「死者の書(古代エジプトのBook of the Dead)」は、死者が来世へ安全に到達し、審判を通過して永遠の生命を得るために唱えるべき呪文・祈文・図像(挿絵)を集成した葬送文書です。新王国時代(前16〜11世紀)を中心にパピルスへ書写され、ミイラとともに墓に納められました。内容は固定的な経典ではなく、個々の注文主の信仰・財力・地域慣習に応じて編修される「可変式のテキスト集」で、冥界の地図、神々への讃歌、守護呪文、倫理宣誓(いわゆる「告白」)などが組み合わさっています。要するに、それは死後世界を旅するための「携帯ガイド」と「身分証明」を兼ね備えた実用宗教テキストであり、古代エジプト人の宇宙観・倫理観・文字文化・美術が凝縮した資料なのです。
成立と発展――ピラミッド文から『死者の書』へ
「死者の書」の背景には、古王国のピラミッド壁面に刻まれた「ピラミッド文」(前24〜23世紀)と、中王国の棺内部に記された「棺文」(前21〜17世紀)が存在します。これらは王や貴族のための呪文群で、死者が神々の世界に昇る手順や、危険から身を守る言葉が列挙されました。新王国に入ると、パピルスに記した携行型の写本として体系化され、後世に「死者の書」と総称される複合テキストが広がります。テーベ(現ルクソール)周辺の職人集団が書写・彩色を担い、ラムセス期には定型的な章番号(後代の学術的整理では「第〇〇章」に相当)が用いられました。
編成は時期と地域によって多様です。初期(新王国第18王朝)には鮮やかなミニアチュールが多く、後期(第19〜20王朝)では図像の定型化と彩色の簡略化が進みます。末期王朝・プトレマイオス期には、いわゆる「ブック・オブ・ブレスィング(賛歌集)」的な性格が強まり、文の再配列や地域版の差異が顕著になります。こうした変容は、葬送儀礼の標準化と個人信仰の普及、書写工房の実務的都合(テンプレート化)を反映しています。
内容と構成――呪文のタイプ、冥界の旅、倫理宣誓
『死者の書』は、特定の順番で固定された「一冊」ではなく、数十〜百数十の章(呪文)から目的に応じて抜粋・配列されたアンソロジーです。おおまかな機能別に見ると、次のような群に分かれます。
(1)出発と保護:墓からの外出、地下世界への入口での合言葉、蛇やワニなど有害な存在を退ける呪文。死者(アク)が自由に動き、障害を避けるための「旅支度」です。(2)身体と魂の統合:心臓・影・名前(レン)・魂(バー)・霊(カー)など、エジプト人が人間を構成すると考えた複数の要素が離散しないようにする祈り。(3)審判と正当化:有名な「真理の間」での審判に関わる章群。死者は「私は殺人を行わなかった」「私は天秤の重りをごまかさなかった」など、否定形の倫理宣誓(いわゆる「否定の告白」)を神々の前で述べます。アヌビスが心臓をマアトの羽根と天秤にかけ、書記トトが結果を記録し、怪物アメミト(ワニ頭・ライオン胴・カバ腰)が不義の心臓を貪る図像が付されます。(4)神々との同一化と楽園:ラーの太陽船への同乗、オシリスとの合一、葦の原(ヤールの野)での理想的な農耕生活の描写。死後の幸せな日常を保障する章です。(5)呪具・護符の起動文:スカラベ(心臓護符)や「ダーイェット柱」「ウジャト眼」などの護符に対応する文言があり、物質と呪文をセットで機能させました。
章のテクストは、散文・詩文・対話風の台詞が混在します。図像は単なる挿絵ではなく、呪文の効力を増す「視覚化された言葉」で、登場神の属性(アヌビス=犬頭、オシリス=白冠と鞭杖、ラー=太陽円盤)が識別を助けます。個々の写本では、注文主の名が至るところに書き込まれ、死者自身が主語となる一人称の祈りが連続します。ここに、古代エジプト人の「個人の救済」の意識が読み取れます。
制作と使用――パピルス写本、図像テンプレート、墓での配置
写本は、パピルスの帯(数メートルから20メートル級まで)を複数継いで制作されました。製作工程は、(A)工房での標準文の下書き(黒インク)、(B)見出しや神名・重要語の赤インク(ルブリケーション)、(C)絵師による図像のアウトライン、(D)彩色という流れが典型です。注文主の名前・肩書・親族名は後から空欄に書き入れられることも多く、半既製品の在庫があったことがわかります。高級品では細密な彩色と金箔が施され、廉価版では文字中心で図像が少ないものや単色塗りが見られます。
墓での配置は、棺の内側・ミイラ面胸部・頭側の壁際など、地域・時期で差があります。心臓護符スカラベには特定の章(現代の通し番号で第30B章など)が刻まれることが多く、ミイラ包帯や仮面にも対応する呪文が書かれました。『死者の書』は単独で完結するというより、葬送セット(ミイラ、護符、葬儀、墓室装飾、供物表など)の一要素として相互連関し、死者を総合的に守る「システム」の中で機能しました。
