中国史において「漢」という名は特別な意味を持ち、のちの時代にも大きな影響を及ぼしました。前漢と後漢、約400年にわたるこの王朝の時代は、単なる興亡の歴史ではなく、帝国としての統治制度の確立、儒教の国家理念化、中央集権体制の強化、そして対外交流の拡大など、中国史における重要な転換点となりました。秦の滅亡後に成立した前漢は、劉邦のもとで新たな統治体制を築き、その後の「文景の治」や武帝による領土拡張によって繁栄を極めました。一方で、王莽による簒奪や、後漢の政治腐敗と黄巾の乱など、国家の安定と混乱が交互に訪れました。漢王朝は最終的に三国時代へと移行し、その長い歴史に幕を下ろします。
本記事では、そんな漢王朝の成立から滅亡までの流れを詳しく解説していきます。
漢王朝の成立と初期の発展
前漢は、秦の滅亡後に中国を統一した劉邦によって紀元前202年に建国されました。秦は短命に終わり、過酷な法家思想による政治や強制的な土木事業が民衆の反発を招き、陳勝・呉広の乱を皮切りに各地で反乱が勃発し、やがて項羽と劉邦による覇権争いへと発展しました。この戦いは楚漢戦争と呼ばれ、最終的に劉邦が項羽を滅ぼし、長安を都に前漢を建国しました。
劉邦は、戦乱で荒廃した国を立て直すために穏健な政策を採用し、郡国制を導入しました。これは秦の郡県制と周の封建制を折衷した制度で、皇族や功臣を諸侯王に封じつつ、中央政府の統制を強めるために重要な地域には郡を設置しました。ただし、この制度は後に呉楚七国の乱を引き起こす原因となります。さらに、財政再建のために賦税の軽減を行い、農民の生活を安定させることを重視しました。
劉邦の死後、皇后である呂雉が実権を握り、外戚として強い権力を振るいましたが、彼女の死後には劉邦の血筋を重視する勢力が台頭し、呂氏一族は排除されました。その後、文帝や景帝の時代にかけて統治は安定し、節約と農業振興を基本とする政策がとられ、「文景の治」と称される安定した時代が築かれました。特に景帝の時代には、諸侯王の権力が強まりすぎることを危惧した中央政府が、諸侯王の国を細分化する政策を実施したため、それに反発した呉楚七国の乱が発生しましたが、これを鎮圧することで皇帝権力の強化が図られました。
中国の皇帝の親族関係において、皇后や皇太后など皇帝の母方や妻方の親族を指す言葉です。具体的には、皇帝の妻(皇后)の実家の親族や、皇帝の母親(皇太后)の実家の親族などが「外戚」として分類されます。
中国の封建制度において、皇帝によって領地(封国)を与えられ、その地域を統治する権限を持った王族のことを指します。特に漢王朝における諸侯王は以下のような特徴を持っていました:
- 血縁関係:初期の漢王朝では、劉邦(高祖)の息子や兄弟など、皇帝と血縁関係のある者が諸侯王として封じられました
- 統治権:諸侯王は自分の封国内で、税の徴収や軍隊の編成など、一定の統治権を有していました
- 世襲制:諸侯王の地位は原則として世襲され、父から子へと継承されました
- 政治的意義:漢王朝初期には、諸侯王は広大な領土と強大な軍事力を持っており、中央政府(皇帝)に対抗し得る勢力でした
武帝の時代と中央集権化の進展
前漢の最盛期は武帝の治世にありました。武帝は即位すると、儒教を国家の基本理念として採用し、董仲舒の進言を受け入れて儒教の官学化を推し進めました。これにより、科挙制度の前身ともいえる察挙制が導入され、儒学を修めた者が官僚として登用される仕組みが確立されました。これ以降、中国の統治思想として儒教が長く影響を及ぼすことになります。
また、武帝は対外的にも積極的な政策を展開し、宿敵である匈奴に対して攻勢を強めました。張騫を大月氏に派遣し、西域との外交を図るとともに、衛青や霍去病といった将軍を用いて匈奴を撃破し、漢の勢力を大きく拡大しました。さらに、南越国や衛氏朝鮮を征服し、現在のベトナム北部や朝鮮半島の一部を支配下に置きました。このように漢の領土は大きく広がり、シルクロードを通じた交易も活発化しました。
武帝は経済政策にも力を入れ、財政基盤を強化するために均輸法や平準法を実施しました。これは物資の供給を安定させ、物価の変動を抑えるための経済政策であり、政府が物資の貯蔵と流通を管理することで商業の発展を促しました。さらに、塩鉄専売を実施し、国家財政を強化しました。ただし、これらの政策は国力を増強する一方で、重税や徴発によって民衆の負担を増大させ、後の混乱の原因ともなりました。
このように、武帝の時代には中央集権化が進み、領土の拡大とともに経済基盤も整備されましたが、長期の戦争や財政負担の増大によって、次第に国内の不満が高まり始めることになります。
