ジュネーヴ軍縮会議(1932) – 世界史用語集

「ジュネーヴ軍縮会議(1932)」とは、第一次世界大戦後の国際連盟体制のもとで、「陸海空すべての軍備を本格的に削減しよう」として、1932年からスイスのジュネーヴで開かれた大規模な国際会議のことです。参加国は約60か国にのぼり、戦争違法化をうたった不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約)などの流れを受けて、「もはや戦争をしないなら、そもそも軍備を減らせるはずだ」という理屈にもとづいて議論が始まりました。しかし、各国が置かれた安全保障の事情や国内政治の思惑は複雑で、会議は長期にわたっても具体的な成果を上げられず、最終的には事実上の失敗に終わります。

世界史では、このジュネーヴ軍縮会議(1932)は、「戦間期の国際協調の試みが行き詰まり、ナチス・ドイツの台頭など再軍備への流れが強まっていく転換点」として取り上げられます。とくに、ヴェルサイユ条約によって厳しく軍備を制限されていたドイツが、「他国も同じ水準まで軍縮するか、自国に再軍備を認めるか、どちらかにすべきだ」と主張して国際社会と対立し、最終的に連盟および会議から離脱していく過程は、ヒトラー政権の強硬路線と重なり合う重要なポイントです。

この解説では、まずジュネーヴ軍縮会議(1932)が開かれるまでの背景と、ワイマール期末からナチス台頭期にかけてのドイツや列強の状況を整理します。つぎに、会議の構成や参加国、主な議題と各国の主張を見ていきます。そのうえで、なぜ会議が具体的な軍縮合意に至らず頓挫したのか、そしてその挫折がその後の再軍備と第二次世界大戦への道筋とどのように絡んでいくのかを説明していきます。概要だけ読んでも、「平和をめざすはずの軍縮会議がなぜうまくいかなかったのか」という大まかなイメージを持てるようにし、詳しく知りたい人は各セクションを通じて細部まで追える構成にします。

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ジュネーヴ軍縮会議(1932)の背景と位置づけ

第一次世界大戦後、国際連盟規約やヴェルサイユ条約には、「軍備縮小」の理念が書き込まれていました。とくに国際連盟規約第8条は、各国の軍備が「国家の安全と国際義務の履行に必要な最低限度」に制限されるべきだと定めており、大戦の惨禍を踏まえて「軍拡競争を繰り返さない」という意思が一応は共有されていました。

さらに1928年には、フランスのブリアン外相とアメリカの国務長官ケロッグの提案によって「不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約)」が締結され、多くの国が「国家政策の手段としての戦争を放棄する」と宣言します。もちろん、この条約が実際に戦争を完全に止めたわけではありませんが、「戦争は違法である」という理念を国際的に確認したという点で、大きな節目とされます。

こうした理念からすれば、「もはや戦争を認めないなら、大量の軍備を保持し続ける必要はないはずだ」と考えるのは自然な流れでした。そこで国際連盟は、1920年代から「一般軍備の削減」を目標に掲げ、準備委員会を設けて各国の意見を集約しようとしました。その成果として構想されたのが、1932年に始まるジュネーヴ軍縮会議です。ここでは、陸軍・海軍・空軍をふくむ総合的な軍縮について、多数の国が一堂に会して話し合うことが予定されました。

しかし、理想と現実のあいだには大きなギャップがありました。ヨーロッパでは、フランスが対ドイツ安全保障を理由に強い陸軍力の維持を主張し、イギリスは財政難から軍縮に前向きでありつつも、海軍力の削減には慎重でした。アメリカは孤立主義的傾向を持ちながらも、世界最大級の工業力と潜在的軍事力を抱えていました。そしてドイツは、ヴェルサイユ条約によって兵力や兵器の保有を厳しく制限され、「敗戦国としての不平等」を強く訴えていました。

とくにドイツにとって、ジュネーヴ軍縮会議は「自国の劣等な軍備状況を是正するチャンス」と見なされていました。ヴェルサイユ条約のもとで、ドイツは大規模な徴兵制を禁じられ、兵力も10万人規模の志願兵軍に制限されていました。戦車や重砲、航空戦力なども大幅に制限される一方、勝利国側は自国の軍備を大きく削減していませんでした。ドイツ世論には、「敗戦国だけが一方的に武装解除させられ、勝利国はそのまま」という強い不満が渦巻いていたのです。

