「新思考外交」 – 世界史用語集

「新思考外交(しんしこうがいこう)」とは、1980年代後半にソ連の最高指導者となったゴルバチョフが打ち出した、新しい発想にもとづく対外政策の総称です。従来の冷戦型の発想――イデオロギー対立を前提にした東西の軍拡競争や、勢力圏の維持・拡大をめざす力の政治――から大きく方向転換し、「核戦争は勝者を持たない」「安全保障は相互の安全が成り立ってこそ意味がある」「国家の利益は地球規模の課題と切り離せない」といった考え方を前面に押し出した点に特徴があります。世界史の教科書では、ペレストロイカ(改革)やグラスノスチ(情報公開)と並んで、ゴルバチョフ外交を象徴するキーワードとして紹介されます。

新思考外交の背景には、ソ連経済の停滞と、東西冷戦の行き詰まりがありました。1970年代のデタントののち、アフガニスタン侵攻やレーガン政権の軍拡路線によって再び緊張が高まるなかで、ソ連は巨額の軍事費負担と非効率な計画経済に苦しんでいました。ゴルバチョフは、国内のテコ入れ(ペレストロイカ)と同時に、対外的にも軍事対立を和らげ、国際環境を安定させることなしには、ソ連の再生はありえないと判断します。そこで、「敵を打ち負かす」のではなく、「共通の課題をともに解決するパートナーとして西側を位置づけ直す」発想に立った外交へと舵を切ったのです。

この新思考外交のもとで、1987年の中距離核戦力(INF)全廃条約の締結、冷戦の象徴だったベルリンの壁崩壊やドイツ再統一への容認、アフガニスタンからのソ連軍撤退、東欧諸国への「不干渉」方針など、冷戦構造を根本から揺るがす出来事が次々と起こります。ゴルバチョフは「共同安全保障」「ヨーロッパ共通の家」といったコンセプトを掲げ、敵対ではなく協調を基調とする国際秩序の構想を提示しました。こうした動きは、最終的に東西冷戦の終結へとつながっていきます。

ただし、新思考外交には矛盾や限界もありました。ソ連内部では、急激な外交路線の転換や東欧への「見捨て」感が、保守派や軍部の不満を招きました。また、対外的な譲歩に比べて国内改革が十分に成果を上げられず、経済混乱や民族問題が噴出した結果、ソ連そのものが崩壊へと向かってしまいます。そのため、「新思考外交は冷戦を平和的に終わらせた」という評価と、「ソ連の国益を損ない崩壊を早めた」という批判が並存しています。それでも、核戦争の否定や相互依存にもとづく安全保障の発想は、冷戦後の国際政治を考える上で避けて通れない転換点となりました。

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新思考外交の背景:停滞するソ連と冷戦の行き詰まり

新思考外交を生んだ土壌には、ソ連国内の構造的な行き詰まりと、1970年代末から80年代初頭にかけての冷戦再燃があります。ブレジネフ時代後半のソ連は、「停滞の時代」と呼ばれるように、経済成長率が鈍化し、計画経済の非効率や技術革新の遅れが顕在化していました。重工業・軍需産業優先の体制は、大量の資源と人材を軍事部門に吸い上げ、民生部門は慢性的な品不足や生産性の低さに悩まされていました。

さらに、1979年のアフガニスタン侵攻は、ソ連の国際的孤立を深める決定打となります。西側諸国はこれを「侵略」と非難し、米カーター政権はモスクワ五輪ボイコットや対ソ制裁を実施しました。その後登場したレーガン政権は、ソ連を「悪の帝国」と呼び、新たな軍拡競争を仕掛けます。戦略防衛構想(SDI)などのミサイル迎撃システム構想は、ソ連にとって経済的にも技術的にも対抗が困難な挑戦でした。

ソ連指導部の内部でも、高齢指導者が短期間に相次いで死去するなかで、体制の硬直化と後継者問題が深刻化していました。ブレジネフ死後に就任したアンドロポフやチェルネンコは在任期間が短く、根本的な改革に手をつける余裕がありませんでした。こうした「停滞」と「硬直」の中で、比較的若く、改革指向をもつゴルバチョフが1985年に書記長に就任します。

ゴルバチョフは、ソ連経済のテコ入れ(ペレストロイカ)と、政治・社会の活性化(グラスノスチ)を掲げましたが、その実現には、対外的な負担の軽減が不可欠だと考えました。多大な軍事費や東欧衛星国の維持コスト、アフガニスタンなど対外介入の負担は、ソ連経済を圧迫し続けていました。そこで彼は、従来の「敵対と軍拡」に基づく対外政策そのものを見直し、「共通の利益」を軸にした新しい対外関係を模索する必要を痛感したのです。この問題意識から、「新思考」の外交が生まれてきました。

