幼少期と家系の背景
シャルル10世は1757年10月9日、フランス王国のヴェルサイユ宮殿で生まれました。彼はフランス王ルイ15世の孫であり、父はルイ・フェルディナン王太子、母はサクス=ゴータ家出身のマリー=ジョゼフ・ド・サクスでした。正式な称号はアルトワ伯爵(Comte d’Artois)であり、彼は王太子の末息子として、兄に後のルイ16世やルイ18世がいました。王家の一員として豊かな環境に育ち、ヴェルサイユ宮殿での洗練された教育を受けました。
シャルルは幼少期から活発で、快楽主義的な性格を持っていたと言われています。狩猟や馬術を好み、宮廷での華やかな生活を楽しんでいました。兄のルイ16世がより慎重で学問を重んじる性格だったのに対し、シャルルは快活で情熱的であり、時には無謀とも評されることがありました。彼はまた、信仰心が厚く、幼いころからカトリック教会への忠誠を誓っていました。この信仰心は後の政治的決断にも大きく影響を与えることになります。
若き日の宮廷生活
シャルル10世は1773年にサルデーニャ王国の王女マリー・テレーズと結婚しました。彼女は慎ましく敬虔な女性で、派手な生活を好むシャルルとは対照的でした。この結婚により、彼は二人の息子、アングレーム公ルイ=アントワーヌとベリー公シャルル=フェルディナンをもうけました。しかし、夫妻の関係はあまり良好ではなく、シャルルは宮廷内での華やかな交際や、贅沢な浪費を続けていました。
彼の派手な生活はしばしば批判されましたが、ルイ15世の宮廷ではむしろそれが普通であり、彼の振る舞いは特別異常視されることはありませんでした。しかし、ルイ16世の即位後、宮廷内では徐々に倹約の気風が広まり、シャルルの奔放な生活態度は問題視されるようになりました。彼は王妃マリー・アントワネットとも親しく、しばしば共に狩猟や舞踏会を楽しみましたが、その派手な振る舞いが宮廷における批判の的となることもありました。
フランス革命と亡命生活
1789年、フランス革命が勃発すると、シャルルの人生は大きく変わりました。彼は王政の維持を強く支持し、革命の流れに対して激しく抵抗しました。兄のルイ16世が比較的穏健な改革を目指していたのに対し、シャルルはより強硬な姿勢を取り、革命派に対して厳しい態度を示しました。しかし、革命が進行するにつれ、彼の立場は危険になり、1791年には家族とともにフランスを脱出し、亡命生活を余儀なくされました。
シャルルは亡命先として最初にサヴォイアに向かい、その後プロイセン、オーストリア、イギリスなどを転々としました。彼は亡命貴族たちとともに反革命活動を続け、ヨーロッパ各国の王侯貴族に対して支援を求めましたが、フランス革命政府の勢力が強まる中で、彼の希望はなかなか実現しませんでした。彼は亡命先で軍を組織し、フランス王政復古のために戦う準備を整えましたが、ナポレオン・ボナパルトの台頭により、その計画はますます困難になっていきました。
ナポレオン時代の苦難
ナポレオンがフランスの実権を握ると、シャルルにとって帰国の道は完全に閉ざされました。彼はイギリスに移り住み、スコットランドやロンドンで亡命生活を続けました。彼の経済状況は悪化し、フランス革命で多くの資産を失ったこともあり、亡命生活は決して楽ではありませんでした。しかし、彼は王政復古の希望を捨てず、フランス国内の王党派と連絡を取り続け、機会をうかがっていました。
1814年、ナポレオンが退位すると、彼にとって絶好の機会が訪れました。兄のルイ18世がフランス国王として復位し、ブルボン朝が復活したのです。シャルルは長年の亡命生活を終えて帰国し、再び宮廷の一員として政治の舞台に戻ることになりました。しかし、亡命時代に彼が抱いていた強硬な王政復古の思想は変わっておらず、それが後の彼の統治に影響を与えることになります。
王政復古と政治の舞台への復帰
1814年、ナポレオン・ボナパルトの退位により、フランスの王政が復古し、ブルボン朝が再び権力を握ることになりました。兄のルイ18世が王として即位し、シャルルも長年の亡命生活を終えて帰国しました。しかし、フランスは革命とナポレオン時代を経て大きく変貌しており、かつての絶対王政をそのまま復活させることは困難な状況にありました。ルイ18世は比較的穏健な立場を取り、立憲君主制のもとで国を統治しようとしましたが、シャルルはより強硬な姿勢を取り、革命以前の体制を可能な限り回復させるべきだと考えていました。
