「進歩のための同盟」 – 世界史用語集

「進歩のための同盟」とは、1960年代はじめにアメリカ合衆国がラテンアメリカ諸国に対して打ち出した大規模な援助・開発計画で、表向きには「ラテンアメリカの経済成長・社会改革・民主主義の強化」を目的としたものです。1961年にアメリカ大統領ジョン=F=ケネディが提唱し、アメリカとラテンアメリカ諸国が協力して10年間で巨額の援助を行い、貧困の解消や教育・保健の向上、土地改革などを進めるとされました。その一方で、この構想には「キューバ革命のような社会主義革命を他の国に広げさせない」という冷戦期の反共政策という側面も強く、理念と現実のあいだには大きなギャップが存在しました。

世界史の教科書では、「進歩のための同盟」は主に、①1959年のキューバ革命と、その後のキューバとアメリカの対立、②アメリカがラテンアメリカにおける社会不安や左翼運動の広がりを恐れたこと、③その対策として『開発援助+社会改革』を掲げたが、実際には軍事援助や保守政権の支援と結びついていったこと、などの文脈で扱われます。ラテンアメリカの近現代史を理解するうえで、「進歩のための同盟」は、単なる善意の開発計画でもなければ、単なる陰謀でもなく、「冷戦・反共・開発援助・民主化・軍事クーデタ」がからみ合った複雑な試みとして位置づけると分かりやすくなります。

この項目では、「なぜ進歩のための同盟が提唱されたのか」「どのような内容の計画だったのか」「なぜ思惑通りにはいかなかったのか」「ラテンアメリカの歴史の中でどのような意味を持ったのか」といったポイントを順に整理していきます。

スポンサーリンク

構想の背景:冷戦とキューバ革命

「進歩のための同盟」が生まれた背景には、冷戦構造の中で急速に揺れ動くラテンアメリカ情勢がありました。1959年、キューバでフィデル=カストロらがバティスタ独裁政権を倒し、キューバ革命が成功します。当初、彼らは必ずしもソ連型社会主義を全面的に掲げていたわけではありませんでしたが、アメリカがキューバの国有化政策や反米的姿勢に強く反発し、経済制裁や断交に踏み切った結果、キューバは次第にソ連との結びつきを強めていきました。

1961年には、アメリカがキューバ亡命者を利用してカストロ政権の転覆を試みた「ピッグス湾事件」が失敗に終わり、1962年にはキューバ危機が起こります。キューバにソ連のミサイルが配備されかけたこの事件は、「アメリカの裏庭」と見なされていたラテンアメリカに、本格的にソ連の影響力が入り込む可能性を示し、アメリカ指導部に大きな衝撃を与えました。

同じころ、ラテンアメリカ各国では、貧困・土地所有の偏り・都市と農村の格差・民族的不平等など、深刻な社会問題が山積していました。多くの国で軍人や寡頭支配層による保守的な政権が続き、一般市民や農民・労働者の不満は強く、左派政党やゲリラ運動、社会改革を求める運動が広がりつつありました。なかには、キューバ革命に触発され、革命路線を志向する勢力も現れます。

アメリカ政府、とくにケネディ政権は、「ラテンアメリカの貧困と格差は、共産主義運動が広がる土壌になっている」と認識しました。もし何もしなければ、キューバに続く反米革命が各地で起こり、ソ連が勢力圏を拡大していく恐れがあると考えたのです。そこで浮かび上がったのが、「軍事力や弾圧だけで左翼を抑え込むのではなく、経済開発と社会改革を進めることで、不満の根本原因を和らげよう」という発想でした。

こうした状況のなかで、1961年、ケネディは「進歩のための同盟」を提唱します。アメリカとラテンアメリカ諸国が協力して10年計画を立て、経済成長率の引き上げや所得格差の是正を図ることで、「革命ではなく選挙と改革による変化」を実現させる――これが理想として掲げられたビジョンでした。