ゴルバチョフ周辺には、アレクサンドル=ヤコブレフなど、新しい国際政治観を持つ改革派知識人・外交官が集まりました。彼らは、従来のマルクス=レーニン主義的な「階級闘争中心」の世界観ではなく、「核時代における人類の生存」「環境問題や資源問題といった地球規模課題」「東西の相互依存」といったテーマを重視する視点を共有していました。新思考外交は、こうした理論的背景と、現実政治の危機感が結びついたところから生まれたと言えます。

新思考外交の基本理念:核戦争否定と相互依存

新思考外交の核心は、「核戦争は勝者を持たない」「安全保障は相手の安全をも含めて考えなければならない」という発想にあります。これは、それまでの冷戦期の軍事戦略――「抑止力」や「相互確証破壊」を前提としつつも、最終的には自国の優位を追求する思考――からの大きな転換でした。

ゴルバチョフは、核時代の現実を直視すれば、全面核戦争は文明そのものの破壊につながり、「勝利」などありえないと繰り返し強調しました。そのうえで、「自国の安全は、相手国の安全を無視しては成り立たない」という「共同安全保障(コレクティブ・セキュリティ)」の考え方を打ち出します。これは、軍拡によって相手を圧倒しようとするのではなく、相互の軍備削減や信頼醸成措置を通じて、双方の安全を高める方向をめざす立場です。

もう一つの重要な柱が、「相互依存」の認識です。新思考外交では、世界経済や環境問題、南北問題など、国境を越えて人類全体に影響を与える課題を重視しました。ゴルバチョフは、「人類共通の家(common European home / common human home)」といった表現を用いて、イデオロギーや体制の違いを超えて協力しなければ、核兵器の管理や環境破壊、資源枯渇といった問題は解決できないと主張しました。

また、新思考外交は、従来のソ連外交を支えてきた「階級闘争」や「反帝国主義」中心のスローガンを後景に退かせ、「普遍的人間的価値」を強調しました。人権や自由、民主主義といった価値に対しても、従来のような全面否定ではなく、「社会主義の側からも取り入れうる普遍的要素」として一定の評価を示す傾向が見られます。この点は、西側との対話を進めるうえで重要な意味を持ちましたが、同時に国内の保守派からは「イデオロギー的譲歩」として批判される要因ともなりました。

東西関係においては、「勢力圏」を前提とする従来の思考を見直す姿勢も示されました。ブレジネフ・ドクトリン(社会主義陣営内の国に対するソ連の干渉権を正当化する考え方)に象徴されるように、ソ連は長らく東欧諸国を「衛星国」として強くコントロールしてきました。新思考外交のもとでは、「各国の選択の自由」を尊重し、武力介入ではなく対話を基本とする方向へと方針転換が進みます。これが後に、東欧民主化とソ連の不干渉、ひいては東欧社会主義体制の崩壊へとつながっていきます。

新思考外交の具体的展開:東西関係と地域紛争

新思考外交は、単なる理念にとどまらず、具体的な政策として形をとりながら展開していきました。その代表的な成果が、アメリカとの首脳会談と軍縮交渉です。ゴルバチョフ就任後、ソ連はアメリカとの対話再開に積極的に動き、1985年のジュネーブ会談、1986年のレイキャビク会談、1987年のワシントン会談など、一連の米ソ首脳会談が実現しました。

特に1987年のワシントン会談では、ヨーロッパに配備されていた中距離核戦力(INF)を全廃する条約が調印されました。これは、特定の種類の核兵器を丸ごと廃棄するという点で、史上初の本格的な核軍縮条約でした。INF条約は、東西の軍縮ムードを高めると同時に、NATOとワルシャワ条約機構が対峙するヨーロッパにおける緊張緩和に大きく貢献しました。その後も、戦略兵器削減条約(START)に向けた協議が進められ、1989年のマルタ会談では、ブッシュ(父)米大統領とゴルバチョフが事実上「冷戦の終結」を宣言するに至ります。

新思考外交は、東欧諸国との関係にも大きな変化をもたらしました。ポーランドの連帯運動やハンガリーの改革など、東欧社会主義諸国では1980年代を通じて民主化や改革の動きが強まっていました。従来のソ連であれば、1968年の「プラハの春」のように軍事介入によってこれを押さえ込んだ可能性が高いところですが、ゴルバチョフは武力介入を控え、「各国の選択を尊重する」姿勢をとりました。この方針は、時に「シナトラ・ドクトリン(各自が自分の道を行く)」と半ば皮肉まじりに呼ばれます。

