ジュネーヴ軍縮会議(1927) – 世界史用語集

「ジュネーヴ軍縮会議(1927)」とは、第一次世界大戦後の海軍軍備制限の流れの中で、アメリカ・イギリス・日本などが参加してスイスのジュネーヴで開いた国際会議のことです。目的は、すでにワシントン会議で制限されていた主力艦(戦艦・空母)に加えて、巡洋艦や駆逐艦、潜水艦といった補助艦艇にも軍縮の原則を広げ、海軍軍拡競争を本格的に抑え込むことでした。しかし、参加国の利害が対立して具体的な制限比率で合意に至らず、この会議は最終的に失敗に終わりました。

世界史では、ジュネーヴ軍縮会議(1927)は「ワシントン体制の延長として試みられたが決裂した軍縮会議」として扱われます。この会議の失敗は、その後のロンドン海軍軍縮会議(1930)へ向けた一つの布石となると同時に、戦間期の国際協調の難しさ、特に海軍力をめぐる列強の思惑の衝突を象徴する出来事でもありました。アメリカとイギリスのあいだ、またそれに加わる形の日本の立場の違いが噴き出した場として理解されます。

この解説では、まずワシントン会議以降の国際情勢と海軍軍縮の流れを確認し、その中でジュネーヴ軍縮会議(1927)がどのような位置を占めるのかを整理します。つぎに、会議の参加国・議題・各国の主張と対立点を具体的に見ていきます。そのうえで、なぜ合意に失敗したのか、そしてこの失敗がのちのロンドン海軍軍縮条約や、さらにその後の軍拡・戦争への流れとどのようにつながっていくのかを説明していきます。

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ワシントン体制と海軍軍縮の流れ

ジュネーヴ軍縮会議(1927)を理解するためには、その前段階となるワシントン会議(1921〜22年)の意義を押さえる必要があります。第一次世界大戦後、アメリカ・イギリス・日本などの海軍大国は、戦時中に拡大させた海軍力を維持するか、それとも軍備を制限して財政負担を軽くするかという選択を迫られていました。戦争による国民の疲弊や財政難から、多くの国で軍縮への期待が高まり、アメリカの呼びかけで開かれたのがワシントン会議です。

ワシントン会議では、主に三つの条約が結ばれました。そのうち世界史でとくに重要なのが、アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリアの主力艦の保有量を制限し、比率をアメリカ=イギリス:日本:フランス=イタリア=5:3:1.67に定めた「ワシントン海軍軍縮条約」です。この条約によって、各国が戦艦や空母を無制限に増やすことを防ぎ、海軍軍拡競争をいったん抑え込むことに成功しました。

しかし、ワシントン条約の対象となったのは主力艦に限られ、巡洋艦・駆逐艦・潜水艦などの補助艦艇には明確な制限が設けられていませんでした。各国は主力艦を増やせない分、補助艦艇、とくに通商破壊や海外植民地防衛に使える巡洋艦の整備に力を入れ始めます。その結果、今度は補助艦艇をめぐる新たな軍拡競争が起こりかねない状況になりました。

アメリカは、太平洋と大西洋の二つの海洋に対応する必要があり、長距離航行が可能で武装の強い巡洋艦を多数保有したいと考えていました。一方、イギリスは世界各地に植民地や通商路を持つ海洋帝国として、あらゆる海域をカバーする「数の多い巡洋艦」を必要としていました。日本は太平洋地域での自国の安全保障を重視し、アメリカやイギリスに対して一定の比率で海軍力を確保したいと考えていました。

こうしたなかで、「補助艦艇にもある程度の制限を設けないと、せっかくの軍縮の成果が無意味になる」という危機感が生じ、主力艦以外の艦艇にも制限を広げる新たな軍縮会議が求められるようになります。その舞台として選ばれたのが、中立国スイスの都市ジュネーヴでした。これが、1927年に開かれたジュネーヴ軍縮会議です。

1927年ジュネーヴ軍縮会議の構成と各国の主張

1927年のジュネーヴ軍縮会議は、正式にはアメリカ大統領クーリッジの提案によって招集された海軍軍縮会議です。主な参加国は、海軍大国であるアメリカ・イギリス・日本の三か国で、ワシントン会議に加わっていたフランスとイタリアは、この段階では消極的または不参加という形をとりました。会議の目的は、ワシントン海軍軍縮条約の精神を補助艦艇にも広げることで、長期的な軍備競争を抑えることでした。

