幼少期と王位継承
シャルル6世は1368年12月3日にフランス王シャルル5世と王妃ジャンヌ・ド・ブルボンの間に誕生しました。彼は幼少期からフランス王国の将来を担う王子として育てられ、当時のフランス宮廷では優れた教育を受けながら成長しました。父であるシャルル5世は「賢王」と称され、政治的手腕と財政改革によってフランス王国を強化し、イングランドとの百年戦争において一定の成果を収めていました。そのため、王太子シャルルには父の治世を引き継ぎ、国家の安定を保つことが期待されていました。
しかし、1380年にシャルル5世が崩御すると、わずか11歳のシャルル6世が王位を継ぐことになりました。まだ幼い彼が王として統治を行うことは不可能であったため、摂政政治が敷かれることになります。彼の摂政として、叔父にあたるアンジュー公ルイ、ベリー公ジャン、ブルゴーニュ公フィリップ豪胆公、ブルボン公ルイが政務を取り仕切ることになりました。特にブルゴーニュ公フィリップは最も影響力が強く、フランス宮廷における政治の実権を握ることになりました。
この摂政統治の時代は、財政難や民衆の不満が高まる時期でもありました。シャルル5世の政策によって財政が一定の回復を見せていたものの、摂政たちは重税を課すことで収入を増やそうとし、それがフランドルやパリ市民の反発を招きました。1382年にはパリで大規模な暴動が発生し、摂政たちは武力でこれを鎮圧するも、国内の不安定な情勢が明らかになっていきました。
若き王の親政開始
1388年、シャルル6世が20歳になると、正式に親政を開始することになりました。彼はそれまでの摂政政治に不満を抱いており、特にブルゴーニュ公フィリップの影響力を排除したいと考えていました。そこで、彼は父シャルル5世の時代に活躍した高官たちを再び政権に迎え入れ、「マルメゼー」と呼ばれる改革派の顧問団を組織しました。
シャルル6世の親政の初期は比較的安定しており、王自身も勇敢でエネルギッシュな君主として振る舞いました。彼はイングランドとの戦争において積極的な姿勢を示し、フランス国内の統治にも尽力しました。また、宮廷では豪華な宴が催され、文化活動も活発に行われるようになりました。しかし、王の親政が成功を収めるには、国内の貴族間の対立や財政問題の解決が不可欠でした。
この時期、シャルル6世はブルゴーニュ公フィリップの影響力を抑えつつも、国内の安定を図るために彼との関係を完全には断ち切りませんでした。彼はまた、王妃イザボー・ド・バヴィエールとの間に子をもうけ、王家の継承を確実なものにしようとしました。
突如として訪れた狂気
1392年、フランス王国にとって運命を大きく変える事件が発生します。シャルル6世はブルターニュ遠征中に突如として異常な行動を示し、自らの部下を敵と誤認して襲いかかるという狂気の発作を起こしました。この事件の後、王は精神的な不安定さを見せるようになり、周期的に正気と狂気を行き来するようになりました。
王の病状が悪化するにつれ、宮廷内では彼の後継問題や統治の代行を巡る争いが激化しました。王妃イザボー・ド・バヴィエールが王の代理として影響力を強める一方で、王の叔父であるブルゴーニュ公やオルレアン公が権力を巡って対立しました。この対立はやがてフランス国内の政治的な不安定さを増長させることになります。
シャルル6世の精神異常は治ることはなく、発作の間隔が短くなっていきました。時には王が自らをガラスでできていると信じ、人との接触を避けようとするなどの奇妙な行動も見られるようになりました。この状態を利用し、宮廷内では様々な派閥が王の名のもとに権力を争うようになっていきます。
王国内の派閥争いとフランスの混乱
シャルル6世の精神的な不調が続く中、フランス王国では貴族たちの派閥争いが激化しました。特にブルゴーニュ公ジャン無怖公とオルレアン公ルイの対立は深刻で、やがて国内の内戦へと発展していきます。
1407年、オルレアン公ルイがパリ市内で暗殺されました。この事件の黒幕としてブルゴーニュ公ジャン無怖公が疑われ、フランス王国は「アルマニャック派」と「ブルゴーニュ派」に分裂しました。アルマニャック派はオルレアン公の遺族やシャルル6世の王妃イザボーらが中心となり、ブルゴーニュ派はジャン無怖公が率いる形となりました。
この内戦状態の中、シャルル6世はもはや政治的な決定を下すことができる状態ではなくなっていました。彼の狂気の発作は続き、王国の統治は実質的に王妃や貴族たちによって行われるようになりました。そして、この国内の混乱に乗じてイングランドが再びフランスに対して攻勢を強めることになります。
アジャンクールの戦いとフランスの危機
1415年、フランス王国はイングランド王ヘンリー5世による新たな侵攻に直面しました。ヘンリー5世は百年戦争の流れを変えるべく、フランスの内乱を利用しつつ進軍しました。これに対し、フランスの貴族たちは一時的に対立を忘れ、共に戦う姿勢を見せましたが、指揮系統の混乱や貴族同士の対立が影響し、軍の統率は十分ではありませんでした。
1415年10月25日、フランス軍とイングランド軍はアジャンクールで決戦を迎えました。フランス軍は圧倒的な数的優位を誇っていましたが、ぬかるんだ地形と長弓を駆使するイングランド軍の戦術により大敗を喫しました。この戦いでフランスの貴族の多くが戦死し、アルマニャック派の影響力が大きく低下しました。シャルル6世はもはやまともな政治的判断を下すことはできず、イングランドに対する対策も有効に講じられないままとなりました。
トロワ条約とフランス王国の屈辱
1420年、フランス王妃イザボー・ド・バヴィエールとブルゴーニュ派はイングランドと和平交渉を進め、ついに「トロワ条約」を締結しました。この条約により、シャルル6世は自身の息子である王太子シャルル(後のシャルル7世)を王位継承者として認めず、代わりにイングランド王ヘンリー5世を後継者とすることを約束しました。
この決定により、フランス王国は事実上イングランドの支配下に置かれることとなり、多くのフランス人は屈辱と怒りを抱きました。王太子シャルルはこの決定を拒絶し、アルマニャック派の支持を得て戦い続けることを決意しましたが、王国の内部分裂はより深刻なものとなっていきました。
シャルル6世の晩年と死
トロワ条約が締結された後も、シャルル6世は引き続きフランス王の地位にありましたが、実質的には傀儡状態であり、すべての決定はイングランドとブルゴーニュ派によって支配されていました。王の精神状態はますます悪化し、発作の間隔は短くなり、しばしば自分の身元すら認識できなくなるほどでした。
1422年10月21日、シャルル6世は54歳で死去しました。彼の死はフランスにとって新たな局面の始まりを意味しました。トロワ条約の通り、イングランド王ヘンリー5世が王位を継ぐはずでしたが、ヘンリー5世自身もシャルル6世に先立つ1422年8月に死去していたため、代わって幼いヘンリー6世がフランス王として即位しました。
しかし、王太子シャルルは依然としてフランス王位を主張し続け、ジャンヌ・ダルクの登場によって流れが変わることとなります。フランスはシャルル7世の下で再び立ち上がり、百年戦争は最終局面へと向かっていきました。
シャルル6世の治世の影響
シャルル6世の治世は、フランス王国にとって極めて困難な時期でした。彼の精神的な不安定さは王国の統治を困難にし、貴族間の対立を助長しました。これにより王国は内部対立に揺れ、外敵であるイングランドの侵攻を許す結果となりました。