幼少期と即位まで
ルイ7世は1120年頃に生まれました 彼はフランス王ルイ6世と妃アデル・ド・サヴォワの間に生まれた息子であり 幼少期から王子としての教育を受けました 当初は王位を継ぐ予定ではなく 教会でのキャリアを歩むことが期待されていましたが 兄フィリップが若くして亡くなったため 突然王位継承者となりました 彼は聖職者としての教育を受けた影響もあり 信仰心が強く 知的で穏やかな性格の持ち主でした
1137年に父ルイ6世が亡くなると 17歳の若さでフランス王として即位しました 彼の即位に際して 彼の統治を安定させるために 重要な結婚が取り決められました それがアキテーヌ公女アリエノールとの結婚です 彼女は広大な領土を持つアキテーヌの継承者であり その婚姻によってフランス王国の領土は一気に拡大しました しかし この結婚はのちに波乱を生むことになります
アリエノールとの結婚と統治の初期
ルイ7世とアリエノール・ダキテーヌの結婚はフランス王国にとって大きな意味を持ちました アキテーヌはフランス国内でも最も豊かで広大な公国の一つであり ルイ7世はこの結婚によってその支配権を手に入れました しかし アリエノールは聡明で独立心が強く ルイ7世とは性格が大きく異なりました 彼女は文化や詩を愛し 活発で華やかな宮廷を好みましたが ルイ7世は敬虔で慎重な人物であり その性格の違いが次第に二人の関係に亀裂を生じさせていきました
王としての彼の最初の課題の一つは 1137年に即位した直後に起こった領地問題でした フランス国内では貴族たちが独自の勢力を持ち しばしば王権に対抗していました ルイ7世は国内の秩序を保つために慎重に政策を進めましたが 彼の統治はしばしば貴族たちとの軋轢を生みました その中でも特に問題となったのが シャンパーニュ地方のトロワ伯エブロールとの対立でした ルイ7世はこれに対して武力を用いた強硬策を取ることとなり 1142年にはヴィトリー城の戦いが発生しました ここでルイ7世の軍が城を焼き払い その結果 数百人の市民が命を落とすことになりました
この事件はルイ7世に大きな影響を与えました 彼はもともと信仰心が厚く 道徳的な人物であったため この悲劇に深く苦悩し 以後の統治においてより慎重な姿勢を取るようになりました そして 彼の信仰心はますます強まり 彼の治世を大きく特徴づけることとなります
第二回十字軍への参加
1145年 ルイ7世はローマ教皇エウゲニウス3世の呼びかけに応じ 第二回十字軍への参加を決断しました これは彼にとって宗教的な使命であると同時に 国内の貴族たちを統制する手段でもありました 彼は自ら軍を率い 1147年にアリエノールとともに遠征に出発しました この十字軍には神聖ローマ皇帝コンラート3世も参加しており 西ヨーロッパの諸侯が協力して聖地を目指しました
しかし ルイ7世の軍は多くの困難に直面しました まず アナトリア半島を進む途中で補給が不足し さらにトルコ軍による執拗な攻撃を受けました ルイ7世の軍は大きな損害を被り 進軍は困難を極めました 彼自身も命の危険にさらされる場面がありましたが 何とかアンティオキアに到着しました ここでアリエノールは叔父であるアンティオキア公レーモンと再会しましたが 彼女はここに留まることを望み ルイ7世と意見が対立しました
最終的にルイ7世の軍はエルサレムに到達しましたが ほとんど戦果を上げることができず 十字軍は失敗に終わりました 彼は大きな失意を抱えながら帰国することとなります そして この遠征を通じてルイ7世とアリエノールの関係はさらに悪化し ついに離婚という結末を迎えることになります
アリエノールとの離婚とその影響
十字軍から帰還した後 ルイ7世とアリエノールの関係は決定的に破綻していました 彼女は自らの意志を貫き 王妃としての義務を果たすよりも 自由を求めていました さらに 二人の間には男子が生まれなかったことも 王位継承の観点から問題となっていました 1152年 ルイ7世とアリエノールの婚姻は無効とされ 二人は正式に離婚しました
離婚後 アリエノールはすぐにイングランド王ヘンリー2世と結婚しました これにより 彼女が持っていたアキテーヌ公国の領地はイングランド王のものとなり フランス王国は広大な南部の領地を失いました これはフランスとイングランドの関係に深刻な影響を与え 以後の両国の対立の原因の一つとなりました ルイ7世にとって この離婚は政治的な大きな痛手となり 彼の治世における最大の失敗の一つとされています
しかし ルイ7世はその後も王としての役割を果たし続けました 彼は新たな王妃としてカスティーリャ王女コンスタンスと結婚し 王位継承の問題に対処しようとしました そして 彼の統治は引き続きフランス国内の安定を目指すものであり 彼の信仰心は依然として強く 教会との関係を重視した政治を展開していきました
晩年の統治と再婚
アリエノールと離婚したルイ7世は、フランス王国の安定を保つために再婚を決意しました。1154年、彼はカスティーリャ王アルフォンソ7世の娘コンスタンスと結婚しました。この結婚はフランスとカスティーリャ王国の関係を強化することを目的としており、王国にとって重要な意味を持ちました。しかし、コンスタンスとの間にも男子は生まれず、ルイ7世は再び後継者問題に直面することになりました。
コンスタンスは1160年に亡くなり、ルイ7世は同年にシャンパーニュ伯ティボー2世の娘アデル・ド・シャンパーニュと結婚しました。この結婚によって、王国内の有力貴族との関係を深めることができました。そして、この結婚から1177年にフィリップ(後のフィリップ2世)が誕生し、フランス王国の未来に希望がもたらされました。フィリップの誕生は、ルイ7世にとって大きな安堵となり、彼は息子を大切に育てることに力を注ぎました。
イングランドとの対立
ルイ7世の統治後半において、最も重要な問題の一つはイングランドとの関係でした。アリエノールがヘンリー2世と結婚したことで、イングランド王家はフランス国内に広大な領地を持つこととなり、両国の対立は避けられないものとなりました。ヘンリー2世はアキテーヌ、ノルマンディー、アンジューといった領土を保持し、フランス国内でも強い影響力を持つようになりました。
ルイ7世はこの問題に対処するため、フランス国内の貴族たちと連携し、イングランド王に対抗しました。特に、ヘンリー2世の息子たちが父に反抗した際には、彼らを支援し、イングランド王家内の分裂を促しました。この戦略は一定の効果を上げ、フランス王国の立場を強化することにつながりました。
晩年と死
ルイ7世の晩年は、病と苦悩に満ちたものでした。彼は長年の統治と政治的対立によって疲弊し、次第に健康を害していきました。1180年、彼は息子フィリップを共同統治者とし、王国の運営を徐々に委ねるようになりました。フィリップは若くして政治的な手腕を発揮し、フランス王国の未来を担う存在として期待されました。
1180年9月18日、ルイ7世は病に倒れ、パリ近郊のサン=ポルト修道院で亡くなりました。享年60歳前後とされ、彼の遺体はサン=ドニ大聖堂に埋葬されました。彼の死後、息子フィリップ2世が正式に王位を継承し、フランス王国の新たな時代が幕を開けることとなります。
ルイ7世の治世は、宗教的信仰が強く、政治的には慎重な統治が特徴的でした。十字軍への参加やイングランドとの対立、貴族たちとの関係調整など、多くの課題に直面しながらも、フランス王国の安定を維持するために努力を続けました。彼の死後、フィリップ2世は積極的な政策を展開し、フランス王権の強化を進めることとなります。