【中国】唐の滅亡からモンゴル帝国の勃興

【中国】唐の滅亡からモンゴル帝国の勃興中国
【中国】唐の滅亡からモンゴル帝国の勃興

唐の滅亡後、中国は五代十国時代という群雄割拠の混乱期に突入し、各地で地方政権が台頭しました。この時代、華北では五代と呼ばれる王朝が次々に交代し、南方では十の地方政権が併存するなど、統一国家の不在が続きました。その後、宋の成立により一時的な安定がもたらされるものの、北方では遼や西夏、金といった異民族勢力が興隆し、中国は再び圧力を受けることになります。そんな中、モンゴル高原から現れたチンギス・ハンがユーラシアを舞台にかつてない規模の大帝国を築き上げ、世界史の流れを大きく変えることになりました。

本記事では、この時代がどのように展開し、最終的にモンゴル帝国の誕生へと至ったのかを詳しくみていきます。

唐の滅亡と五代十国時代の幕開け

唐が滅亡したのは907年のことで、節度使の一人であった朱全忠朱温)が唐の最後の皇帝である哀帝から禅譲を受けて後梁を建国したことにより、長く続いた唐の時代は終焉を迎えました。この唐末から宋の統一に至るまでの混乱期は、中国史において五代十国時代と呼ばれ、政治的混乱が続いた時代として知られています。五代とは華北に成立した後梁後唐後晋後漢後周の五つの王朝を指し、十国とは南方に割拠した諸政権を指します。

節度使(せつどし)とは

中国の唐代に始まった地方の軍政機関の長官の職名です。

  • 起源
    安史の乱(755年-763年)の時期に、辺境防衛や地方の治安維持のために設置されました。
  • 権限
    軍事・行政・財政の三権を持ち、地方において強大な権力を行使しました。
  • 変遷
    初期は皇帝の任命による臨時職でしたが、徐々に世襲化し、独立性を強めていきました。
  • 影響
    唐の中央集権体制を弱体化させ、唐末から五代十国時代にかけては、節度使が実質的な地方政権として機能するようになりました。
  • 歴史的意義
    中国の藩鎮制度の中核をなし、日本の律令制や平安時代の軍事制度にも影響を与えました。
禅譲(ぜんじょう)とは

中国古代において実践された王位継承の方式の一つです。この制度では、統治者(皇帝や王)が自らの子孫ではなく、最も有能で徳の高い人物に権力を譲るというものでした。

唐の滅亡直前、国内では黄巣の乱が勃発し、唐王朝はその混乱の中で権力を失い、地方の有力者であった節度使が自立する状況が生まれていました。これらの節度使が各地で権力を持ち始め、五代十国の割拠の時代に突入していきます。

五代の王朝のうち、後梁は朱全忠が建てた王朝ですが、わずか16年で李存勗(荘宗)がこれを滅ぼし、後唐が成立しました。後唐は唐王朝の正統性を継ぐことを強調しましたが、その内部では軍閥の対立が激しく、短命に終わりました。その後、後唐の内部の混乱を利用して石敬瑭が建国したのが後晋です。石敬瑭は契丹に服属してその援助を受けたため、契丹の勢力が中国北部に拡大するきっかけとなりました。契丹は後にを建国し、華北への圧力を強めることになります。

後晋が滅びると後漢が短期間成立しましたが、すぐに郭威がクーデターを起こして後周を建てました。後周の時代には軍事改革が進められ、宋王朝の基盤が築かれましたが、皇帝世宗の死後に政権は混乱し、最終的には後周の将軍であった趙匡胤を建国することになります。

宋の成立と北方の遊牧民族の台頭

趙匡胤が960年に建国した宋は、軍人の権力を抑え、文官を重視する政治体制を確立しました。この文治主義の体制は安定をもたらしましたが、一方で軍事力の弱体化を招き、北方の遊牧民族に対する防衛には課題を残しました。

宋の北方には、契丹が建てたが強力な勢力として存在し、さらに西方ではタングート族西夏を建国して勢力を伸ばし、東北地方では女真族が興隆し始めるなど、宋は多方面にわたって圧力を受ける状況にありました。

この時代、宋は経済的には発展し、江南地域の農業生産が増大するとともに、市舶司を通じた貿易も活発になりました。特に景徳鎮の陶磁器や茶の生産が盛んになり、商業活動が活発化することで貨幣経済が発展しました。

一方、軍事面では北方の契丹に圧力をかけられ、1004年には澶淵の盟を結び、宋は遼に対して多額の銀や絹を毎年送る屈辱的な和議を結ぶことになりました。これは宋の対外政策の特徴でもあり、強力な軍事行動を避け、経済的な支出によって安定を図る方針が取られました。

市舶司(しはくし)とは

中国の宋代(960-1279年)に設立された海外貿易を管理する官庁です。
中国の海洋貿易史において重要な役割を果たし、特に宋代の経済的繁栄と国際交流の拡大に貢献した制度です。

女真族の興隆と金の建国

12世紀初頭になると、遼の支配下にあった女真族が勢力を強め、完顔阿骨打が指導者として台頭し、1115年にを建国しました。女真族は契丹に対して反乱を起こし、1125年には遼を滅ぼして北方の覇権を掌握しました。