この不満は、「ドイツに軍備の平等を認めよ(Gleichberechtigung)」というスローガンとなって現れます。つまり、「もし世界が本当に軍縮をめざすなら、他国もドイツ並みに軍備を下げるべきだし、それが無理ならドイツにも再軍備の自由を与えるべきだ」という主張です。この「平等な軍備」というテーマが、ジュネーヴ軍縮会議全体の雰囲気を大きく左右することになります。

会議の構成と参加国、議論の進み方

ジュネーヴ軍縮会議は、1932年2月に国際連盟主催で開会しました。参加国は連盟加盟国を中心に約60か国にのぼり、当時の独立国の多くが名を連ねる「世界的規模の軍縮会議」となりました。議長にはイギリスのマクドナルド首相らが関わり、連盟理事国や大国が主導するかたちで議事が進められました。

会議の議題は多岐にわたりましたが、大きく分けると、陸軍・海軍・空軍それぞれの兵力・兵器の制限方法、攻撃兵器と防御兵器の区別の問題、化学兵器など新兵器の禁止、常備軍と予備役の扱いなどがありました。各国は、自国の安全保障を損なわない範囲での削減案を持ち寄り、数字やカテゴリーの設定をめぐって激しい交渉を繰り広げました。

初期の段階では、アメリカ大統領フーヴァーが提出した「フーヴァー案」が注目を集めました。この案は、重戦車や重砲など「攻撃的」と見なされる兵器の廃絶や、空軍力の大幅な削減を提案するもので、理論上はかなり思い切った軍縮案でした。しかし、フランスは対ドイツ抑止の観点から強力な陸軍と要塞を必要としており、重装備の削減には極めて慎重でした。

一方、ドイツ代表団は、「軍備の平等」を会議の中心テーマとして押し出しました。彼らは、ヴェルサイユ条約に基づくドイツの軍備制限を他国にも適用するか、さもなければドイツに再軍備の権利を認めるか、どちらかでなければ真の軍縮とは言えないと主張しました。これは国内のナショナリズムの高まりを背景とした強い要求であり、ワイマール共和国末期の政権も、国内世論に押されるかたちでこの路線を支持せざるをえませんでした。

フランスは、ドイツの「平等な軍備」要求に強く反発しました。フランス側の論理は、「ドイツは大戦で侵略側に立ってヨーロッパを破壊したのであり、その軍備を制限するのは当然の安全保障措置である」というものでした。また、ドイツの人口規模や工業力を考えると、もし軍備制限が完全に解除されれば、再び強大な軍事国家となってフランスを脅かす可能性が高いと恐れていました。

イギリスは、フランスほど対ドイツに強硬ではない一方で、ヨーロッパ全体の安定を重視し、「フランスの安全保障に配慮しつつ、ドイツにも一定の譲歩を迫る」という中間的な立場を取ろうとしました。しかし、イギリス自身も財政負担軽減のために軍縮を望みながら、海軍力の大幅削減には慎重であり、陸軍・空軍と海軍の削減バランスをめぐってアメリカとの間に微妙な駆け引きが生じました。

こうした大国間の思惑の食い違いにより、会議は具体的な数字に踏み込むことができず、理念的な議論や予備的交渉が続く状態となりました。その間にも各国の国内政治は動き続け、とくにドイツではナチス党が急速に勢力を伸ばし、軍備の平等を求める声に過激な色彩が加わっていきます。

ヒトラー政権の登場と会議の行き詰まり

ジュネーヴ軍縮会議が始まった1932年には、ドイツ国内の政治情勢はすでに不安定さを極めていました。世界恐慌の影響で失業者が増大し、ワイマール共和国の民主主義体制は国民の支持を失いつつありました。このなかで、ヴェルサイユ体制の不当性を激しく非難し、「ドイツの再軍備」と「民族の再生」を掲げるナチス党が急速に支持を拡大していきます。

1933年1月、アドルフ=ヒトラーが首相に任命され、ナチス政権が成立します。ヒトラー政権は、政権発足当初からヴェルサイユ条約と軍備制限への強い敵意を示し、「ドイツ民族の名誉を回復する」という名目で再軍備を目標に掲げました。ジュネーヴ軍縮会議におけるドイツ代表団の姿勢も、この変化を反映して一層強硬なものになっていきます。

