【スペイン王国】王政復古から現代へ

【スペイン王国】王政復古から現代へスペイン
【スペイン王国】王政復古から現代へ

スペインはかつて「太陽の沈まぬ国」と呼ばれ、広大な植民地を誇る大国として君臨しましたが、19世紀から20世紀にかけてその姿は一変しました。ナポレオンの侵攻による混乱と、独立戦争後の政治不安が続く中、スペインは産業化の遅れや社会の不満の高まりに直面し、さらに米西戦争では主要植民地を失い国際的地位の低下に拍車がかかりました。そうした中、スペインは政治改革と近代化を模索し、やがて内戦と独裁体制を経て民主主義へと移行することになります。

本記事では、スペイン独立戦争後から王政復古、内戦、そして民主化への道のりをたどり、その歴史的な転換点を詳しく解説していきます。

スペイン独立戦争後の混乱と政治の変遷

スペイン独立戦争が終結した後のスペインは、ナポレオン戦争の余波と長期にわたる内乱の影響を受け、国内の政治体制や社会が大きく動揺することとなりました。ナポレオンの支配下で強要されたジョセフ・ボナパルトの統治が終わり、スペイン王政は復活することになりますが、その後のスペインは、フェルナンド7世の専制政治と憲法派の対立、さらには欧州列強の介入といった困難に直面しました。

1814年にフェルナンド7世が復位すると、彼は即座に1812年に制定されたカディス憲法を無効とし、絶対王政の復活を宣言しました。このカディス憲法は、スペイン独立戦争中に成立した自由主義的な憲法であり、立憲君主制や国民主権の原則を掲げ、さらにコルテス(議会)の強化や個人の権利の保護を定める画期的な内容であったため、王党派からは強く反発を受けることとなります。フェルナンド7世の専制政治に反発した自由主義者たちは各地で反乱を起こし、1820年にはラファエル・デル・リエゴ将軍の反乱が成功し、再びカディス憲法が復活しました。この一連の動きは立憲革命として知られ、スペイン国内で自由主義と絶対王政の激しい対立を引き起こしました。

この混乱の中で、フェルナンド7世はフランスに救援を要請し、1823年にはフランスのルイ18世が派遣したサン・ルイス遠征軍がスペインに侵攻し、自由主義勢力を鎮圧し、再びフェルナンド7世の絶対王政が復活することになりました。この出来事は神聖同盟の介入の一環として行われ、ウィーン体制下における欧州列強の保守主義的秩序の一部として位置づけられます。

神聖同盟とは

1815年に結成された、ナポレオン戦争後のヨーロッパ秩序を維持するための政治的連合です。
君主制と伝統的秩序の維持、革命運動の抑圧と自由主義の阻止が目的とする同盟です。
ロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱により設立され、当初はロシア、オーストリア、プロイセンの3君主が加盟していましたが、後にほとんどのヨーロッパ諸国(イギリス、オスマン帝国、ローマ教皇国を除く)が参加しています。

この時期のスペインでは、植民地帝国の崩壊も進行していました。スペイン独立戦争の混乱に乗じて、シモン・ボリバルホセ・デ・サン・マルティンといった指導者のもと、南アメリカ独立運動が活発化し、1820年代までにほとんどのスペイン植民地が独立を達成しました。特にメキシコ、アルゼンチン、コロンビアなどが独立し、かつての大帝国は急速にその領土を縮小していきました。こうした植民地の喪失は、スペイン経済に深刻な打撃を与え、国内の混乱をさらに悪化させました。

1833年にフェルナンド7世が死去すると、後継問題が勃発しました。フェルナンド7世は、娘のイサベル2世を後継者とし、摂政として母親のマリア・クリスティーナが政権を担うことになりましたが、これに反発したフェルナンド7世の弟カルロスが正統な王位継承者を名乗り、カルリスタ戦争が勃発しました。この内戦は、王権の正統性をめぐる争いであると同時に、自由主義派と保守主義派の対立でもあり、スペイン社会を深く分断しました。カルリスタ戦争は断続的に続き、特にバスク地方やカタルーニャ地方などでは保守派の支持が根強く、戦局は長期化しました。