金はさらに宋に圧力をかけ、1127年には靖康の変が起こり、金軍は開封を陥落させ、宋の皇帝徽宗や欽宗が捕らえられました。これにより北宋は滅亡し、宋の皇族趙構が江南に逃れて南宋を建国することになりました。

南宋は江南地域の豊かな経済力を背景に存続しましたが、金の圧力に常に苦しめられ、その後も緊張状態が続くことになります。

西夏の成立とモンゴル高原の動向

宋と並行して、中国西部ではタングート族が西夏を建国し、黄河上流地域を支配して勢力を拡大しました。西夏は中国文化の影響を受けつつも独自の文字である西夏文字を用いて、特異な文化を築き上げました。

また、この時代のモンゴル高原では、遊牧民族が群雄割拠する状況が続いており、モンゴル族の諸部族は統一された勢力を持たないまま、草原地帯で生活していました。このような状況が後にテムジンチンギス・ハン)の登場とともに大きく変化していくことになります。

このように、唐の滅亡から宋の成立、さらには金や西夏の勃興に至るまでの時代は、中国の内政・外交が非常に複雑に絡み合い、華北から江南に至る広範な地域で政治的変動が相次いだ時代でした。モンゴル帝国の登場は、これらの混乱の中で次第に形成されることになります。

チンギス・ハンの登場とモンゴル帝国の勃興

12世紀末、モンゴル高原では遊牧民が群雄割拠し、各部族が対立を繰り返していました。この混乱の中から登場したのが、後にチンギス・ハンとして知られるテムジンです。

テムジンはボルジギン氏の出身で、幼少期には父の死後、部族の人々から見放されるなど過酷な境遇に置かれましたが、次第に多くの部族を統合する実力を身につけ、1206年にはモンゴル高原の有力部族を統一し、クリルタイ(部族会議)において「チンギス・ハン」(「大いなる支配者」の意)の称号を受け、モンゴル帝国の基礎を築きました。

チンギス・ハンは強力な軍事組織を構築し、千戸制を導入して各部族の伝統的な枠組みを解体し、全軍を一体化させることで忠誠心と規律を強化しました。さらに、戦争においては巧みな機動戦術と優れた情報網を駆使し、モンゴル軍の圧倒的な強さを確立しました。

西遼の征服と中央アジアへの進出

チンギス・ハンは中国北方のへの遠征を開始しつつ、西方への進出にも着手しました。1218年には、かつての契丹人が建てた西遼を征服し、中央アジアに勢力を拡大しました。これにより、モンゴル帝国は東アジアから中央アジアにまで及ぶ広大な領域を支配下に置きました。

この頃、中央アジアの強国として存在していたのがホラズム・シャー朝です。チンギス・ハンは当初、ホラズム・シャー朝と友好的な関係を築こうとしましたが、モンゴルの使節団が殺害されるという事件が発生したことで両国の関係は悪化し、1220年にはモンゴル軍がホラズム・シャー朝に対して大規模な遠征を行い、サマルカンドやブハラといったオアシス都市を次々と攻略しました。

チンギス・ハンの死と後継者の治世

チンギス・ハンは1227年、西夏征服の途上で病に倒れ、その生涯を終えました。彼の死後、後継者として息子のオゴタイが即位し、さらにモンゴル帝国の拡大が進められました。

オゴタイはカラコルムを都と定め、中央集権的な統治体制を整備しました。彼の治世中には、金への本格的な遠征が行われ、1234年に金は滅亡しました。これにより、華北地域はモンゴル帝国の支配下に入ることとなりました。

さらに、オゴタイはヨーロッパ方面への遠征も指示し、バトゥを総司令官としてワールシュタットの戦い(1241年)で東欧諸国に大打撃を与えました。この結果、東欧の一部はモンゴルの勢力圏に組み込まれ、モンゴル帝国の版図はユーラシア大陸全域に広がることになりました。

モンゴル帝国の分裂と元の成立

モンゴル帝国はその後、フレグの遠征によってイル・ハン国がイラン地域に成立し、中央アジアにはチャガタイ・ハン国が建国されるなど、次第に分裂の兆しを見せ始めました。

その中で、チンギス・ハンの孫であるフビライは中国支配に乗り出し、1271年に国号をと定め、1279年には南宋を滅ぼして中国全土を統一しました。フビライは大都(現在の北京)を都とし、漢民族の伝統的な統治機構を取り入れつつ、モンゴル帝国の広大なネットワークを活かして東西交易を活発化させました。

元の時代には、陸上のシルクロードと海上の交易路が整備され、マルコ・ポーロが訪れたように、多くの西洋人が中国を訪れるなど、ユーラシア規模での国際交流が活発化しました。

モンゴル帝国の遺産とその影響

モンゴル帝国は、単に広大な領土を征服しただけでなく、異文化の交流を促進し、経済活動や技術の伝播を加速させた点で歴史的な意義を持ちます。パクス・モンゴリカ(「モンゴルの平和」)と呼ばれる時代には、ユーラシアの交易がかつてないほど活発化し、紙幣や火薬、羅針盤などの技術が西方へ伝わる契機となりました。

中国史においても、元の支配は後の明や清の時代に影響を与え、中央集権的な体制や対外貿易の活発化といった要素が継承されることになります。

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