議題の中心は、巡洋艦・駆逐艦・潜水艦の保有量と、その制限方法でした。しかし、ここでアメリカとイギリスの海軍戦略の違いが大きな対立点となります。アメリカは、太平洋における日本との潜在的対立を念頭に、重巡洋艦(1万トン級の大型巡洋艦)を重視していました。重巡洋艦は長距離航行と重武装を兼ね備え、戦艦に次ぐ重要な戦力とみなされていたのです。

これに対してイギリスは、帝国全域の通商路を防衛するため、多数の軽巡洋艦(より小型で軽武装だが、哨戒や護衛に適した艦)の必要性を主張しました。イギリスにとって重要なのは、一隻あたりの戦闘力よりも、世界中にばらまいて海上交通を守ることができる「艦数」でした。そのため、「総トン数での制限」か「艦数での制限」か、また「重巡洋艦と軽巡洋艦をどのように区別し、それぞれをどれだけ認めるか」という点で、アメリカとイギリスの意見は大きく食い違いました。

日本は、このアメリカとイギリスの対立の間に立たされる形になりました。日本海軍は、太平洋においてアメリカ艦隊と戦う可能性を想定し、「質で劣っても数で圧倒されては困る」という立場から、アメリカに対してある程度高い比率の補助艦保有を求めました。一方で、日本の外交当局は、ワシントン会議での協調路線を継続し、アメリカ・イギリスと一定の妥協を図る必要も感じていました。

会議では、アメリカが自国とイギリスの巡洋艦総トン数を同一にしつつ、日本に対してはそれより低い比率を提示する案を主張しました。日本側は、主力艦で5:3とされた比率を補助艦にも適用することを望み、アメリカ案とのあいだで開きが埋まりませんでした。一方、イギリスは「自分たちにはより多くの軽巡洋艦が必要だ」として、アメリカとの同一水準に縛られること自体に難色を示しました。

このように、アメリカ・イギリス・日本の三か国は、それぞれ安全保障上の事情と帝国・国益を背景に異なる優先順位を持っており、単純に比率だけを決めればよいという問題ではありませんでした。会議の場では細かな数字をめぐる駆け引きが行われましたが、最終的に三か国が納得できる妥協点を見いだすことはできませんでした。

会議決裂の要因とその意味

ジュネーヴ軍縮会議(1927)が最終的に合意に達せず決裂した要因は、いくつかに分けて整理できます。第一の要因は、アメリカとイギリスの海軍戦略の相違です。アメリカは太平洋重視、イギリスは世界的な通商路防衛重視という立場から、それぞれに必要と考える艦種と数が異なっていました。どちらか一方の考え方を基準に制限をかけると、もう一方にとっては安全保障上の不利となり、受け入れ難いものになってしまいます。

第二の要因は、日本をめぐる力のバランスです。アメリカは、日本に対して主力艦で認めた5:3という比率を補助艦にも拡張することには慎重でした。補助艦は実際の海戦や通商破壊で重要な役割を果たすため、そこでもアメリカと日本があまりに近い水準になることを警戒したのです。一方、日本としては、広大な太平洋でアメリカと渡り合うには、主力艦だけでなく補助艦でも一定の比率を保つ必要があると考え、「あまりにも低い比率」は国家の安全を損なうものと受け取られました。

第三の要因として、フランスやイタリアの不参加・消極姿勢も挙げられます。ワシントン会議では五大国の枠組みで主力艦の制限が行われましたが、ジュネーヴ会議では実質的に三か国での協議となり、フランスやイタリアは自国の立場が不利になる軍縮に積極的ではありませんでした。もし五か国全体でバランスを考えながら包括的な合意ができていれば状況は違ったかもしれませんが、限られた国のみの協議では合意の政治的正当性も弱くなってしまいます。