会議の場でドイツは、「他国がドイツ並みに軍縮するか、ドイツに軍備の平等を認めるか、どちらも行われないのであれば、ドイツは会議にとどまる意味がない」と主張しました。しかしフランスをはじめとする諸国は、ドイツの完全な再軍備に踏み切ることには到底同意できませんでした。安全保障上の恐怖と、第一次世界大戦の記憶が、それを許さなかったのです。

こうした対立の末、ドイツは1933年10月にジュネーヴ軍縮会議からの撤退を表明し、同時に国際連盟からの脱退も宣言します。これは、ドイツがもはや連盟体制と協調的軍縮の枠組みにとどまる意志を失ったことを意味していました。表向きの理由は「不平等な扱いへの抗議」でしたが、実際にはヒトラー政権が自由な再軍備への道を開くための布石だったと考えられます。

ドイツの離脱は、ジュネーヴ軍縮会議にとって致命的な打撃でした。会議は1934年以降も形式的には継続されましたが、最大の焦点であったドイツ問題が会議の外で進行してしまった以上、もはや実質的な意味を持つ議論は困難でした。各国も自国の軍備削減に踏み切る意欲を失い、結局この会議から拘束力の強い軍縮条約が生まれることはありませんでした。

ジュネーヴ軍縮会議の行き詰まりは、「戦争を違法と宣言する理想」と、「安全保障上の不安や国内政治上の圧力」という現実の矛盾を露わにしました。とくに、敗戦国ドイツに対する不信と、ドイツ側の被害者意識が正面からぶつかり合う中で、双方が納得できる妥協点を見つけることは極めて難しかったことが分かります。

ジュネーヴ軍縮会議(1932)の後に続く流れ

ジュネーヴ軍縮会議が事実上失敗に終わった後、ヨーロッパと世界の情勢は急速に再軍備と対立の方向へ傾いていきました。ドイツではヒトラー政権がヴェルサイユ条約の軍備制限を次々と破り、秘密裏に軍拡を進めます。徴兵制の復活、大規模な陸軍の整備、空軍(ルフトヴァッフェ)の創設などは、1930年代半ばには公然と行われるようになりました。

フランスやイギリスも、ドイツの動きに対応して防衛力の強化を進めざるをえませんでしたが、第一次世界大戦の犠牲と経済的負担の記憶から、大規模な軍拡には消極的な世論も根強く存在しました。その結果、軍備増強のペースではドイツに後れをとり、「再軍備を抑えるための協調軍縮」に失敗したあと、「ドイツに追いつくための再軍備」にも十分に成功できない、という中途半端な状況に陥っていきます。

また、イタリアや日本など、他のファシズム的・軍国主義的な政権も、国際連盟や軍縮の枠組みに不満を抱き、次第に独自の勢力圏拡大路線へと向かっていきました。イタリアのエチオピア侵略、日本の満州事変からの国際連盟脱退などは、連盟体制と軍縮の理念が現実の侵略行為を抑え込む力を持たなかったことを示しています。

この意味で、ジュネーヴ軍縮会議(1932)は、戦間期の「国際協調の最後の大きな試み」の一つとして位置づけられます。ワシントン会議やロカルノ条約など、1920年代には一時的に緊張緩和や軍縮の成果も見られましたが、1930年代に入ると世界恐慌や極右勢力の台頭が進み、「協調の時代」は次第に「対立と再軍備の時代」に取って代わられました。

ジュネーヴ軍縮会議自体は、目に見える軍縮条約を生み出さなかったため、世界史の教科書では比較的短く扱われることもあります。しかし、その議論の過程をたどると、「なぜ軍縮は難しいのか」「戦争違法化と軍備削減のあいだにどのようなギャップがあるのか」「敗戦国と勝利国のあいだの不信はどのように再軍備へつながっていくのか」といった問題が浮かび上がります。

ジュネーヴ軍縮会議(1932)という用語に出会ったときには、単に「失敗した軍縮会議」と覚えるだけでなく、第一次世界大戦後の理想主義的な国際協調の流れがどのようにして行き詰まり、第二次世界大戦へと向かう転換点の一つになったのかを考える手がかりとして捉えることで、戦間期の世界の動きをより具体的にイメージしやすくなります。