルクの導入と厳しい財政・金融政策の組み合わせによって、紙くず同然となっていた旧マルクは整理され、市場の信頼は徐々に回復していきます。

ただし、インフレの収束は、通貨価値を突然引き上げることでもあり、多くの人びとにとっては痛みを伴うものでした。借金を抱えていた者は負担が軽くなりましたが、貯蓄を現金で持っていた中産階級や年金生活者は、一気に資産を失い、その生活基盤は崩れてしまいました。シュトレーゼマンの政策は国家全体を救った一方で、個々の市民には深い傷を残し、このことが後の政治的不満の土壌となった面もあります。

内政面では、シュトレーゼマンは議会制民主主義の枠組みを維持しつつ、複数の政党が連立を組む「大連立」政権を模索しました。ワイマール共和国の政党システムは分裂気味で、左右両極の急進勢力(共産党や極右勢力)に対して、中道・穏健勢力がどこまで協力して政府を支えられるかが重要な課題でした。シュトレーゼマンは自身が率いるドイツ人民党を、中道左派の社会民主党や中道の中央党などと組ませることで、幅広い議会多数派を形成しようと試みました。

しかし、国内政治の対立は根強く、シュトレーゼマン内閣そのものは1923年の年末には総辞職に追い込まれます。それでも、彼が首相として行った通貨改革や抵抗政策の転換は、後継政権にも受け継がれ、ワイマール共和国は1924年以降、しばしば「比較的安定した時期」と呼ばれる数年間を迎えることになります。この後もシュトレーゼマンは外務大臣として政権に残り、今度は外交の場でドイツの立場を改善しようとしました。

ロカルノ条約と国際協調外交

シュトレーゼマンの名を国際的に有名にしたのは、外務大臣として行った一連の外交交渉です。第一次世界大戦後のドイツは、ヴェルサイユ条約によって勝利国に対する賠償支払い義務を負わされ、軍備は大幅に制限され、領土も喪失しました。国内では条約を「強制された不公平な講和」とみなす声が強く、これを全面的に拒否すべきだとする過激な主張も根強くありました。

これに対してシュトレーゼマンは、「ヴェルサイユ体制を正面から叩き壊す」のではなく、「その枠組みの中で現実的に交渉を重ね、徐々にドイツの地位改善を勝ち取る」という方針を取りました。彼は、賠償問題に関してはアメリカの仲介を得てドーズ案(1924年)・ヤング案(1929年)といった新しい支払い計画を受け入れ、負担を長期に分散させることで、ドイツ経済に一定の余裕を作ろうとします。この過程でアメリカ資本がドイツに大量に流入し、工業の近代化や都市の再建に活用されました。

外交面の大きな転換点となったのが、1925年に締結されたロカルノ条約です。この条約は、ドイツ・フランス・ベルギー・イギリス・イタリアなどが参加し、ドイツの西側国境(フランス・ベルギーとの国境)の現状を相互に保証し合うというものでした。ドイツはフランスとの対立の主な火種であったアルザス・ロレーヌの再獲得をあきらめ、西側国境を不可侵と認める代わりに、フランスもドイツ領への侵攻をしないことを約束します。

ロカルノ条約によって、ドイツは「ヨーロッパの秩序を乱す危険な国家」から「国際協調に参加するパートナー」へとイメージを転換しつつありました。翌1926年には、ドイツは国際連盟への加盟を認められ、常任理事国としての地位も得ます。国際社会への復帰を果たしたこの過程は、シュトレーゼマン外交の成果とされ、彼自身もフランス外相ブリアンとともにノーベル平和賞を受賞しました。

ただし、シュトレーゼマンの外交は、国内ですべての人に支持されていたわけではありませんでした。右派からは「ヴェルサイユ条約を認め、西側国境を固定した裏切り者」と非難され、左派からは「対外協調に熱心な一方で、国内の社会改革には及び腰だ」と批判されました。それでも彼は、国際的な孤立から抜け出すためには、まず信頼を回復し、協調の中で発言力を高める必要があると考え、その路線を貫こうとしました。

シュトレーゼマン自身の本心としては、ロカルノ条約で確定した西側国境を受け入れる一方で、東部国境(ポーランドとの国境など)については将来的な平和的再交渉の余地を残したいという思惑もあったとされています。つまり、表向きは国際協調を掲げつつ、ドイツの利益を最大限に回復させようとする、きわめて現実的で計算された外交家でもありました。この両面性が、彼を単純な「理想主義的平和主義者」としてではなく、「ナショナルな関心を持ちながらも戦争を避けようとした保守的現実主義者」として理解させる要素になっています。

シュトレーゼマンの死とその後のドイツ

シュトレーゼマンは1929年、51歳という比較的若い年齢で急死しました。彼の死は、国内外に衝撃を与えます。ちょうど同じ年、アメリカで世界恐慌のきっかけとなる株価大暴落が起こり、国際経済は大きな混乱に陥りました。ドイツは、戦後の経済再建をアメリカからの借款に大きく依存していたため、その影響を強く受け、再び失業と貧困が急増する事態に直面します。

もしシュトレーゼマンが生きていれば、この新たな危機にどう対処しただろうか、という問いはしばしば語られますが、実際には彼はすでにこの時点で亡くなっており、ワイマール共和国は、彼が築いた国際的信頼と協調路線を十分に守り抜くことができませんでした。経済危機を背景に、議会制民主主義への不信が高まり、極右勢力であるナチ党や、極左の共産党が急速に支持を伸ばしていきます。

1930年代初頭には、議会で多数派を形成できる中道勢力が弱まり、大統領緊急令による統治が増え、議会制は形骸化していきました。このプロセスの中で、シュトレーゼマンが目指した「民主的な議会政治の枠内で、ドイツの国際的地位と経済を回復する」という路線は、徐々に後景へ押しやられていきます。1933年にヒトラー率いるナチ党が政権を握ったとき、ワイマール共和国は最終的な終わりを迎えました。

戦後の評価において、シュトレーゼマンはしばしば、「もし彼の路線が続いていれば、ドイツは極端なナチズムに走らずに済んだかもしれない」という文脈で語られます。しかし一方で、彼の外交がアメリカ資本への依存を高め、後の世界恐慌の際にドイツ経済の脆弱性を増した面も指摘されます。また、彼自身もドイツの国益を重視し、ヴェルサイユ体制の修正を目指していた以上、その政策が長期的に見てどの程度平和的な道筋を維持できたかは、完全にはわかりません。

いずれにせよ、シュトレーゼマンが1920年代のワイマール共和国において重要な役割を果たしたことは確かです。彼は、経済の立て直しと国際協調を通じて、第一次世界大戦後の混乱から一時的にドイツを救い出し、議会制民主主義が機能しうることを示しました。同時に、その試みが長期的には挫折し、ナチスの台頭を食い止めることができなかった事実も、当時のドイツ社会の深い矛盾や不安定さを物語っています。

シュトレーゼマンという人物を通して見ると、戦間期ドイツは「敗戦国としての屈辱」「賠償と経済危機」「民主主義への期待と失望」「国際協調とナショナリズムのせめぎ合い」といった要素が複雑にからみあった時代であったことが浮かび上がります。彼の名前は、ワイマール共和国の数少ない安定期を象徴する政治家として、そしてその後に続く激動の時代を理解するうえで欠かせないキーワードとして、世界史の中に位置づけられているのです。