彼は亡命中にさらに強まった王党派の影響を受けており、特に貴族や聖職者の権利を回復させることに固執していました。シャルルは自身の影響力を宮廷内で強め、反動的な政策を支持する勢力を結集させました。特に「ウルトラ王党派」と呼ばれる保守的な貴族たちと結びつき、フランス革命の遺産を完全に払拭しようとしました。こうした姿勢は、国民の間に不安を生むことになり、徐々に社会との対立が深まっていきました。
シャルル10世の即位
1824年、ルイ18世が崩御すると、シャルルは王位を継承し、フランス国王シャルル10世として即位しました。彼の即位は、フランスにおける政治的な分断をさらに明確にするものでした。兄のルイ18世は立憲君主制のもとで国を統治していましたが、シャルルはより強権的な統治を志向し、革命以前の王政をできる限り復活させようとしました。彼は即位直後から、貴族や聖職者の特権を回復させる政策を推し進め、旧体制の再興を目指しました。
シャルル10世は、特にカトリック教会の権威を重視し、宗教的な政策を強化しました。彼は聖職者に対する補償を行い、革命期に没収された教会財産の返還を推進しました。また、カトリック教会の影響を強めるため、教育制度にも介入し、宗教教育を強化しました。しかし、こうした政策は世俗的な市民層や自由主義者の反発を招き、社会の不満を高めることになりました。
政策と社会の不満
シャルル10世の統治は、次第に反発を招くようになりました。彼の政策は貴族や聖職者には支持されましたが、一般市民やブルジョワ階級には不評でした。特に、報道の自由を制限し、反政府的な新聞を弾圧したことは、知識人層や自由主義者の怒りを買いました。彼はまた、革命期の改革を否定し、かつての貴族階級を優遇する政策を取ったため、多くの国民が王政に対して不信感を抱くようになりました。
さらに、1827年には国民衛兵の解散を命じるなど、武力を背景に強権的な統治を進めましたが、これがかえって市民の反発を招きました。経済的にも困難が続き、特に農民や労働者層の生活は苦しくなっていました。こうした不満が蓄積される中、シャルル10世はさらに強硬な政策を推し進めることになりました。
1830年の七月革命
1830年、シャルル10世はさらに強硬な措置を取り、七月勅令(Ordonnances de Juillet)を発布しました。この勅令では、報道の自由をさらに制限し、選挙制度を改変して貴族階級に有利な形にすることを目指しました。しかし、この動きは市民の怒りを爆発させ、パリでは大規模な抗議運動が発生しました。この抗議は次第に暴動へと発展し、最終的に「七月革命」へとつながりました。
パリ市民はバリケードを築き、政府軍と衝突しました。シャルル10世は軍を動員して鎮圧を試みましたが、国民の抵抗は激しく、最終的に彼は王位を維持できなくなりました。彼は1830年8月2日に退位を余儀なくされ、孫のボルドー公アンリに王位を譲ろうとしましたが、これも認められず、フランスを去ることになりました。
亡命と晩年
退位後、シャルル10世は再び亡命生活を余儀なくされました。彼はまずイギリスに逃れ、その後オーストリア帝国領内のプラハへ移りました。晩年はイタリアのゴリツィアに移り住み、静かな生活を送りました。彼は亡命生活の中でもカトリック信仰を貫き、敬虔な祈りの日々を送りました。しかし、政治的な野心は捨てきれず、ブルボン朝の復権を願い続けていました。
1836年、シャルル10世はコレラに罹患し、11月6日に亡くなりました。彼の遺体はゴリツィアのフランシスコ会修道院に埋葬されました。彼の死はフランス国内では大きな関心を呼ぶことはなく、ブルボン朝の復活を願う王党派の間で静かに悼まれるだけでした。
終わりなき王政の夢
シャルル10世の生涯は、フランス革命後の王政の苦闘を象徴するものでした。彼は最後まで革命の遺産を否定し、旧体制の復活を目指しましたが、社会の変化には対応できず、最終的には再び亡命の道を歩むことになりました。彼の治世は短く、激動の時代の中で多くの批判を受けましたが、彼自身は生涯を通じて王としての使命を全うしようとしました。