審査法廃止(しんさほうはいし)とは、イギリスで17世紀以来続いてきた「テスト法(審査法)」「会社法」といった、宗教にもとづいて公職就任を制限する法律が、19世紀初頭に相次いで取り消された出来事を指します。なかでも1828年に、非国教徒(ディセンター)を地方自治体の役職や官職から排除していた審査法・会社法が廃止されたことは、イギリスにおける宗教的平等と市民資格の拡大にとって大きな節目となりました。これは、翌1829年のカトリック解放法や1832年の第1回選挙法改正と連動した一連の改革の一部として理解されます。
審査法廃止以前のイギリスでは、イングランド国教会に属する信徒だけが「完全な政治的市民」とみなされ、それ以外のカトリック教徒や多くのプロテスタント非国教徒は、公職への道を閉ざされていました。たとえ経済的に成功し、地域社会で尊敬を集めていても、宗教が「違う」という理由だけで、自治体の役職や大学の教職、軍や中央官庁のポストに就くことが認められなかったのです。審査法廃止は、このような宗教にもとづく資格制限を見直し、「信仰の違いと政治的資格を切り離そう」という方向に舵を切った出来事でした。
19世紀初頭のイギリスは、産業革命の進展によって社会構造が大きく変化していました。都市化が進み、商工業や金融で活躍する新しい中産階級の多くは、むしろ非国教徒やカトリックの側に属していました。彼らは国家財政を支え、経済成長を牽引する重要な担い手でありながら、「宗教の違い」を理由に公職や政治参加の機会を制限されていました。審査法廃止運動は、こうした現実への不満と、啓蒙思想・自由主義の広まりを背景として、「宗教による差別の撤廃」を求める声が高まった結果として生まれたものです。
世界史の学習では、審査法そのもの(17世紀に制定されたテスト法)とあわせて、その廃止がイギリスの「市民社会の成熟」と「宗教的寛容」の進展の中でどのような意味を持ったのかを見ることが大切です。審査法廃止は、名誉革命以来続いていた「国教会中心の国家体制」をゆるやかに修正し、多様な宗教的背景を持つ人びとを政治の中に包み込んでいく過程の、重要な一場面だったと言えます。
審査法体制とは何か:廃止前の状況
審査法廃止の流れを理解するためには、まずそれ以前に存在していた「審査法体制」がどのようなものだったのかを押さえておく必要があります。17世紀のイギリスでは、ピューリタン革命と王政復古、名誉革命を通じて、宗教と政治が密接に絡み合う激動の時代を経験しました。1660年の王政復古後、チャールズ2世のもとで、王権とイングランド国教会を支えるための制度として、会社法(Corporation Act, 1661)や審査法(Test Act, 1673)が制定されます。
会社法は、自治都市など地方自治体の役職につく者を国教会信徒に限定する法律でした。自治都市の市長や議員、役人などは、国教会の礼拝に参加し、その教義を受け入れていることを示す必要がありました。審査法はさらに対象を広げ、軍人や中央政府の官吏など、国家の中枢を担う公職に就く者にも、国教会の聖餐を受けることや、カトリック教義の否定を含む宣誓を義務づけました。
この結果、ローマ=カトリック教徒はもちろん、国教会とは異なる礼拝形態や教義を持つプロテスタント非国教徒(長老派、バプテスト、クエーカーなど)も、多くの公職への道を閉ざされました。彼らは信仰の自由をある程度容認されつつも、「二級市民」として扱われ、政治参加に制限がかけられていたのです。大学教育においても、オックスフォード大学やケンブリッジ大学では、国教会信徒でなければ学位取得が認められないなど、宗教にもとづく差別が存在しました。
この審査法体制は、名誉革命(1688年)を経ても基本的には維持されました。名誉革命後のイギリスでは、「王はプロテスタントであるべきだ」という原則が定められ、カトリック王の再登場を防ぐ仕組みが整えられます。その一方で、カトリックや非国教徒に対する法的差別も、多くが温存されました。国家の安定とプロテスタント体制の維持を最優先するという観点からすれば、審査法体制は「秩序を守る柵」のような役割を果たしていたと言うこともできます。