文字は聖刻文字(ヒエログリフ)だけでなく、草書体のヒエラティックで書かれる例もあります。書体の選択は、用途・価格・工房の慣習に左右され、同一写本内で併用されることもあります。書字方向は右から左が基本ですが、図像の向きに応じて左右が入れ替わる柔軟性があり、読む者は人物・動物の顔の向きで方向を判断しました。
図像と象徴――審判の場面、太陽船、楽園の農耕
代表的な図像モチーフを三つ挙げます。第一は「心臓の計量(心理の天秤)」です。アヌビスが心臓を天秤に載せ、対する皿にマアトの羽根を置き、均衡がとれていることが正義の証とされます。秤棒の脇には書記トト(トキ頭)が筆記を行い、背後にはオシリスが玉座に座し、イシスとネフティスが護衛します。これは倫理と宇宙秩序(マアト)が死後も通用するという信念の視覚化です。
第二は「ラーの太陽船」です。太陽神ラーは昼に天空を航行し、夜は冥界を通って翌朝再生すると信じられました。死者は太陽船に同乗することで永遠の循環に参与し、再生のリズムを得ます。夜の冥界には蛇や怪物が現れますが、呪文の言葉と神々の援助で乗り切るというシナリオが描かれます。
第三は「葦の原(ヤールの野)」の場面で、死者が畑を耕し、収穫を喜ぶ姿が描かれます。そこでは水路が整えられ、穀物が豊かに実り、家族や使用人が働いています。これはエジプト人にとっての理想的日常=秩序(マアト)の回復であり、王侯貴族だけでなく庶民にとっても手の届く幸福のモデルでした。狩猟・漁撈・音楽・宴も描かれ、楽園は「働き・楽しむ」生活世界として表現されます。
宗教思想と社会――個人の救済、倫理と法、文字文化
『死者の書』は、単なる呪術の寄せ集めではありません。そこには、(a)個人の救済が神話的枠組みの中で制度化される過程、(b)倫理の可視化(否定の告白)と法の普遍性、(c)文字・写本・工房という知識産業の成立、が読み取れます。否定の告白は、共同体が理想とする行為規範を列挙する役割を果たし、王・神官・書記から庶民に至るまで、死後の審判の前提として共有されました。これは、マアト(真理・秩序)の観念が社会の隅々に浸透していたことを示します。
また、『死者の書』は「可視化されたテキスト」の極致でもあります。文字・図像・色彩・レイアウトが呪力の一部であり、読み上げ(音)・掲示(視)・奉納(儀礼)が連動します。書記(スクライブ)という専門職の技量は社会的に高く評価され、パピルス産業・顔料製造・筆墨具の工房が都市経済を支えました。テキストは複製可能で、個人の名を挿入するだけで「私の経」となる柔軟性が、広い普及を可能にしました。
発見と研究史――近代考古学、章番号、翻訳の課題
近代においては、19世紀のエジプト学の成立とともに『死者の書』の写本が大量に収集され、欧州の博物館・図書館に所蔵されました。学者たちは異本を比較し、章(呪文)を通し番号で整理し、定本(いわゆる「テーベ版」など)を仮設しました。ただし、実際の写本は地域・時期・注文主によって構成が異なり、「標準テキスト」の観念は便宜的です。翻訳も、神名・地名・象徴語の多義性のために難易度が高く、近年は図像学・素材分析・語用論を総合する学際的研究が主流になっています。
保存科学の進歩により、パピルスの繊維構造・顔料組成・製本技法が解明され、退色・劣化への対策が確立しつつあります。デジタル・リユニフィケーション(断片の画像的再結合)や、赤外線・マルチスペクトル撮影による下書きの可視化は、工房の制作過程や後世の修復・偽作の識別に役立っています。公開データベースの整備は、研究の民主化を促し、世界各地の写本間の比較がかつてなく容易になっています。
名称の混同と関連――チベット『死者の書』、日本文学の『死者の書』
日本語で「死者の書」と言う場合、(1)本稿で扱う古代エジプトの『死者の書』のほか、(2)チベット密教の葬送儀礼書『バルド・トゥドル(中有聴聞救度大法)』の通称「チベット死者の書」、(3)折口信夫の小説『死者の書』を指すことがあります。(2)は死後から転生までの「中有」で読誦される教えを記す全く別系統のテキストで、成立・教義・用途が異なります。(3)は近代日本文学の作品で、当麻曼荼羅や古代信仰を題材にしています。世界史・古代史の用語としては、通常は古代エジプトの葬送写本を指すことに注意が必要です。
まとめ――来世への航路図としての文化総合体
『死者の書』は、死を超えるための知恵を、言葉・図像・儀礼・工芸の総合で支えた古代エジプトの到達点です。ピラミッド文・棺文の伝統を継ぎ、個人の救済を視覚的に制度化したこの写本は、倫理(マアト)と宇宙観(太陽再生・冥界航海)を日常の語彙へと翻訳しました。墓という私的空間に置かれながら、社会全体の価値を映す鏡でもあった点に、古代エジプト文化の成熟が示されています。今日、私たちはこの「携帯ガイド」を通じて、彼らが何を恐れ、何を望み、どのように共同体と宇宙の秩序を結びつけたかを知ることができます。『死者の書』は、一人ひとりの名を刻みつつ、来世への航路図として今も鮮やかに語りかけているのです。

