【スペイン王国】「太陽の沈まぬ帝国」スペイン王国の栄光と衰退

【スペイン王国】「太陽の沈まぬ帝国」スペイン王国の栄光と衰退スペイン
【スペイン王国】「太陽の沈まぬ帝国」スペイン王国の栄光と衰退

スペイン王国の成立は、ヨーロッパの歴史において大きな転換点となりました。カトリック両王の統治下でイベリア半島の統一が達成され、さらにコロンブスの航海を契機に新大陸での領土拡張が進み、スペインは「太陽の沈まぬ帝国」として国際社会に君臨しました。しかし、この繁栄は長くは続かず、度重なる戦争や国家財政の逼迫により、スペインは徐々にその地位を失っていきます。宗教的対立や内乱が相次ぐ中、スペイン・ハプスブルク朝の終焉は避けられないものとなり、かつての栄光は次第に薄れゆきました。

本記事では、スペイン王国がどのようにして栄光を築き、そして衰退へと向かったのか、その歴史を詳細にご紹介します。

スペイン王国の成立とカトリック両王の時代

1479年にカスティーリャ王国のイサベル1世とアラゴン王国のフェルナンド2世の結婚により、両王国は統一され、スペイン王国が成立しました。両王は「カトリック両王」と称され、スペイン統一の象徴となりましたが、両王国の制度や法は統一されず、それぞれの制度が維持される体制が続きました。カトリック両王の治世は、内政改革と外征政策が展開される重要な時期となりました。

イサベルとフェルナンドは、国内の貴族勢力の抑制に努めるとともに、王権強化を推し進めました。特に、貴族の権力を抑えるために自警団的な警察・民兵組織であるサンタ・エルマンダーデ(聖兄弟団)を再編し、治安維持に貢献させました。さらに、両王は異端審問制度を導入し、トマス・デ・トルケマダが異端審問官に任命されると、ユダヤ教徒やイスラム教徒への改宗強制が進み、1492年にはユダヤ教徒の追放命令が発せられ、多くの人々がスペインを去ることとなりました。

また、1492年には、クリストファー・コロンブスがスペイン王室の支援を受けて新大陸に到達し、これが後のスペインの海外進出と植民地帝国の拡大につながる重要な契機となりました。さらに、同年にはグラナダ王国が陥落し、イベリア半島からイスラム勢力が一掃され、レコンキスタ(国土回復運動)が完了しました。

ハプスブルク家の支配とカルロス1世の治世

1516年、フェルナンド2世の死後、イサベル1世の孫であり、神聖ローマ皇帝カール5世としても知られるカルロス1世が即位し、スペイン・ハプスブルク朝が成立しました。カルロス1世は、スペイン王位のみならず、オーストリア、ブルゴーニュ、ネーデルラント、さらには神聖ローマ帝国皇帝の地位を兼ねる「日の沈まぬ帝国」を築き上げ、ヨーロッパ全体に影響を及ぼす大国を形成しました。

カルロス1世の治世では、内政と外交の両面で多くの課題がありました。国内では、1519年に起きたコムネロスの乱に見られるように、都市住民や新興貴族による反乱が勃発し、国王の絶対権力に対する反発が表面化しました。コムネロスの乱は最終的に鎮圧され、王権のさらなる強化へとつながりました。

一方、外交面では、カルロス1世はフランスのフランソワ1世との対立や、オスマン帝国の脅威に直面しました。特に、1525年のパヴィアの戦いでは、スペイン軍がフランス軍を破り、フランソワ1世を捕虜にするという大勝利を収めました。さらに、オスマン帝国のスレイマン1世がヨーロッパに進出する中、カルロス1世はウィーン防衛戦などで防衛体制を整え、神聖ローマ帝国の安定を図りました。

また、カルロス1世の時代には、スペインのアメリカ大陸での植民地拡大が本格化し、エルナン・コルテスによるアステカ帝国の征服(1521年)や、フランシスコ・ピサロによるインカ帝国の征服(1533年)が行われ、スペインの財政基盤が急速に強化されました。新大陸からの銀や金の流入は、スペイン経済の活性化と同時に、インフレーション(価格革命)を引き起こし、ヨーロッパの経済構造に大きな変化をもたらしました。

フェリペ2世の治世と「太陽の沈まぬ帝国」

1556年にカルロス1世が退位し、息子のフェリペ2世がスペイン王位を継承しました。フェリペ2世は、スペインの絶対主義体制を確立し、強力な中央集権体制を築き上げました。

フェリペ2世は、1557年にフランスとの間でカトー=カンブレジ条約を締結し、イタリア戦争に終止符を打ちました。この条約により、スペインはナポリ王国やシチリア王国などのイタリアの重要拠点を確保し、地中海での覇権を強化しました。さらに、1571年にはレパントの海戦で、オスマン帝国の海軍を破り、地中海の安全保障を確立することに成功しました。

また、フェリペ2世は1580年にポルトガル王国を併合し、イベリア半島の統一を果たすとともに、アジアやアフリカのポルトガル植民地を獲得し、スペイン帝国の領土はさらに拡大しました。