「進歩のための同盟」の内容と目標

「進歩のための同盟」は、1961年のプンタ・デル・エステ会議(ウルグアイ)で正式に発足し、米州機構(OAS)の枠組みのもとで進められる国際的な協力計画となりました。その基本的な目標は、「ラテンアメリカ諸国の経済成長を加速させ、社会的な不平等を是正し、民主的な体制を強化する」ことでした。そのために、アメリカは10年間で200億ドル規模の援助を行い、ラテンアメリカ諸国も自国の税収増加や改革努力を通じて、合わせて800億ドルの投資を行うとされました。

具体的な重点分野としては、次のようなものが挙げられていました。第一に、経済開発です。道路・港湾・電力・上下水道といったインフラ整備、工業化支援、農業の近代化などを通じて、1960年代を通して年平均5%以上の経済成長を目指すとされました。これには、世界銀行や米州開発銀行などの国際機関と連携した貸付・援助も含まれています。

第二に、社会改革、とくに土地改革です。ラテンアメリカの多くの国では、広大な土地を少数の地主が所有するラティフンディア(大土地所有制)が続き、農民は土地を持たない小作人や季節労働者として過酷な条件下に置かれていました。進歩のための同盟は、土地の再分配や農業協同組合の育成などを通じて、農村の貧困と不平等を是正することを目標の一つに掲げました。

第三に、教育・保健・住宅などの生活水準の改善です。識字率の向上のための教育投資、病院や保健センターの拡充、低所得者向け住宅建設などを通じて、広い意味での「社会開発」を進めることが強調されました。ケネディは、演説のなかで「飢えや無知と戦うこと」を繰り返し語り、道徳的な大義としての側面を前面に押し出しました。

第四に、民主主義体制と制度の強化です。形式的な選挙だけでなく、政党制度・自治体・市民団体などを育てることで、「軍事独裁や暴力革命ではなく、民主的プロセスを通じた改革」を進めるという構想が示されました。アメリカとしては、親米的で「穏健な改革派」政権が各国に誕生することを理想とし、そのための選挙支援や行政能力向上なども援助の一部に含まれました。

これらの目標は、文面だけを見ると、ラテンアメリカの人びとの生活向上を願う理想に満ちた内容に見えます。しかし、実際の運用では、「どの分野にどれだけ資金が向けられたのか」「社会改革を本気で進める意思が各国政府にあったのか」「アメリカ側が本当に土地改革や民主化を優先したのか」といった点で、大きな問題が生じていきました。

実施の現実:援助と軍事、改革と保守のあいだで

「進歩のための同盟」は、その理念とは裏腹に、実施段階で多くの矛盾と限界に直面しました。まず、資金の問題があります。アメリカは10年間で200億ドルの援助を約束しましたが、実際に支出された額は計画を下回り、またその多くが借款(返済義務のある貸付)という形でした。ラテンアメリカ諸国にとっては、援助は魅力的である一方で、対外債務の増大という別の負担も背負うことになりました。

さらに重要なのは、援助の配分や優先順位です。アメリカは冷戦期の安全保障上の観点から、「左翼勢力に対抗する保守政権や軍政」に対しても積極的に支援を行いました。たとえば、社会改革を掲げる民政よりも、安定を優先する軍事政権のほうが「反共産主義の砦」として重視されるケースがあり、その結果、進歩のための同盟で想定されていた「民主的な改革政権の育成」という目標と矛盾する状況も多く生じました。

土地改革に関しても、多くの国で実施が不十分にとどまりました。地主層や保守勢力は、土地の再分配に強く反対し、議会や行政を通じて改革案を骨抜きにしたり、先延ばしにしたりしました。アメリカ側も、急進的な土地改革が社会不安や反米的な左翼政権の登場につながることを恐れ、結果として「ごく少しの象徴的な改革」にとどめようとする傾向がありました。

