カランサ – 世界史用語集

カランサ(ベヌスティアーノ・カランサ、1859–1920年)は、メキシコ革命期に憲法主義派(コンスティトゥシオナリスタ)を率い、1917年憲法の制定と近代国家の枠組みづくりを主導した政治家・指導者です。ポルフィリオ・ディアスの長期独裁に反対する革命の流れの中で、ミadero政権を覆したフエルタ独裁に抵抗し、憲法秩序の回復を掲げました。農民革命の象徴とされるサパタやビリャとは協力と対立を繰り返し、内戦を経て政権を握りましたが、最終的にはソノラ州出身の将軍オブレゴンらと対立し、1920年に失脚・暗殺されました。カランサの名は、とくに第27条(地下資源の国家主権)や第123条(労働権)を含む1917年憲法と結びつき、土地と資源、労働と国家の関係を再設計した指導者として記憶されています。

カランサの特徴は、急進的な社会革命の理想と、国家の法秩序を重視する保守的な官僚政治の感覚を、矛盾を抱えたまま併存させた点にあります。農地分配や先住民の権利については慎重で、地方の地主層との妥協も図りましたが、同時に外国資本、とりわけ石油産業への規制強化や労働者保護の明文化を進めました。対外的には合衆国の圧力と内戦の板挟みの中で中立外交を貫き、第一次世界大戦やパンチョ・ビリャ討伐遠征(ブラック・ジャック・パーシング将軍の越境)に対しても、主権維持の姿勢を崩しませんでした。結果として、メキシコは暴力と分裂のさなかにありながら、成文憲法に基づく国家再編へ道筋をつけたのです。

以下では、カランサの出自と登場、憲法制定と国家建設、革命内戦と対外関係、そして最期と評価という観点から、人物像とその時代背景を詳しく解説します。概要だけでも大枠はつかめますが、より深い理解のために後続の見出しをご参照ください。

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出自と登場—反フエルタ闘争の旗手へ

カランサは北東部コアウイラ州の比較的裕福な牧畜農家に生まれ、地方政治で経験を積みました。若い頃からリベラル派系譜に連なり、ディアス独裁の末期には地方自治の拡充と法の支配を重んじる姿勢を示しました。1910年にミaderoが反ディアス運動を掲げると、カランサはこの流れを支持し、革命の初期段階では地方行政官として秩序維持と改革の両立を模索しました。

しかし、1913年に軍人フエルタがクーデタ(いわゆる「悲哀の十日間」)でミadero政権を打倒すると、カランサは憲法秩序の回復を掲げて立ち上がりました。彼は「グアダルーペ計画」を発し、フエルタ政権の不法を糾弾し、全国の反乱勢力—北部のビリャ、北西部のオブレゴン、南部のサパタ—に合流と協力を呼びかけました。この段階のカランサは、地方の自立的武装勢力を束ねる「第一の統合者」として機能し、反フエルタ闘争の政治的正当性を与える役割を果たしました。

1914年、連合勢力はフエルタを退けることに成功しますが、勝利はすぐに内部の亀裂を表面化させました。農地改革と共同体自治を強く主張するサパタ、カリスマ的な騎兵指揮官ビリャの潮流と、法と行政に立脚するカランサの憲法主義派との間で、統治の青写真が大きく異なっていたからです。アグアスカリエンテスでの会議は、革命の方向を統一するはずが、むしろ「憲法主義派」と「会議派(コンベンシオニスタ)」の分裂を決定づけました。

憲法制定と国家建設—1917年憲法の核心

カランサ政権の最大の遺産は、ペナフロールやケレタロで進められた憲法制定作業に集約されます。1917年憲法は、メキシコの近代政治を規定する基本法として今日まで効力を持ち続けています。その中核は、第27条と第123条に象徴されます。第27条は、土地や水、地下資源といった国土の根源的所有権を国家に帰属させ、私人や企業の権利は国家主権に従属することを定めました。これは、外国資本が支配する石油鉱区への規制根拠となり、のちの資源ナショナリズムの理論的支柱になりました。

第123条は、労働者の権利を包括的に認め、8時間労働、女性・未成年保護、最低賃金、団結権と団体交渉権、ストライキ権などを規定しました。当時のラテンアメリカはもちろん、世界的にも先進的な社会条項で、国家と社会の関係を法に基づき再構築する試みでした。さらに、教育の世俗化、教会財産や聖職者の政治活動の制限など、反聖職主義(セクラリズム)の傾向が強く打ち出され、19世紀リベラル改革の継承が確認されました。

もっとも、カランサ個人は急進的改革に常に熱心だったわけではありません。彼は秩序回復と主権の確立を優先し、過度に急進的な没収や暴力的な再分配を戒めました。農地問題では、サパタ派の要求する共同体復権を全面的に認めず、地方の地主層との妥協を図ることが多かったため、農村部では「変わらない現実」も残りました。労働政策でも、都市のラディカルな労組に対しては「赤色大隊」を編成して対抗させるなど、統治のために労働運動を制御しようとする面が目立ちました。理想と現実の折り合いをつけながら、段階的な制度化を進めたのがカランサ流でした。

