「情報公開(グラスノスチ)」とは、1980年代後半のソ連で、ゴルバチョフ政権が進めた「社会の開放」と「言論の自由の拡大」をめざす政策を指す言葉です。ロシア語の「グラスノスチ」はもともと「公然性」や「公開性」という意味で、政府が独占してきた情報を社会に開き、人びとが自由に意見を述べ、問題点を議論できるようにすることを目標としました。それまでのソ連は、厳しい言論統制と検閲のもとで、政府に不都合な情報が隠される「閉ざされた社会」でしたが、グラスノスチによって、その枠を大きくゆるめようとしたのです。
グラスノスチは、同じくゴルバチョフが掲げた経済改革「ペレストロイカ(立て直し)」と密接に関係しています。経済の停滞や官僚主義の腐敗を克服するには、単に計画の数字をいじるだけではなく、問題点を正直に明らかにし、社会全体で議論しながら改革を進める必要がある――そのような考えから、「情報を隠す文化」を改め、「開かれた議論の場」を作ろうとしたのがグラスノスチでした。新聞やテレビでタブーとされてきた歴史問題や社会問題が次々と取り上げられ、人びとが政治に対して意見を述べる機会が増えたことで、ソ連社会は短期間のうちに大きく雰囲気を変えていきます。
しかし、グラスノスチは単に「良いこと」だけではありませんでした。長年押さえ込まれてきた不満や民族対立、体制への疑問が一気に噴き出し、ソ連という国家の根本そのものが揺さぶられる結果にもつながりました。情報公開と議論の自由は、人びとに希望と解放感を与える一方で、共産党支配への信頼を弱め、各共和国の独立運動を後押しし、最終的にはソ連解体への大きな一歩にもなったのです。
以下では、まずグラスノスチが生まれた背景として、停滞したソ連社会とゴルバチョフ登場までの流れを整理し、そのうえでグラスノスチの具体的な内容と変化の中身、社会と国際関係への影響、そしてソ連崩壊との関係や後世の評価までを順を追って見ていきます。
停滞するソ連社会とグラスノスチ誕生の背景
グラスノスチが掲げられた1980年代のソ連は、第二次世界大戦後の「超大国」としての栄光の影で、深刻な停滞に苦しんでいました。経済面では、重工業や軍需産業に偏った計画経済が非効率を極め、日常生活に必要な消費財や食料が不足しがちでした。スーパーの棚に商品が並ばず、質の悪いサービスや長い行列が当たり前という状態が続き、国民の不満は蓄積していました。
政治面では、共産党が一党独裁で権力を握り、中央の官僚機構が上から下まで社会を支配していました。党や政府の方針には基本的に批判が許されず、新聞・テレビ・出版物は厳しい検閲を受けていました。チェルノブイリ原発事故のような重大な事件でさえ、当初は情報が隠され、住民に必要な情報が伝わらないまま被害が拡大するなど、「秘密主義」が多くの問題を引き起こしていました。
1970年代後半から80年代初頭にかけては、いわゆる「停滞の時代」と呼ばれます。ブレジネフ政権の長期化と高齢化した指導部のもとで、大胆な改革は避けられ、既得権を守ろうとする官僚たちが体制にしがみつく状態が続きました。経済成長率は低下し、技術開発や生産性の面でも西側諸国に遅れをとり始めます。それでも表向きは「社会主義の勝利」が強調され、問題点を率直に語ることはタブー視されていました。
こうした状況の中で、1985年にソ連共産党書記長となったのがミハイル・ゴルバチョフです。彼は比較的若く、農村出身でありながら高等教育を受けた新世代の指導者で、停滞する体制を立て直す必要性を強く感じていました。ゴルバチョフは「ペレストロイカ(再建・改革)」というスローガンのもとで、経済の活性化や官僚主義の打破、社会主義の原点への回帰をめざします。
しかし、改革を進めようとしても、そもそも社会の問題点が正直に語られず、統計や報告が「上に都合のよい数字」にねじ曲げられている状況では、何が本当の問題なのか把握することすら困難でした。そこでゴルバチョフが打ち出したのが、「グラスノスチ(情報公開・公開性)」という考え方です。問題を隠したままでは改革は進まない。むしろ、問題をあえて公にし、国民とともに議論しながら解決策を探るべきだ――という発想です。