また、ラテンアメリカ各国の政治は、軍部や寡頭支配層との力関係の上に成り立っており、アメリカの援助がしばしば既存支配層の権力強化に使われることもありました。道路やダムの建設、工業化のための投資は、一部の都市や企業に利益をもたらしたものの、農村の貧困や不平等を根本的に解決するには至らなかったケースも多いです。そのため、「進歩のための同盟は、貧困の解消よりも既存体制の延命に役立っただけではないか」という批判がラテンアメリカの知識人から出されました。

1960年代後半に入ると、アメリカ自身もベトナム戦争の泥沼化で財政負担と政治的余裕を失い、「進歩のための同盟」への関心は徐々に薄れていきます。同盟への資金供与は減少し、計画の実行も中途半端なまま停滞しました。ケネディ暗殺後のジョンソン政権は、対ラテンアメリカ政策でより軍事的な選択をとることが多く、1964年のブラジル軍事クーデタや1965年のドミニカ共和国への武力介入など、反共を名目にした強硬策が目立つようになります。

このように、「進歩のための同盟」は、理想として掲げた社会改革と、現実として採られた軍事・治安優先の政策とのあいだで引き裂かれ、その成果は限定的なものにとどまりました。ラテンアメリカの多くの国で貧困・不平等が根強く残り、むしろ1960〜70年代には社会運動やゲリラ闘争が激化し、軍事独裁政権が相次いで登場する結果となったことを考えると、「進歩のための同盟が目指した『静かな改革』は十分には実現しなかった」と言わざるをえません。

歴史的意義:冷戦期ラテンアメリカ政策の一断面として

では、「進歩のための同盟」は歴史的にどのような意義を持つのでしょうか。第一に、それはアメリカの対ラテンアメリカ政策が、単なる軍事力や秘密工作だけでなく、「開発援助」と「社会改革」の言葉を取り入れるようになった転換点として位置づけられます。以前のモンロー主義やドル外交と比べると、「進歩のための同盟」は、ラテンアメリカ諸国を「開発のパートナー」と呼び、表向きには対等な同盟関係を目指す姿勢を打ち出しました。

第二に、ラテンアメリカ側から見れば、「進歩のための同盟」はアメリカの意図と自国の開発戦略をめぐる駆け引きの場でもありました。一部の国では、この枠組みを利用して、教育やインフラの整備などに一定の成果をあげた例がありますが、他方で、「アメリカ主導の開発モデル」に対する批判や疑問も強まりました。これがのちの「依存理論」や「従属理論」といった、南北関係批判の理論的発展と結びついていきます。

第三に、進歩のための同盟の限界と失敗は、ラテンアメリカ内部の政治動向にも影響を与えました。十分な社会改革が進まないなかで左翼政党や社会運動は「改革ではなく革命」を選択する方向に傾き、また保守派は「秩序維持」を理由に軍事クーデタを正当化しました。チリのアジェンデ政権(1970〜73)のように、選挙で選ばれた左派政権がアメリカや国内保守勢力と対立し、最終的に軍事クーデタで倒されるケースも、冷戦期ラテンアメリカの典型的なパターンとして知られています。

第四に、「進歩のための同盟」は、今日の国際開発援助や「民主化支援」を考える上でも示唆的な事例です。巨額の資金や立派な目標が掲げられても、受け入れ側社会の権力構造や不平等、政治文化を変えることは容易ではなく、また援助を行う側の安全保障や経済的利害が絡むと、「開発」と「支配」の境界はあいまいになりがちです。ラテンアメリカの人びとが「進歩のための同盟」を、単純に善か悪かではなく、複雑な思いで振り返っているのはそのためです。

世界史の学習では、「進歩のための同盟」を、①キューバ革命後の冷戦激化、②アメリカの対ラテンアメリカ政策の転換、③開発援助と反共政策の結合、という三つの軸から眺めると分かりやすくなります。そのうえで、ラテンアメリカ側の視点――社会改革を求める人びと、軍事政権や保守派、左翼運動や知識人――を意識すると、一つの同盟構想が生んだ期待と失望、連帯と対立のドラマが立体的に見えてくるはずです。