「女直(じょちょく)/女真(じょしん)」とは、中世の東アジアで現在の中国東北地方からアムール川流域(満洲・黒竜江周辺)にかけて住んでいたツングース系の諸民族の総称です。日本語史料では、とくに中世・近世に「女直」という漢字表記がよく用いられ、中国語では「女真」と書かれました。彼らは12世紀初めに金(きん)王朝を建てて遼(契丹)や北宋を倒し、中国北部を支配したことで知られます。また、のちに同じくツングース系の建州女真から満洲族(満族)が台頭し、清(しん)王朝を建てて再び中国全土を支配することになるため、「女真」は金・清という二つの征服王朝の源流として世界史上重要な位置を占めています。
女直(女真)の人びとは、もともと狩猟・漁労・遊牧・農耕を組み合わせた生活を送り、森と川の多い寒冷な自然環境の中で暮らしていました。彼らは中国王朝にとっては北東の辺境に住む「夷狄」として位置づけられつつも、毛皮・人参・魚類・馬などの特産物を通じて交易の相手としても欠かせない存在でした。やがて契丹が建てた遼王朝の支配下で朝貢や軍事協力を求められるようになり、その支配に不満を募らせた女真諸部族が連合して反乱を起こし、金王朝を樹立することになります。
金王朝の成立は、東アジアの勢力図を大きく塗り替える出来事でした。遊牧・狩猟を基盤とする女真が、漢字文化圏の大帝国を自ら建て、中国北半分を支配するに至ったからです。一方で、彼らは完全に漢化してしまうのではなく、自らの言語と風俗・軍事制度(猛安謀克制など)を一定程度維持しようとしました。のちにモンゴル帝国の攻撃を受けて金は滅びますが、女真系の集団は東北地方に残り続け、明代にふたたび勢力を伸ばして、今度は満洲族として歴史の前面に登場します。
以下では、まず「女直」「女真」という呼び名とその意味、つづいて女真社会の生活と組織、さらに金王朝の成立と中国支配、最後にモンゴルによる滅亡と満洲族への継承について、順に整理していきます。
「女直(女真)」という呼び名と時代背景
日本の歴史書や外交文書では、中世から近世にかけて「女直」という表記が使われました。読みは「じょちょく」で、中国語の「女真(nüzhen)」を和音的に写したものと考えられます。「女真」の語源については諸説ありますが、「真の人」「本来の人びと」という意味合いを持つ固有名詞だったとも言われます。漢字はあくまで音を写すために当てられたものと考えられ、必ずしも「女」や「真」という字義が彼らの自己意識を表しているわけではありません。
地理的には、女真は現在の中国東北地方(旧満洲)からアムール川・沿海州方面にかけて、広い範囲に散在していました。森林地帯や河川沿いの肥沃な低地では雑穀や粟の栽培も行われ、川や湖では漁労、山地では狩猟が盛んでした。また、平地や草原では馬と家畜を飼育し、季節移動を伴う半遊牧的な生活をする集団もいました。このように、女真社会は単純な「遊牧民」ではなく、狩猟・漁労・牧畜・農耕を組み合わせた多様な生業形態を持っていたことが特徴です。
女真はツングース系に分類される言語を話し、アイヌやモンゴル・満洲・朝鮮などとも間接的な関連を持つ北方世界の一員でした。中世の中国では、遊牧系・北方系の民族をまとめて「契丹」「女真」「蒙古」「女直」などの名で呼び分け、朝貢・貿易・軍事同盟などを通して関係を維持していました。女真は唐代・五代・遼代を通じて、北東辺境の諸部族の一つとして認識されていましたが、11世紀末になると、契丹(遼)の支配に不満をもつ部族がまとまって台頭し始めます。