しかし、18世紀が進むにつれて、現実の社会は変化していきました。商業や工業の発展に伴い、都市部を中心に非国教徒の商人・工場主・金融業者などが活躍するようになり、彼らは経済面で重要な地位を占めるようになります。また、啓蒙思想の影響のもとで、「信仰は個人の良心に属する問題であり、国家が過度に干渉すべきではない」という考え方も広まっていきました。こうした変化は、審査法体制の見直しを求める下地となっていきます。
審査法廃止への道:非国教徒の運動と自由主義の高まり
18世紀末から19世紀初頭にかけて、イギリスでは非国教徒(ディセンター)を中心とする審査法廃止運動が活発化しました。非国教徒たちは、自らの信仰にもとづいて国教会から距離を置いていましたが、同時に国家や社会の発展に大きく貢献していました。彼らは商業資本や産業資本の担い手として、工場や銀行を経営し、地域社会で雇用を生み出していました。それにもかかわらず、「宗教の違い」だけを理由に自治体の役職や公職から排除されることへの不満は強く、審査法の廃止を求める請願や運動を繰り返し行いました。
これに応じる形で、議会内部でも、ホイッグ党や自由主義的な政治家の一部が、審査法廃止に前向きな姿勢を見せるようになります。フランス革命やアメリカ独立の影響を受けて、「市民の平等」「信教の自由」といった理念が国際的に広まり、イギリスでも旧来の特権や宗教的差別を見直すべきだという声が高まりました。また、産業革命の進展に伴い、新しい都市中産階級が政治的発言力を持つようになり、彼らの多くが非国教徒であったことも、審査法廃止への追い風となりました。
審査法廃止に反対する側にも根強い論理がありました。彼らは、「国教会こそが国家の道徳的基盤であり、その優越を崩すことは社会秩序を危うくする」と主張しました。また、カトリック教徒に対する不信や恐怖も残っており、「審査法を廃止すれば、カトリックが政治の中枢に入り込み、ローマ教皇の影響力が増すのではないか」と懸念する声も少なくありませんでした。
こうした賛否がせめぎあうなかで、19世紀初頭のイギリス政治は、選挙制度改革・自治体改革・刑法改正などと並行して、宗教と市民資格をめぐる問題に向き合わざるをえなくなっていきます。とくに、アイルランド問題やカトリック解放をめぐる議論は、審査法体制全体を問い直すきっかけとなりました。アイルランドでは人口の多くがカトリックでありながら、議会や公職への参加が厳しく制限されており、その不満は反乱や不安定要因ともなっていました。
こうした状況の中で、1820年代後半になると、審査法・会社法廃止の法案が議会に何度も提出されるようになります。非国教徒の側からの継続的な運動、自由主義者の思想的支援、経済社会の変化、そしてアイルランドをめぐる政治的圧力などが重なり合い、ついに1828年、審査法廃止の決定的な転換点が訪れることになります。
1828年の審査法・会社法廃止とその内容
1828年、イギリス議会は、長く続いてきた会社法(1661)と審査法(1673)を廃止する法律を可決しました。これが、一般に「審査法廃止」と呼ばれる出来事です。法律上は、「これまで公職就任の条件とされてきた、国教会の聖餐受領義務や、特定の教義への同意宣誓を撤回する」というかたちで整理されました。これにより、非国教徒であっても、一定の一般的な忠誠宣誓などを行えば、公職に就くことが可能になりました。
もっとも、この段階で宗教にもとづく制限が完全に消えたわけではありません。例えば、王や一部の高位公職については依然としてプロテスタント信仰が求められ、カトリック教徒に対する制限も多く残されていました。それでも、地方自治体や行政機関、軍などの多くの分野で、非国教徒が公然と公職に就けるようになったことは、大きな変化でした。これまで「影の実力者」にとどまりがちだった非国教徒の商人・資本家・知識人が、正式に政治や行政の担い手として認められ始めたのです。