この結果、1989年前後に東欧諸国で民主化革命が相次いで成功し、東欧社会主義体制は崩壊していきます。東西冷戦の象徴であったベルリンの壁も1989年に崩れ、東西ドイツの再統一が議題に上るようになります。ゴルバチョフは、一定の条件(NATOの東方拡大を控えるなど)を求めつつも、最終的にはドイツ再統一を認めました。これもまた、新思考外交が従来の勢力圏論を超えようとした姿勢の表れでした。

地域紛争に対するアプローチも変化しました。ソ連は長年、アフガニスタンに軍を駐留させて政権を支えていましたが、戦費と人的損害は大きな負担となっていました。ゴルバチョフはこれを「ソ連の傷」と呼び、撤退を決断します。1988年のジュネーブ合意を経て、1989年までにソ連軍はアフガニスタンから完全撤退しました。また、アンゴラやニカラグア、エチオピアなど第三世界の紛争においても、ソ連は従来のような軍事支援一辺倒ではなく、政治的解決や国連を通じた調停を重視するようになります。

こうした新思考外交の展開は、西側諸国からおおむね好意的に受け止められました。西ヨーロッパでは、「ヨーロッパ共通の家」というゴルバチョフのスローガンに共感し、東西協調の可能性を模索する動きが強まります。NATOやEC(現EU)とワルシャワ条約機構・コメコンの関係も、「対決」から「対話」へと変化していきました。

新思考外交の評価と限界:冷戦終結とソ連崩壊

新思考外交は、世界史的には「冷戦を平和的に終結させた重要な要因」として高く評価されることが多いです。東西の軍縮と信頼醸成、東欧民主化への不干渉、ドイツ再統一の容認、アフガニスタン撤兵など、従来なら軍事衝突や長期対立に発展しかねなかった問題を、比較的穏やかな形で解決に向かわせた点は、確かに画期的でした。アメリカ側の政策転換や西欧のデタント志向と相まって、新思考外交は「第二の冷戦」を終わらせる鍵となりました。

しかし、ソ連内部から見れば、新思考外交は必ずしも一枚岩で歓迎されたわけではありません。軍部や保守派の中には、「東欧や第三世界への影響力をみすみす手放し、西側に一方的に譲歩している」と感じる者も多くいました。特に、東欧の急速な民主化とソ連の影響力喪失は、「大国としてのソ連の地位低下」と受け止められ、国内のナショナリズムや不満を刺激しました。

また、新思考外交によって外部との緊張が和らいだ一方で、国内改革(ペレストロイカ)は期待通りには進まず、経済混乱や物資不足、民族紛争の激化など、ソ連社会はむしろ不安定化していきました。情報公開(グラスノスチ)の進展は、過去の抑圧や犯罪、民族問題を白日の下にさらし、体制への信頼を揺るがしました。こうした内部矛盾が蓄積するなかで、1991年には保守派によるクーデター未遂(8月クーデター)が発生し、その混乱の中でソ連共産党は事実上解体、同年末にはソ連そのものが消滅してしまいます。

そのため、「新思考外交はソ連の国益を守るどころか、崩壊を早めたのではないか」という批判も根強く存在します。東欧の社会主義体制崩壊とソ連の後退は、確かに旧来のソ連の「帝国」としての姿を大きく変えました。他方で、ゴルバチョフ自身は、「核戦争の危機を回避し、人類全体にとってより安全な世界を築くことが、ソ連を含むすべての国の利益にかなう」と信じていました。その理想主義と現実政治のギャップが、新思考外交の評価を複雑なものにしています。

冷戦後の世界では、新思考外交が掲げた「共同安全保障」や「相互依存」「地球規模課題への協力」といった理念は、国連や各種国際会議、EU・OSCEなどの地域機構の議論の中で、一定の方向性として継承されています。一方で、冷戦後のNATO拡大やロシアとの対立の再燃などを見ると、「勢力圏」や「軍事同盟」をめぐる問題は完全には解消されていません。この意味で、新思考外交は「ある一時期の理想主義的な試み」として終わったのか、それとも「今なお参照すべき安全保障のあり方」を示したのか、議論が分かれるところです。

世界史の学習においては、新思考外交を「冷戦終結の鍵」として位置づけるだけでなく、「大国が自らの勢力圏を手放し、協調路線へと舵を切ることの可能性とリスク」を考える材料として捉えることができます。ゴルバチョフの決断がなければ、東欧民主化はもっと血なまぐさい形をとっていたかもしれませんし、逆に、ソ連が勢力圏維持に固執していれば、冷戦は長期化していた可能性もあります。その選択の重さを考えることは、今日の国際政治における「対立と協調」のバランスを考えるうえでも多くの示唆を与えてくれます。