一方、イングランドのエリザベス1世との対立が激化し、1588年には無敵艦隊(アルマダ)を派遣してイングランド遠征を試みましたが、嵐や補給の問題により敗北を喫しました。これにより、スペインの海上覇権は次第に衰退し、イングランドが台頭する契機となりました。

フェリペ2世の統治下では、新大陸からの銀の流入が続き、一時的に国庫が潤いましたが、戦争の継続と浪費が財政を圧迫し、最終的には国家破産を繰り返す事態に陥りました。この時代のスペインは文化的にも黄金期を迎え、エル・グレコやミゲル・デ・セルバンテスといった著名な芸術家や文学者が活躍し、スペイン文化の輝きを示しました。

スペインの衰退とフェリペ3世・フェリペ4世の治世

フェリペ2世の死後、1598年に即位したフェリペ3世の治世に入ると、スペインは次第に国力が衰退し始めました。フェリペ3世は国家運営の多くを側近に委ね、特にレルマ公が実権を握る体制が確立されました。この時期、宮廷の浪費と財政の悪化が進み、スペイン経済は深刻な停滞に直面しました。

フェリペ3世の治世で重要なのは、1609年のモリスコ追放です。モリスコとは、改宗したイスラム教徒の子孫を指し、彼らは農業や手工業に従事し、経済活動を支えていましたが、王権の強化を目指す政権は彼らを排除する方針を選びました。この政策は短期的には宗教的一体性を強化したものの、長期的にはスペイン経済に深刻な打撃を与えることになりました。

フェリペ3世の後を継いだフェリペ4世(在位1621年〜1665年)は、スペインの権威が大きく揺らぐ時期に直面しました。彼の治世では、強力な宰相オリバーレス伯が改革を試み、スペインの中央集権化と軍事力強化を目指しましたが、これがかえって反発を招き、国内各地で反乱が発生しました。特に、1640年のカタルーニャの反乱(収穫人戦争)ポルトガル独立戦争は、スペインの支配力が急速に弱体化する契機となりました。

カタルーニャの反乱(収穫人戦争)

1640年から1652年にかけてスペイン・ハプスブルク王国に対してカタルーニャ地方で起きた反乱です。カタルーニャで農民らが蜂起し、サンタ・コロマ伯爵を処刑しました。カタルーニャ自治政府(ジェネラリタット)はフランスのルイ13世をカタルーニャの君主として招き入れましたが、1652年、スペイン軍がカタルーニャを再征服することで反乱が終結しました。この影響により、1659年のピレネー条約にて、北カタルーニャ(ルシヨン地方)はフランス領となります。

ポルトガル独立戦争(1640年〜1668年)

スペイン・ハプスブルク朝の支配からポルトガルが独立を回復するために戦った紛争です。
スペインは三十年戦争とカタルーニャの反乱にも直面していたため、ポルトガルへの十分な軍事力投入ができませんでした。一方、ポルトガルはイングランド、フランス、オランダからの支援を受け、1668年2月13日、リスボン条約によって戦争は終結。スペインはポルトガルの独立を正式に承認しました

三十年戦争とウェストファリア条約

フェリペ4世の治世下では、ヨーロッパ全土を巻き込む三十年戦争(1618年〜1648年)が勃発し、スペインもこの戦争に積極的に関与しました。三十年戦争は、当初はドイツの宗教対立として始まりましたが、次第に列強の権力争いへと発展し、スペインは神聖ローマ帝国側に立って参戦しました。

スペインは一時的にネルトリンゲンの戦い(1634年)などで勝利を収めましたが、次第にフランスのリシュリューやマザランが指導するフランス軍の反撃を受け、劣勢に立たされました。最終的に、1648年のウェストファリア条約により、スペインはネーデルラント(オランダ)の独立を正式に承認し、北方の影響力を喪失することとなりました。

その後、1659年にはピレネー条約が締結され、フランスとの国境が確定し、スペインは国際的な地位の後退を余儀なくされました。これにより、スペインは「太陽の沈まぬ帝国」としての栄光に終止符を打ち、フランスの覇権が強まる時代へと移行していきました。

カルロス2世とハプスブルク朝の終焉

フェリペ4世の死後、1665年に即位したカルロス2世の治世は、スペイン・ハプスブルク朝の終焉に直結する困難な時期でした。カルロス2世は虚弱な体質であったため政治的主導力に欠け、宮廷内の権力闘争が激化しました。さらに、スペインの財政は破綻状態に陥り、農業不振や疫病の流行も相まって、国民生活は著しく困窮しました。

スペイン領土の統治も崩壊しつつあり、ネーデルラントやイタリア、アメリカ大陸の植民地では反乱が頻発しました。カルロス2世の後継問題は国際社会に波紋を広げ、最終的にスペイン継承戦争(1701年〜1714年)へと発展することになります。この戦争の結果、スペイン・ハプスブルク朝は断絶し、フランスのブルボン朝出身のフェリペ5世がスペイン王位を継承することとなりました。

この時期、スペインの凋落は顕著であり、かつての「太陽の沈まぬ帝国」としての繁栄は過去のものとなり、フランスやイングランドといった新興勢力がヨーロッパの主導権を握る時代へと移行していきました。

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