このなかで重要なのが、完顔(ワンヤン)部と呼ばれる女真の有力部族です。完顔阿骨打(かんがん・あこつた)は、契丹支配への反乱をまとめ上げた指導者であり、1115年に金王朝を建国して初代皇帝(太祖)となりました。ここから「女真=金王朝の支配民族」というイメージが形成され、中国側の史書にも女真が本格的に登場するようになります。日本や朝鮮にも、「遼を滅ぼし宋を圧迫する新勢力」として女真・金の名が伝わり、「女直」という表記で記録されました。
女真の社会と生活―部族連合から征服王朝へ
金王朝成立以前の女真社会は、多くの部族(部・猛安)からなるゆるやかな連合体でした。各部族には首長層がいて、狩猟や戦争の際には戦士たちを率い、平時には牧畜や農耕、狩猟の分配を取り仕切りました。親族関係や血縁が社会組織の基本単位であり、勇敢な戦士・狩人としての能力が尊敬される社会でした。
女真の生活は、四季の変化に合わせて移動する柔軟性に富んでいました。冬は凍った川での漁労や狩猟、夏は畑仕事と家畜の世話、といった具合に、自然環境に合わせて生業を切り替えます。豊富な毛皮や人参などの特産物は、中国や朝鮮との交易で高く評価され、鉄器・絹織物・塩などを得る見返りとなりました。こうした交易を通じて、女真の首長層は中国的な文物や漢字文化にも徐々に触れていきます。
軍事面では、女真の戦士は優れた騎射能力を持ち、弓矢と馬を駆使した機動力の高い戦い方を得意としました。森林や丘陵地を知り尽くした彼らの軍事力は、契丹や宋にとって大きな脅威となります。完顔阿骨打が反乱を起こした際には、各部族の戦士たちが次々と合流し、契丹軍を連続して打ち破りました。女真軍の強さは、単に武器の性能だけでなく、地域に密着した戦術や、部族間の連帯意識にも支えられていたと言えます。
金王朝が成立すると、女真社会は「部族連合」から「王朝国家」へと急速に形を変えていきます。金は、自らの伝統的な軍事組織を生かしつつ、漢人社会から官僚機構や税制、文書行政を取り入れました。有名なのが「猛安謀克(もうあんぼうこく)」と呼ばれる軍事・行政制度で、女真の部族をいくつかの単位に編成し、それぞれに責任者を置いて軍事徴発と統治を行わせる仕組みです。これは遊牧・狩猟社会の伝統を生かしつつ、王朝支配に適応させた折衷的な制度でした。
金王朝の支配層は、当初は女真貴族が中心でしたが、広大な漢人居住地域を統治するためには、多数の漢人官僚や地方エリートの協力が不可欠でした。そのため、金は漢人に対して科挙(官吏登用試験)を行い、彼らを官僚機構に取り込むとともに、自らも漢字を用いた文書や法律を整備しました。一方で、女真支配層には独自の女真語と女真文字(女真字)の使用が奨励され、「征服民族としてのアイデンティティ」を維持しようとする方針が取られました。
こうした二重構造は、のちに清王朝でも見られる特徴であり、「遊牧・北方系民族が漢字文明圏を支配する征服王朝」の典型的な姿とされています。女真=女直は、その最初期の重要な例であり、金王朝の統治方式は、後世の満洲族(清)にとっても一つの先例となりました。
金王朝と宋・遼・モンゴル―女直の栄光と滅亡
金王朝は、まず契丹の遼を撃破し、その領土の大半を手中に収めました。続いて、華北を支配していた北宋と同盟・対立を繰り返しながら、最終的には宋を裏切る形で開封(汴京)を陥落させ、「靖康の変」と呼ばれる事件を引き起こします。この事件で、宋の皇帝や皇族が北方へ連れ去られ、宋は江南に逃れて南宋として再出発することになりました。こうして金は、中国北部を支配する大帝国として君臨し、女真は「征服民族」としての地位を確立します。
金は中原の漢人社会を統治するにあたって、首都を中都(現在の北京付近)などに置き、漢人文化の影響を強く受けるようになりました。女真貴族も次第に漢服を着て漢語を学び、儒教的な官僚制の中に組み込まれていきます。一方で、北東の本拠地では伝統的な狩猟や馬上生活が続いており、女真社会は「漢地の定住生活」と「故地の半遊牧生活」の二重性を抱えるようになりました。
