【フランス王国】シャルル7世

【フランス王国】シャルル7世フランス国王
【フランス王国】シャルル7世

幼少期と王家の危機

シャルル7世は1403年2月22日にフランス王シャルル6世と王妃イザボー・ド・バヴィエールの間に生まれました。当時のフランスは百年戦争の最中にあり、王国は内外の脅威にさらされていました。シャルル6世は「狂気の王」として知られるほど精神の不安定な状態が続き、王国の統治は実質的に王妃イザボーや有力貴族たちに委ねられていました。

シャルル7世が幼少期を過ごしたのは、王宮の緊張に満ちた環境であり、父王の発作が頻発する中で母イザボーと貴族たちの対立が深まる様子を目の当たりにしました。王妃イザボーは、しばしば敵対勢力との妥協を図り、イングランドやブルゴーニュ公国との関係を築く一方で、王太子(後のシャルル7世)を冷遇し、王宮から遠ざけることもありました。

1417年、シャルル7世の兄である王太子ルイが死去し、彼が正式に王位継承者となりました。しかし、当時のフランス国内ではブルゴーニュ派とアルマニャック派という二大勢力が激しく対立しており、イングランドはこれを巧みに利用してフランス王国を分断しようとしていました。このような状況の中で、シャルル7世は王太子としての責務を負いながらも、自身の立場を確立することに苦慮していました。

トロワ条約と王位継承の危機

1420年、フランス王国にとって屈辱的な条約であるトロワ条約が締結されました。この条約は、イングランド王ヘンリー5世がフランス王位の継承権を得ることを認める内容であり、シャルル7世の正統性が完全に否定されるものでした。この条約はシャルル7世の母イザボー・ド・バヴィエールによって推進され、フランス王シャルル6世も同意しました。

この結果、シャルル7世は事実上、王位継承者としての立場を剥奪され、フランス北部の支配権を喪失することになりました。しかし、アルマニャック派の貴族たちは彼を支持し続け、シャルル7世はロワール川南部の地域を拠点として独自に王位を主張しました。彼はオルレアンやブールジュといった都市を中心に勢力を築き、「ブールジュ王太子」と揶揄されながらも、フランス王国の正統な後継者であると自負していました。

この時期、シャルル7世は外交手腕を発揮し、フランス国内の支持を広げることに注力しました。彼は特にフランス南部の貴族や都市と結びつきを強め、ブルゴーニュ派との対立を続ける一方で、イングランドの侵攻を阻止するための戦略を模索しました。

ジャンヌ・ダルクの登場と王位奪還への希望

1429年、歴史を大きく変える出来事が起こります。それは、農民の娘であるジャンヌ・ダルクの登場でした。ジャンヌは神の啓示を受けたと信じ、シャルル7世を王位に就かせる使命を果たすために立ち上がりました。彼女は王太子シャルル7世に直接謁見し、自らの神からの使命を語りました。

シャルル7世は当初、ジャンヌの言葉を疑っていましたが、彼女の信念の強さと、教会関係者による審査を経て、彼女をフランス軍の指導者の一人として迎え入れました。そして、ジャンヌ・ダルクの指揮のもと、フランス軍はオルレアン包囲戦で歴史的な勝利を収めました。

この勝利はフランス国内に大きな希望をもたらし、シャルル7世の正統性を再び主張する契機となりました。ジャンヌはその後も戦いを続け、シャルル7世をランスに導いて正式な戴冠を実現させることに尽力しました。

ランスでの戴冠と正統なフランス王の誕生

1429年7月17日、ついにシャルル7世はランス大聖堂で正式にフランス王として戴冠しました。この戴冠式は、フランス王の正統性を象徴するものであり、トロワ条約によって奪われた王位を回復する重要な一歩となりました。