行政面では、国家官僚機構の再建、司法と地方行政の整備、徴税の平準化、通貨の安定化など、内戦下で破綻した国家機能を立て直す作業が続けられました。鉄道と郵便の統一運用、港湾の監督、灯台や測候所の復旧といったインフラは、中央の統制の象徴であると同時に、戦後復旧の具体的な成果でもありました。教育の普及や衛生政策も進み、国家による「社会への接近」が制度化されていきます。

革命内戦と対外関係—ビリャ・サパタ、そして合衆国

フエルタ退陣後、ビリャとサパタはカランサ政権に激しく反発し、内戦は長期化しました。オブレゴン将軍は近代的戦術と補給体制でビリャ軍に連勝し、北部での均衡を崩しましたが、この過程で村落と都市の分断、地域経済の破壊が広がりました。サパタはモレロス州の地域自治と共同体復権を貫き、中央の官僚主義と妥協しない姿勢を見せ、結果的に長期の対立となりました。

対米関係は、革命政府の生存に直結する難題でした。1914年のタンピコ事件を契機に合衆国がベラクルスを占領した際、カランサは民族主義を鼓舞しつつも全面対決は避け、外交交渉に活路を見出しました。第一次世界大戦中、メキシコは中立を維持し、ドイツの「ツィンメルマン電報」で提案された米墨戦争と領土回復の取引を拒絶しました。これは、合衆国との衝突を避け、国内の統一を優先する現実的判断でした。

1916年、ビリャがコロンビアス(ニューメキシコ州)を襲撃すると、合衆国はパーシング将軍の指揮で「懲罰遠征」を実施し、越境作戦が展開されました。カランサは主権侵害として抗議し、メキシコ軍と米軍の小規模な衝突が起こる緊張の中、全面戦争だけは回避する巧みな均衡外交を演じました。この時期のカランサは、国内の求心力を保つために反米感情を一定程度利用しながらも、国家再建に不可欠な外的安定を失わないよう、綱渡りの政策をとったといえます。

外国資本、とりわけ石油産業との関係では、1917年憲法の第27条をめぐって摩擦が続きました。カランサは既得権の即時剥奪には慎重でしたが、新規の利権付与や課税、操業規制において国家主権を強調しました。これにより、企業側は合衆国政府に圧力を求め、メキシコ政府は国内主権と対外関係のバランスを取り続ける必要に迫られました。こうした力学は、のちのカルデナス政権による石油国有化(1938年)の前史として理解できます。

最期と評価—アグア・プリエタ計画と暗殺、残されたもの

1919年以降、カランサと旧同志のソノラ州系将軍—オブレゴン、デ・ラ・ウエルタ、カリェス—の関係は悪化しました。カランサは後継として文民のボナラスを推す意向を示し、軍閥政治からの脱却を図りましたが、軍側は自派閥の排除と受け止めました。1920年、これに反発したソノラ派は「アグア・プリエタ計画」を掲げて反乱し、急速に全国へ支持が広がりました。

政権の崩壊を前に、カランサは首都を離れてベラクルス方面へ退避し、政権の継続を図ろうとしましたが、道中のプエブラ州トラスカラントンゴで護衛部隊の裏切りに遭い、暗殺されました。こうして、憲法主義派の創設者でありながら、カランサは革命内部の新均衡に呑み込まれる形で舞台を去りました。その後、暫定政権を経てオブレゴンが大統領に就任し、国家再建は軍指導者の主導で継続していくことになります。

カランサの評価は二面性を帯びます。一方で、彼は内戦のただ中で近代憲法を制定し、主権と社会の権利を明文化した「制度の建設者」でした。国家が土地・資源・労働に対してどのように介入するかの原則を定め、のちのメキシコ国家の性格—民族主義と社会政策の結合—に決定的な影響を与えました。他方で、農村部の急進的要求に冷淡で、都市の労働運動に対しても抑圧的であったため、「革命の社会的約束」を未完のままにした指導者でもあります。

今日、カランサを理解する鍵は、彼が「革命家」であると同時に「国家建設者」であったという二重性にあります。暴力の連鎖を法と制度に置き換えるという彼の目標は、妥協と抑制を伴いました。だからこそ、彼の政治はしばしば冷たく見え、カリスマ性ではビリャやサパタに劣りました。しかし、1917年憲法がその後一世紀以上にわたりメキシコ政治の土台であり続けた事実は、カランサの選択が長期的な重みを持っていたことを物語っています。制度の安定を重視しながらも、社会正義を法の条文に刻み込む—その矛盾に満ちた営みこそが、カランサの歴史的個性といえるのです。