こうして、ペレストロイカを支える柱の一つとして、「グラスノスチ」が掲げられました。最初はあくまで「改革を成功させるための手段」として始まったこの情報公開の方針は、次第にそれ自体が社会を揺るがす大きな力となっていきます。
グラスノスチの内容と具体的な変化
グラスノスチは一般的に「情報公開」や「言論の自由拡大」と訳されますが、その中身はさまざまな分野に及びました。まず大きかったのは、マスメディアに対する検閲の緩和です。新聞や雑誌、テレビが、これまでタブーとされてきたテーマを取り上げ始め、政府の失政や官僚の腐敗、過去の政治弾圧などが公に批判されるようになりました。
ソ連の歴史において長く触れられなかったスターリン時代の粛清や強制収容所の実態、政治犯として抑圧された知識人の存在なども、次々と明らかにされました。これまで「偉大な指導者」として記憶されてきた人物像が見直され、歴史の「暗い部分」が大衆の前にさらされることで、国民の歴史認識は大きく揺さぶられます。
文学や芸術の分野でも、「発禁本」や「お蔵入り」になっていた作品が相次いで公開されました。かつて亡命や地下出版(サミズダート)でしか読めなかった作家たちの作品が、公式に出版されるようになります。これにより、知識人や若者の間で活発な議論が生まれ、ソ連社会の思想的な多様性がいっきに広がることになりました。
政治の場では、ソビエト(評議会)や共産党大会の議論がテレビ中継され、人びとが自宅のテレビで指導者たちの演説や討論を見られるようになりました。これまで密室で決められていた政策が、公の場で議論される光景は、従来のソ連では考えられなかったものです。議員たちが政府の方針に異議を唱えたり、地方代表が中央政府を批判したりする場面が映し出され、人びとは「政治が本当に動き始めた」という印象を受けました。
グラスノスチはまた、宗教や民族問題の扱いにも変化をもたらしました。ソ連では長らく宗教活動が制限されてきましたが、教会やモスクが徐々に社会に戻り、信仰の自由が一定程度認められるようになります。同時に、これまで抑え込まれていた各共和国・各民族の不満や独自性の主張も、公に表明されるようになりました。バルト三国やコーカサス地方、中央アジアなどで、歴史的な不満や自治・独立を求める声が高まっていきます。
このように、グラスノスチは「情報公開」という一つの方針でありながら、実際には言論・表現・集会の自由を広げる総合的な社会開放政策として機能しました。その結果、ソ連社会の空気は短期間で大きく変化し、多くの人が初めて「自分の考えを公に語る」経験をするようになります。
社会と国際関係への影響
グラスノスチは、ソ連国内の政治・社会だけでなく、国際関係にも大きな影響を与えました。まず、国内の視点から見ると、人びとは情報公開を通じて、これまで知らされてこなかった多くの現実を目にすることになります。経済の停滞や環境汚染、官僚の汚職、民族紛争の火種などがテレビや新聞を通じて広く知られるようになり、「国家はすべてをうまく管理している」というイメージは崩れていきました。
特に衝撃的だったのは、チェルノブイリ原発事故などの重大な事件に関する報道です。事故当初、政府は情報を隠し、住民への対応が大きく遅れましたが、その後グラスノスチの進展とともに、被害の実態や対応の不備が次々と明らかになります。人びとは「国家の言うことを信じていれば安全だ」という前提そのものに疑問を持つようになり、政府や共産党に対する信頼は大きく揺らぎました。
一方、情報公開によって、人びとの政治意識も高まります。地方や職場単位での議論が活発になり、市民がデモや集会を組織して政策に意見を表明する例も増えました。バルト三国のように、「歌う革命」と呼ばれる平和的な独立運動が広がった地域では、グラスノスチによって政治的表現の場が広がったことが大きな追い風となりました。
