【フランス王国】ルイ18世

【フランス王国】ルイ18世フランス国王
【フランス王国】ルイ18世

幼少期と生い立ち

ルイ18世は1755年11月17日、フランス王国のヴェルサイユ宮殿にて誕生しました。父はルイ15世の息子であるルイ王太子、母はサクス=ゴータ公女マリー=ジョゼフであり、彼はルイ16世の弟として生まれました。本名はルイ・スタニスラス・グザヴィエと名付けられ、幼少期から豊かな教育を受け、フランス王族としての格式と責務を学びながら成長しました。

彼の教育には、政治学や哲学、歴史、文学などが含まれ、特に語学に優れ、ラテン語や英語を自在に操ることができました。さらに、彼は幼少期から鋭い知性と分析力を持ち、当時の王族の中でも際立つ存在として認識されるようになりました。一方で、兄であるルイ16世とは性格が異なり、慎重で内向的な傾向が強く、実務的な政治手腕を磨いていきました。

彼は「プロヴァンス伯」として知られ、兄の王位継承に伴い、その立場を固めていきました。宮廷においては、穏やかで知的な人物として評価されながらも、時に皮肉屋としての一面も持ち合わせており、政治的な駆け引きにも長けていました。ルイ16世の即位後、彼は王政の一翼を担う存在として、積極的に政治に関与するようになりました。

フランス革命の勃発と亡命

1789年、フランス革命が勃発すると、プロヴァンス伯ルイは兄ルイ16世とともに当初は改革の流れを注視していました。しかし、革命が急速に進行し、絶対王政の基盤が揺らぐにつれ、彼の立場も不安定になっていきました。彼は王政の維持を強く望みつつも、兄とは異なり、より現実的な対応を模索する姿勢を見せました。

1791年、ルイ16世とその家族がヴァレンヌ逃亡事件を起こした際、プロヴァンス伯は事前に国外脱出を成功させ、ブリュッセルを経てコーブルク、さらにはドイツ諸国を転々としました。彼はこの亡命生活を通じて、外国勢力と連携しながら王政復古の道を探り、亡命貴族たちの統率を図りました。

1793年、ルイ16世が処刑されると、亡命貴族たちは彼を王位継承者と見なし、彼は「ルイ18世」を名乗るようになりました。しかし、フランス革命政府の勢力が強大化する中、彼の亡命生活はさらに困難を極めました。ロシア、プロイセン、イギリスなどの君主制国家に支援を求めながら、彼は王政復古のための活動を続けました。

亡命生活と王政復古への道

ルイ18世の亡命生活は長期にわたり、各国の宮廷を転々とする日々が続きました。彼はイギリスの支援を受けつつ、ドイツやロシアなどでも政治的活動を展開し、フランス国内の王党派と連携しながら、王政復古の可能性を探りました。しかし、ナポレオン・ボナパルトが台頭すると、彼の希望は遠のくばかりでした。

1804年、ナポレオンがフランス皇帝に即位すると、ルイ18世はこれを激しく非難し、正統なフランス王家の復活を訴えました。しかし、彼の影響力は限られており、亡命生活の厳しさは増すばかりでした。彼はイギリスで長期滞在し、ナポレオン政権の崩壊を待ち続けました。

1814年、ナポレオンが第六次対仏同盟によって敗北し、フランスを追放されると、ついにルイ18世に王政復古の機会が訪れました。彼はイギリスからフランスへ帰還し、正式にフランス王として即位しました。

王政復古と統治の開始

ルイ18世は1814年にフランスへ帰還し、王政復古を実現しました。しかし、革命後のフランスは大きく変貌しており、単純に旧体制を復活させることは困難でした。彼は新たな憲法として「シャルル10世憲章(憲章)」を発布し、立憲君主制を導入することで、新しい時代に適応しようとしました。

彼の統治は、革命の成果を一定程度認めつつも、王権の維持を図るバランスの取れた政策を展開しました。特に、貴族と市民の融和を目指し、極端な報復を避ける姿勢を示しました。しかし、一方で王党派と自由主義者の対立が激化し、国内の政治は混乱を極めました。

さらに、1815年にはナポレオンがエルバ島を脱出し、「百日天下」を開始したことで、ルイ18世は再び亡命を余儀なくされました。しかし、ナポレオンがワーテルローの戦いで敗北すると、彼は再び王位に復帰し、再びフランスを統治することになりました。

二度目の王政復古と統治の課題

1815年、ナポレオンがワーテルローの戦いで敗北した後、ルイ18世は再びフランス王として帰還しました。彼の二度目の王政復古は、前回以上に慎重な対応を求められるものでした。フランス国内にはナポレオン支持者が依然として多く、また革命の影響を色濃く受けた社会の変化に適応しなければならなかったのです。

ルイ18世は、報復を最小限に抑えつつ、安定した統治を確立しようと努めました。彼は「憲章」を維持し、立憲君主制のもとで統治を行いました。しかし、極端な王党派であるウルトラ・ロワイヤリストと自由主義者の対立が激化し、政権運営は困難を極めました。

特に、ナポレオン支持者や旧革命派に対する「白色恐怖」と呼ばれる弾圧政策が発生し、政治的報復の波が広がりました。これに対しルイ18世は穏健な姿勢を取り、急進的な弾圧を抑制しようとしましたが、王党派の圧力に抗うことは容易ではありませんでした。

経済政策と外交の舵取り

ルイ18世の治世では、経済の立て直しが重要な課題となりました。革命とナポレオン戦争によって荒廃したフランス経済を復興するため、彼は産業の奨励と財政改革を進めました。また、農業政策にも力を入れ、国内の安定を図りましたが、税制の不満は依然として強く、多くの国民は負担の重さに苦しんでいました。

外交面では、ウィーン体制の中でフランスの地位を回復することが求められました。彼はイギリスやオーストリア、ロシアと協調し、フランスがヨーロッパの安定した一員として受け入れられるよう努めました。しかし、フランス軍の削減や賠償金の支払いなど、戦後処理の影響は大きく、国民の間には不満がくすぶり続けました。

晩年と健康の悪化

ルイ18世は晩年、健康の悪化に悩まされるようになりました。彼は痛風や肥満に苦しみ、次第に宮廷での活動も制限されるようになりました。政務は彼の側近や政府高官によって執り行われることが多くなり、特に弟であるアルトワ伯(後のシャルル10世)の影響が強まっていきました。

この時期、フランス国内では次第に保守化が進み、王権のさらなる強化を求める動きが高まっていきました。しかし、ルイ18世は極端な政策を避け、穏健な路線を保とうと努力しました。彼の意識の中には、革命と戦争の混乱を避けることが最優先であるという考えが根強くありました。

ルイ18世の死とその後

1824年9月16日、ルイ18世はパリのテュイルリー宮殿にて崩御しました。享年68歳でした。彼の死後、王位は弟のシャルル10世が継承しましたが、その治世はやがて七月革命へとつながり、ブルボン朝の終焉を迎えることになります。

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