さらに、国内政治の事情も会議の成否に影響を与えました。アメリカでは、軍縮を支持する世論がある一方で、「海軍力を削って国際的影響力が低下するのではないか」という不安も少なくありませんでした。イギリスでも、帝国防衛の観点から「これ以上の削減は危険だ」という海軍側の反発が根強くあり、日本でも海軍内で対外協調に慎重な強硬派が力を持ちつつありました。こうした国内の力学が、各政府の妥協の余地を狭めていたのです。

ジュネーヴ軍縮会議の決裂は、戦間期の国際協調の限界を象徴する出来事として評価されます。ワシントン会議で一定の成功を収めた「条約による軍縮」の試みは、より複雑な補助艦問題に直面すると途端に難航し、「各国の安全保障上の懸念を無視した数字合わせだけでは合意が得られない」という現実が明らかになりました。

とはいえ、ジュネーヴ会議の失敗がすぐさま全面的な軍拡に直結したわけではありません。この会議で積み残された問題は、その後も各国の外交議題として残り続け、最終的には1930年のロンドン海軍軍縮会議で部分的な解決が図られます。その意味で、1927年のジュネーヴ会議は「失敗に終わったけれども、次の合意につながる試行錯誤の一段階」としても捉えることができます。

その後のロンドン海軍軍縮会議との関係と歴史的評価

1927年のジュネーヴ軍縮会議で補助艦艇の制限に失敗した後も、各国は軍縮の可能性を完全に捨て去ったわけではありませんでした。経済的負担の重さや、国際世論の軍備削減への期待は依然として存在し、特に1929年の世界恐慌の後には、財政緊縮の観点からも軍縮の必要性が増していきます。

こうした中で1930年に開かれたのが、ロンドン海軍軍縮会議です。ロンドン会議では、再びアメリカ・イギリス・日本などが集まり、今度こそ巡洋艦・駆逐艦・潜水艦を含む補助艦艇の制限について合意を目指しました。ジュネーヴ会議で明らかになった各国の主張や懸念は、このロンドン会議でも持ち越されましたが、数年のあいだに各国の力関係や内政状況が変化したこともあり、最終的には一定の合意が成立します。

ロンドン海軍軍縮条約では、アメリカ・イギリス・日本の三国間で補助艦の総トン数と艦種別の制限が取り決められ、日本は主力艦に比べてやや低い比率ながらも、一定の発言権を保つことに成功しました。ただし、日本国内ではこの条約が「対米英協調」を優先しすぎているとして、海軍内部の強硬派や国家主義勢力から批判されるようになります。これが、のちにロンドン条約の破棄や軍縮体制からの離脱へと向かう伏線となりました。

このように見てくると、ジュネーヴ軍縮会議(1927)は、結果として合意には至らなかったものの、戦間期の海軍軍縮外交の中で重要な通過点を成していたことがわかります。ワシントン会議での成功、ジュネーヴ会議での失敗、ロンドン会議での部分的成功という流れは、国際協調の可能性と限界を同時に示すものとして理解できます。

歴史的評価の面では、ジュネーヴ軍縮会議は「失敗した軍縮会議」として簡潔に語られることが多い一方で、その失敗の理由を分析することは、なぜ国際協調がしばしばうまくいかないのか、なぜ安全保障をめぐる妥協が難しいのかを考える上で重要なヒントを与えてくれます。各国がそれぞれの安全保障・帝国維持・国内政治を抱え込んだまま「軍縮」を議論するとき、その会議は単なる「数字合わせ」では済まない、という戦間期の教訓がここに表れています。

また、日本史の視点から見ると、ジュネーヴ軍縮会議は、日本が海軍国として国際交渉の場に本格的に参加し、自国の安全保障と国際協調のあいだで悩み始めた時期の象徴とも言えます。ここでの経験は、ロンドン海軍軍縮会議をめぐる国内対立や、1930年代の軍縮体制からの離脱・再軍備の流れとつながっており、最終的には太平洋戦争へ向かう道筋の一部を形づくりました。

世界史で「ジュネーヴ軍縮会議(1927)」という用語が登場するときには、単に「ワシントン会議に続くが失敗した」と覚えるだけでなく、なぜ失敗したのか、その失敗が何を示しているのか、そしてその後どのような影響をもたらしたのかまで視野に入れて理解しておくと、戦間期の国際協調と軍縮外交の全体像がより立体的に見えてきます。