武帝以降の混乱と王莽の簒奪
武帝の死後、漢の国政は次第に混乱し、皇族や外戚、宦官の権力争いが激化しました。特に昭帝の死後、外戚である王莽が徐々に権力を掌握し、ついには紀元8年に皇帝を廃し、新たに新を建国しました。これにより、前漢は事実上滅亡し、約200年にわたる統治が終焉を迎えました。
王莽は周代の理想的な政治を復興しようとし、極端な改革を断行しました。土地制度を変更して王田制を導入し、貨幣制度を改めましたが、これらの政策は社会に混乱をもたらし、多くの反発を招きました。さらに、異民族の侵入や大規模な農民反乱が相次ぎ、新は政権を維持できず、最終的に赤眉の乱によって滅亡しました。
こうして、漢王朝は一時的に中断されましたが、王莽の失政に対する反発の中で、光武帝(劉秀)が台頭し、再び漢王朝を再建することになります。これが後漢の始まりとなり、再び漢王朝の支配が中国全土に及ぶことになりました。
後漢の成立と光武帝の治世
新の滅亡後、混乱の中で各地に群雄割拠し、中国は再び分裂状態に陥りました。このような状況下で台頭したのが、光武帝(劉秀)です。劉秀は前漢の皇族の一員であり、赤眉の乱などの反乱を鎮圧しつつ勢力を拡大し、紀元25年に洛陽を都として後漢を建国しました。彼の即位によって、漢王朝は復活し、中国の統一が再び実現されました。
光武帝は、過去の失政を反省し、比較的穏健な政治を推進しました。内政面では、戦乱で荒廃した農村を再建するために租税の軽減を実施し、農民の負担を減らしました。また、豪族との関係を調整し、彼らの協力を得ることで政治の安定を図りました。さらに、前漢の武帝時代に確立された儒教の官学化を継続し、太学を拡充することで官僚養成制度の強化を進めました。
対外的には、西域との関係を回復し、班超を派遣して匈奴や西域諸国との外交を積極的に展開しました。この政策により、シルクロードを通じた貿易が再び活発化し、中国経済の発展に寄与しました。
光武帝の治世は比較的安定しており、「光武中興」と称される復興期が築かれました。しかし、その後の後漢は次第に内部の問題を抱えるようになり、皇帝の統治力の低下とともに、外戚や宦官が権力を掌握する時代へと突入していきます。
中国古代社会、特に漢代から魏晋南北朝時代にかけて台頭した地方の有力な家門や名家のことを指します。
中国古代の最高学府、または国立の最高教育機関を指します。漢王朝時代に正式に制度化されました。
外戚と宦官の対立
後漢中期になると、皇帝が幼少で即位することが多くなり、実権は皇帝の母方の親族である外戚や宮中の宦官に握られるようになりました。特に、外戚が専横を振るうようになり、梁冀や何進といった外戚勢力が政治を牛耳るようになりました。
外戚の専横が続く一方で、それに対抗する形で宦官勢力も台頭し、宮廷内での権力闘争が激化しました。特に、桓帝や霊帝の時代には、宦官が外戚を排除する動きを強め、結果として宦官が強大な権力を握るようになりました。
このような政治の混乱により、地方では豪族が独自の勢力を持つようになり、中央政府の統制が及ばなくなりました。また、官僚の腐敗が進み、農民の生活はますます困窮していきました。
黄巾の乱と後漢の崩壊
後漢末期になると、増税や政治の腐敗により民衆の不満が高まり、大規模な反乱が発生しました。その代表的なものが、黄巾の乱です。この反乱は張角率いる太平道が主導し、道教的な教えを背景に民衆を動員しました。黄巾の乱は中国全土に広がり、後漢政府は鎮圧に苦しみました。
この動乱の中で、各地の軍閥が台頭し、特に曹操、劉備、孫権といった群雄が勢力を拡大しました。彼らはそれぞれ独自の軍事力を持ち、やがて後漢の中央政府よりも強大な権力を持つようになりました。
後漢の滅亡と三国時代の到来
黄巾の乱を鎮圧した後も、後漢の権威は衰退の一途をたどりました。特に、董卓の専横によって政治はさらに混乱し、彼の暴政に対抗するために地方の軍閥が連合を組みました。この結果、中央政府の統制力は完全に失われ、中国は各地の軍閥による群雄割拠の時代に突入しました。
最終的に、曹操が後漢の実権を掌握し、献帝を擁立して政権を維持しましたが、曹操の死後、その子である曹丕が献帝を廃し、魏を建国しました。これにより、後漢は正式に滅亡し、中国は魏・呉・蜀の三国に分裂する三国時代へと突入しました。
後漢の滅亡は、中央集権体制の限界と、外戚・宦官・豪族の対立による政治の混乱が原因でした。そして、この混乱の中で新たな勢力が台頭し、中国の歴史は新たな時代へと移行していきます。