審査法廃止の法案は、慎重な妥協の産物でもありました。急激な変化を恐れる保守派をなだめるために、完全な宗教的平等ではなく、段階的な制限緩和という形式が採られました。それでも、この法律が成立したこと自体が、「宗教による資格制限は時代遅れである」という国民的な認識が、ある程度共有されるに至ったことを示しています。
審査法廃止の翌年、1829年には、さらに一歩進んで「カトリック解放法」が成立します。この法律によって、カトリック教徒も一定の条件のもとで議会議員に就任することが認められ、カトリックに対する法的差別も大きく緩和されました。審査法廃止とカトリック解放は、セットで「宗教的資格制限の撤廃」という一連の流れを構成していました。
こうした改革の背景には、国内外の政治的圧力もありました。アイルランドのカトリック解放運動は、議会に対して強いプレッシャーをかけており、改革に消極的であれば、むしろ政治的不安定が増すおそれがありました。また、産業革命を経て国力をつけたイギリスが、国際社会において自由主義国家としてのイメージを維持するうえでも、露骨な宗教差別の撤廃は避けて通れない課題となっていたのです。
審査法廃止後の展開とイギリス社会の変化
1828年の審査法廃止と1829年のカトリック解放法の成立は、その後のイギリス政治・社会のあり方を大きく変えるきっかけとなりました。まず、公職に就く人びとの宗教的背景が多様化し、これまで政治の周縁に追いやられていた非国教徒やカトリックが、次第に議会や行政、自治体の場で存在感を増していきました。これは、政策の内容や政治文化にも影響を与え、宗教的少数派の利益や視点が、政治の場に反映されやすくなる方向をつくりました。
また、審査法廃止は、1832年の第1回選挙法改正と同じ「改革の時代」の一環として位置づけられます。1832年の選挙法改正は、腐敗選挙区の是正や新興都市への議席配分、中産階級への選挙権拡大を通じて、より広い層の政治参加を認めるものでした。宗教による資格制限の緩和と、財産・身分による制限の緩和は、別々の改革でありつつも、「近代市民社会の形成」という共通の方向を持っていました。
教育面でも、審査法廃止は影響を与えました。オックスフォードやケンブリッジなどの伝統的大学では、19世紀半ばまで国教会信徒以外の学位取得制限が残りましたが、次第に緩和されていきます。非国教徒やカトリックの若者が、高等教育を受け、専門職や公職への道を歩む機会が徐々に広がっていきました。これは、知識人層の構成や文化の多様性にも変化をもたらしました。
しかし、審査法廃止後も、宗教をめぐる対立や偏見がすぐに消えたわけではありません。とくにアイルランド問題では、カトリックとプロテスタントの対立が政治紛争と結びつき続けました。また、イングランド本国でも、国教会が依然として特権的な地位を保持しており、完全な意味での「政教分離」とは言いがたい状況が続きました。とはいえ、法制度のうえで公然と宗教差別を行うことが難しくなったことは、長期的には社会の意識変化にもつながっていきます。
審査法廃止をきっかけに、「信教の自由」「宗教的寛容」「少数派の権利」といったテーマは、イギリス政治の重要な議題として定着していきました。非国教徒やカトリックだけでなく、後にはユダヤ教徒や他宗教の人びとに対する制限も見直され、ゆっくりとではありますが、宗教的多元性を前提とする市民社会が形成されていきます。この過程は、イギリスにおける「世俗化」とも関連しており、宗教が個人の良心やコミュニティの問題として位置づけられ、国家や公的資格から一定の距離を取っていく流れの一部だったと言えます。
こうした変化をふまえると、審査法廃止は、単なる一つの法律の改正以上の意味を持つ出来事でした。17世紀以来続いてきた「国教会中心の政治社会」を、19世紀の自由主義と市民社会の論理に合わせて調整し直そうとする試みの中で、審査法廃止は重要な一歩となったのです。その後のイギリス史をたどるとき、この出来事は、宗教・政治・社会の関係が変わっていく転換点として位置づけられます。