イサベル2世の治世中、スペイン国内では自由主義改革が進められ、メンディサバルによる教会財産の没収や土地改革が実施されましたが、社会不安は解消されず、各地で暴動が頻発しました。最終的に、1868年には九月革命が勃発し、イサベル2世はフランスへ亡命し、スペインは一時的に王政を廃止して共和政に移行することとなりました。

この共和政は長くは続かず、1874年にはアルフォンソ12世が即位し、スペイン王政が復古しました。この時期のスペインは、社会的・政治的な不安定さが続きつつも、立憲体制の確立が図られ、カノバス・デル・カスティーリョが主導する体制のもとで、立憲君主制と二大政党制が定着することになります。

こうした時代において、スペインは欧州列強の一員としての地位を維持しつつも、国内の政治不安や経済的困難に悩まされ続けました。特に工業化の遅れや農村の貧困問題、地域ごとの対立などが深刻な課題となり、近代国家としての体制整備が遅れをとることになります。

スペイン王政復古と近代化の模索

アルフォンソ12世の即位により始まった王政復古期のスペインは、政治的安定を取り戻すために様々な改革が試みられました。カノバス・デル・カスティーリョが指導したこの体制では、憲法(1876年憲法)が制定され、立憲君主制と議会政治が確立されました。カノバスは保守派としての立場から、スペイン社会の伝統やカトリックの価値観を重視しつつも、二大政党制の枠組みを整え、自由党と保守党が交互に政権を担当する「交互制」を導入しました。この体制は一定の安定をもたらしましたが、実際には不正選挙や権力の癒着が常態化しており、地方の不満は根強く残りました。

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、スペインは産業化の波に乗り遅れ、経済成長は緩やかなものにとどまりました。特にカタルーニャ地方やバスク地方では工業化が進み、都市化が進展しましたが、農村部では依然として封建的な地主制が残り、経済格差が深刻化していきました。また、社会主義やアナーキズムといった急進的な思想が広まり、労働者のストライキや暴動が頻発するなど、社会不安が拡大しました。これに対応するため、政府は度々軍事的な弾圧を行いましたが、根本的な改革は行われず、国民の不満は蓄積されることになります。

1898年には、スペインは米西戦争に敗北し、キューバ、プエルトリコ、フィリピンなどの最後の主要植民地を失うという屈辱的な結果に終わりました。この敗北は「98年世代」と呼ばれる知識人たちの間で、スペインの衰退と改革の必要性についての深い議論を呼び起こしました。これにより、スペイン社会ではナショナリズムの機運が高まり、地域ごとのアイデンティティが強まるきっかけにもなりました。

20世紀初頭のスペインは、急進的な政治勢力が台頭し、政情はますます不安定になっていきました。ミゲル・プリモ・デ・リベラが1923年にクーデターを起こし、軍事独裁体制を樹立しましたが、その統治は長続きせず、1930年には退陣を余儀なくされました。翌年、スペインは再び共和政へと移行し、スペイン第二共和政が成立しました。この共和政では、土地改革や教育改革、地方自治の推進といった急進的な政策が実施されましたが、保守派の反発が強く、国民の対立は一層激化していきました。

この社会の分裂はやがて、1936年に勃発したスペイン内戦へとつながっていくことになります。内戦は、共和派とフランコ将軍が率いる国粋派の激しい戦いとなり、最終的にはフランコ将軍が勝利して独裁体制が成立しました。フランコ政権下のスペインは、独裁的な体制のもとで保守的な価値観が強く押し出され、言論統制や反対勢力の弾圧が行われる一方、第二次世界大戦では中立を維持しつつも枢軸国側に一定の協力を行うなど、複雑な立場をとりました。

フランコの死後、1975年に即位したフアン・カルロス1世は民主化を推進し、スペインは立憲君主制のもとで再び議会制民主主義へと移行しました。1982年にはスペイン社会労働党(PSOE)が政権を握り、スペインは欧州共同体(後の欧州連合(EU))に加盟し、国際社会への復帰を果たしました。これにより、スペインは経済的にも政治的にも近代化を遂げ、現在に至るまで安定した体制を維持しています。

このように、スペインは19世紀以降、度重なる政変と社会不安を経験しながらも、立憲体制の確立と近代国家への転換を果たし、欧州の一員としての地位を確立することに成功しました。

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