シャルル7世の戴冠は国内外に大きな影響を与えました。フランス国内では王太子の正統性を疑っていた貴族たちの多くが彼を支持し始め、イングランドとの戦争における士気も高まりました。一方で、イングランドとブルゴーニュ公国はシャルル7世の戴冠を認めず、戦争は引き続き続きました。

この戴冠式の後も、シャルル7世の統治は困難を極めました。ジャンヌ・ダルクはさらなる軍事作戦を提案しましたが、宮廷の一部の者たちは彼女の影響力を警戒し、結果的に彼女は捕らえられ、1431年にイングランドの手によって処刑されることとなります。この悲劇的な出来事は、シャルル7世にとっても衝撃であり、彼の統治に新たな課題をもたらしました。

戦争の継続と王国の再建

ジャンヌ・ダルクの死後も、シャルル7世は戦争を継続し、フランス王国の再建を目指しました。彼は軍の改革に着手し、フランス軍の指揮系統を強化するとともに、国内の税制改革を進めて戦費を確保しました。また、外交面ではブルゴーニュ公国との関係改善を試み、1435年にアラスの和約を結ぶことに成功しました。

アラスの和約により、ブルゴーニュ公国はイングランドとの同盟を解消し、シャルル7世を正式にフランス王として認めました。これによってフランス国内の統一が進み、イングランドに対する戦争を有利に進めることが可能となりました。

シャルル7世の努力の結果、フランス軍は次第に勢力を回復し、1453年のカスティヨンの戦いをもって百年戦争は終結を迎えました。

王国の安定と統治改革

百年戦争の終結後、シャルル7世は戦乱で荒廃したフランス王国の再建に着手しました。彼の統治における最大の課題は、中央集権化の推進と経済の立て直しでした。彼はまず軍事改革を断行し、王の常備軍を創設しました。これによりフランス軍は貴族の私兵に頼ることなく、王の直轄の軍事力を持つことが可能となりました。この改革は、後のフランス軍の基盤を作る画期的なものでした。

また、税制の改革にも着手し、「タユール税」の徴収を整備しました。これにより、王国の財政基盤は大幅に安定し、王権の強化にもつながりました。加えて、フランス国内の行政機構を整備し、各地に官僚を配置することで地方の統治を強化しました。こうした施策の結果、フランス王国は長らく続いた戦争の影響から徐々に回復し、王権はより強固なものとなっていきました。

宮廷の陰謀と家族との対立

シャルル7世の治世後半には、宮廷内の陰謀や権力闘争が激化しました。特に王の寵臣であるアニェス・ソレルの影響力は絶大であり、彼女をめぐる対立が宮廷内で頻発しました。アニェス・ソレルは王の愛妾であると同時に、政治的な助言者としても力を持ち、王の改革政策を支援しました。

しかし、彼女の存在は王妃マリー・ダンジューや王の息子であるルイ(後のルイ11世)との関係を悪化させる要因となりました。特に王太子ルイは父王との関係が極めて険悪であり、シャルル7世の政策に反発し続けました。王太子ルイは父王の側近たちを敵視し、何度も陰謀を企てましたが、その都度シャルル7世によって阻止されました。

また、宮廷内の権力争いの中で、シャルル7世の忠実な部下であったジャック・クールも失脚し、彼の財務政策を支えていた体制が揺らぐこととなりました。こうした宮廷内の対立は、シャルル7世の晩年に大きな影を落としました。

晩年と死

シャルル7世の晩年は、体調の悪化と精神的な衰えが目立つようになりました。王太子ルイとの対立は決定的なものとなり、最終的にルイは父王のもとを離れ、ブルゴーニュ公国へと逃亡しました。これによりシャルル7世は、自らの後継者との関係を断絶したまま晩年を迎えることになりました。

1461年7月22日、シャルル7世は重病に倒れ、次第に衰弱していきました。彼は食事を摂ることもできなくなり、次第に飢餓状態に陥るという悲劇的な最期を迎えました。同年7月22日、彼は58歳でこの世を去り、王位は息子のルイ11世へと引き継がれました。

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