国際的な視点から見ると、グラスノスチは東西冷戦の構図を変える力を持っていました。それまで西側諸国から見たソ連は、秘密主義で何を考えているのか分かりにくい「閉ざされた敵対国」というイメージでした。しかし、ゴルバチョフ政権が国内の問題を率直に認め、軍縮や緊張緩和に前向きな姿勢を見せるようになると、西側もまたソ連との対話に前向きになります。
ゴルバチョフ自身もまた、グラスノスチの精神を外交にも反映させました。核軍縮交渉の進展や、アフガニスタンからのソ連軍撤退、東欧諸国への軍事介入の抑制などは、ソ連が「世界革命の前衛」から「国際社会の一員」へとイメージを変えるきっかけとなりました。グラスノスチにより、ソ連国内の議論や不満が外に見えるようになったことも、西側に「ソ連もまた問題を抱えた普通の社会」であるという認識をもたらしました。
このように、グラスノスチは国内外の両面で、従来の冷戦構造と情報の壁を揺るがし、「透明性」と「対話」をキーワードにした新しい国際関係の可能性を開きました。ただし、その変化は同時に、ソ連という国家の内部矛盾をも外にさらすことになり、体制の安定を大きく損なう結果にもつながっていきます。
ソ連崩壊とグラスノスチの評価
グラスノスチは、多くの人にとって待ち望まれた自由をもたらしましたが、その一方で、ソ連という国家の枠組みを弱体化させる結果も招きました。情報公開によって、共産党支配の矛盾や不正、歴史上の誤りが次々と明らかになると、人びとは「なぜ今まで知らされなかったのか」「この体制は本当に正しいのか」という根本的な疑問を抱くようになります。
ペレストロイカの経済改革は短期的には混乱を招き、物価の不安定や物資不足が深刻化しました。人びとの生活はむしろ苦しくなり、「改革を進めれば豊かになる」という約束がなかなか果たされない中で、不満と不安が広がっていきます。その中で、各共和国や各民族は、中央政府に頼らず自らの運命を決めたいという思いを強め、独立運動や自治拡大の要求が高まりました。
1991年には、ロシア共和国を率いるエリツィンらがモスクワでの保守派クーデターを退け、その後ソ連邦解体の流れが決定的になります。グラスノスチのもとで育まれた「発言の自由」「政治参加の経験」は、こうした独立運動や体制転換にとって重要な土台となりました。言い換えれば、グラスノスチがなければ、ソ連はあれほど急速に解体することはなかったかもしれません。
そのため、グラスノスチとソ連崩壊の関係については評価が分かれます。一方では、「情報公開がなければ、ソ連は問題を隠し続け、いずれもっと大きな破綻を迎えていただろう。グラスノスチは必要な浄化作用だった」と肯定的に評価する立場があります。もう一方では、「改革のコントロールを失い、体制を保ちながらの改善ではなく、国家そのものの崩壊を招いてしまった」という批判的な見方も存在します。
現代のロシアや旧ソ連諸国では、グラスノスチ期の記憶は複雑です。自由化と情報公開がもたらした解放感を懐かしむ声がある一方で、経済の混乱や社会不安を経験した世代の中には、「あの自由は代償が大きすぎた」と感じる人もいます。また、21世紀のロシアでは、再びメディアへの統制や政治的自由の制限が強まる傾向も見られ、「グラスノスチの精神」がどれだけ今も生きているのかが問われています。
歴史的に見ると、グラスノスチは「閉ざされた体制が、情報公開と議論の自由を通じて変革を試みた稀有な例」として位置づけられます。体制内部からの改革としては大胆であり、短期間に社会の空気と政治のルールを変えたという点で、世界史の中でも特別な意味を持つ出来事です。同時に、「情報公開は必ずしも体制を安定させるとは限らない」「抑圧されてきた問題が一気に噴き出すと、予想を超える変化が起こりうる」という教訓も残しました。
「情報公開(グラスノスチ)」という用語に触れるときには、単に「ソ連で言論の自由が広がった」とだけ理解するのではなく、その前にあった長い停滞と秘密主義、改革への期待と不安、そしてその後に続くソ連崩壊と体制転換までを一つの流れとして意識すると、より立体的な歴史像が見えてきます。そうした視点から見ると、グラスノスチは、冷戦終結と20世紀後半の国際秩序の変化を考えるうえでも重要なキーワードであることが分かります。