しかし12〜13世紀に入ると、金は新たな脅威と直面します。それがモンゴル高原で勢力を拡大していたチンギス=ハン率いるモンゴル諸部族です。モンゴルと金の間には、関税や朝貢をめぐる対立があり、金がモンゴル諸部を従属させようとしたことが、チンギス=ハンの反発を招いたとも言われます。モンゴル軍は女真の領内に侵攻し、金は北西・北東方面からの攻撃に苦しむことになりました。
金は南宋との連携や防衛線の構築を試みましたが、内部の政治腐敗や支配層の分裂もあり、モンゴルの圧力に耐えきれませんでした。13世紀前半、モンゴル軍は次々と金の要衝を落とし、1234年、金の最後の皇帝が自害して王朝は滅亡します。この滅亡により、華北はモンゴル帝国の支配下に入り、のちの元王朝へとつながっていきます。
金の滅亡は、女真支配層にとっては大きな打撃でしたが、女真系の人びとがすべて消えたわけではありません。多くは旧領土の東北地方にとどまり、モンゴルやのちの明王朝の支配下で、狩猟・農耕・軍事力提供などを続けました。女真=女直の名は、その後も中国や朝鮮、日本の史料に現れ、とくに「北方辺境の武力を持つ諸部族」として意識され続けます。
女真から満洲へ―後金・清への継承
金王朝滅亡後の数百年間、女真系諸集団は東北地方で分裂状態にありましたが、16世紀末から17世紀初頭にかけて、その一部である建州女真が急速に台頭します。指導者ヌルハチは、女真諸部族を統合し、「後金」と呼ばれる政権を樹立しました。彼は自らの祖先を金王朝の完顔一族に連なると位置づけ、女真(女直)の歴史的栄光を再解釈しながら、自らの支配の正統性を主張しました。
後金の支配者たちは、やがて自らを「満洲(マンジュ)」と称するようになります。これは女真とは別の新たな民族名であり、明王朝や周辺諸国との関係の中で、女真(女性を意味する漢字を含む)という呼称を避け、新しい自称を打ち出したとも言われます。1636年には国号を「清」と改め、のちに中国全土を征服して清王朝を開くことになります。
清王朝の支配層である満洲族は、言語系統や文化的背景の面で、女真の直接の後継者と考えられています。清朝では満洲語が宮廷の公式言語として用いられ、八旗(はっき)と呼ばれる軍事・社会組織が整備されましたが、その発想は女真時代の部族組織や猛安謀克制とも共通点を持っています。また、清朝は自らの正統性を語る際に、金王朝との連続性を強調し、「われわれはかつての女真=金の後裔である」と内外にアピールしました。
日本や朝鮮の側から見ると、「女直/女真」という呼び名は、時代によって指す内容が変化していきます。金王朝期には主に金の支配民族を指し、明代になると東北辺境の女真諸部族全般を指す名称として用いられました。そして近世には、その一部から生まれた「満洲」政権(清)との関係の中で、「旧来の女真」「新しい満洲」という区別が意識されるようになります。日本の江戸時代の文書には、「女直」「韃靼」「満洲」など、北方民族をさまざまな呼び名で記した例が見られます。
このように、「女直(女真)」という用語は、特定の一時期の王朝だけでなく、北東アジアにおけるツングース系民族の長い歴史を指し示すキーワードでもあります。彼らは遊牧・狩猟的な生活から出発しながらも、中国王朝を二度にわたって征服し、広大な帝国を築き上げました。その過程で、女真社会は自らの伝統と漢字文明を組み合わせた独自の統治モデルを作り出し、それがのちの満洲族支配や東アジアの国際秩序にも大きな影響を与えました。
「女直(女真)」という名前を覚えておくとき、単に「金王朝の民族」という一点だけでなく、北方世界・満洲・清王朝へとつながる長い歴史の流れの中で位置づけておくと、世界史の全体像をより立体的に思い描きやすくなります。

