8世紀のスペインは、長きにわたるスペイン・ハプスブルク家の時代が終わり、フィリップ5世の即位によってブルボン朝が誕生するという大転換期を迎えました。ユトレヒト条約を経て失われた広大な領土、続くフランス革命の混乱、さらにナポレオンの侵攻による国家の危機など、スペインは絶えず動乱の渦に巻き込まれました。特に1808年のスペイン独立戦争は、民衆の抵抗とイギリス軍の支援を受けた熾烈な戦いとなり、スペインの近代史において重要な転機となりました。
この記事では、18世紀から19世紀初頭にかけてのスペインの歴史を、スペイン継承戦争からナポレオン戦争までの出来事を軸に詳しく解説していきます。
スペイン継承戦争と18世紀スペインの歴史
スペイン継承戦争は、1700年にカルロス2世が後継者を残さずに死去したことで勃発しました。スペイン・ハプスブルク家最後の王であったカルロス2世の死は、ヨーロッパの勢力均衡に大きな影響を与えました。カルロス2世は、スペイン王位継承者としてフランスのルイ14世の孫であるフィリップ5世(フェリペ5世)を指名していましたが、この決定はヨーロッパ各国にとって深刻な脅威とみなされました。もしフィリップ5世がフランス王位を継ぐことになれば、フランスとスペインが統合され、強大な勢力が生まれる可能性があったため、イギリス、オーストリア、オランダなどの諸国は、大同盟戦争以来の対立の延長としてこれに反発し、1701年にスペイン継承戦争が勃発しました。
戦争は、フィリップ5世を支持するフランス・スペイン連合と、ハプスブルク家のカール大公(後のカール6世)を擁立するイギリス、オーストリア、オランダ、プロイセンなどの大同盟側との間で激しい戦闘が繰り広げられました。戦局は当初、イギリスの名将マールバラ公ジョン・チャーチルとオーストリアのオイゲン公の活躍により大同盟側が優勢となり、1704年のブレンハイムの戦いや1706年のラミイの戦いなどでフランス軍は大敗を喫しました。しかし、その後フランスは持ち直し、1707年にはアルマンザの戦いでスペイン本土の支配権を確保しました。
この戦争は、ヨーロッパ全土に広がりながらもスペイン本土では主にカタルーニャ地方やバレンシア地方が戦場となり、特に1714年のバルセロナ陥落は、カタルーニャの自治権喪失につながる重要な出来事となりました。戦争は1713年のユトレヒト条約および1714年のラシュタット条約で終結し、フィリップ5世がスペイン王位に正式に就くことが認められたものの、スペインはイタリアのナポリ王国、シチリア王国、ミラノ公国などの領土やネーデルラント(現在のベルギーとルクセンブルク)をオーストリアに割譲するなど、かつての大帝国は大幅に縮小しました。
フィリップ5世の治世は、スペイン王権の再強化と中央集権化が進められた時代でもあります。彼はフランスの行政制度を模範とし、新体制勅令(Decretos de Nueva Planta)を発布して、カタルーニャ、アラゴン、バレンシアなどの旧アラゴン王国領の自治制度を廃止し、カスティーリャ式の中央集権体制を導入しました。これにより、スペインは統一的な行政システムを整え、国家としての一体性を強化することに成功しました。
18世紀後半には、フィリップ5世の後を継いだフェルナンド6世やカルロス3世のもとで、経済改革や啓蒙主義的政策が進められました。特にカルロス3世は「啓蒙専制君主」として知られ、国王の権威を高めつつ近代化政策を推進しました。彼のもとで、農業や工業の振興、道路の整備、商業の活性化が行われ、特にセビリアやカディスは貿易の中心地として繁栄しました。また、カルロス3世は教会の権力を抑制し、イエズス会の追放(1767年)を断行するなど、国家の権力強化に努めました。
一方で、スペインはこの時期に植民地政策の見直しも行いました。18世紀前半のスペインは、南米や中米の植民地を通じて依然として莫大な富を得ていましたが、これらの植民地統治は腐敗と非効率が目立ち、改革が求められていました。カルロス3世は、インテンデンテ制度(地方総督制度)を導入して現地行政の強化を図り、さらに貿易の自由化を進めることで植民地経済の活性化を目指しました。
スペインが18世紀に導入した行政改革の一環で、特に植民地統治の効率化を図るために実施されました。この制度は、スペイン領アメリカ(現在のラテンアメリカ)において、地域ごとに「インテンデンテ」(Intendente)と呼ばれる行政官を置き、財政、司法、軍事、公共事業などを統括させたものです。植民地統治の効率化と王権の強化を目指したもので、特に、七年戦争(1756-1763年)での敗北を機に、植民地経営の見直しが急務となったことが背景にあります。
この時期、スペインはフランスと同盟を結び、イギリスと対立する姿勢を強めました。アメリカ独立戦争(1775年~1783年)では、スペインはフランスと共にアメリカ側を支援し、ジブラルタル包囲戦(1779年~1783年)を通じてイギリスの地中海支配に対抗しました。結果としてスペインはフロリダを取り戻すことに成功しましたが、依然としてジブラルタルの奪還には失敗しました。
このように、18世紀のスペインは内政改革と対外戦争を通じて国家再建を進める一方、かつての勢力圏の多くを失い、ヨーロッパ列強の中での地位が後退する時期でもありました。
フランス革命とナポレオン戦争期のスペイン
18世紀後半、スペインはカルロス4世の治世に入ると、国内の政治情勢は不安定になり、フランス革命の波がスペインにも影響を与え始めました。フランス革命が勃発した1789年、スペインは当初中立を保っていましたが、フランス王ルイ16世が処刑されると、1793年に第一次対仏大同盟に加わり、フランス革命政府と敵対することになりました。
この戦争では、スペイン軍はバスク地方やカタルーニャ地方で戦闘を繰り広げましたが、1795年のバーゼルの和約でフランスと和平を結び、代償としてサントドミンゴ島(現在のドミニカ共和国の一部)を失いました。この講和後、スペインはフランスとの同盟関係を強め、1796年にはサン・イルデフォンソ条約を締結してフランスと同盟を結び、イギリスと敵対しました。
この同盟の結果、スペインは1797年にトリニダード島を失うなど、イギリスとの戦争で苦境に立たされました。1805年には、スペイン艦隊はフランス艦隊とともにトラファルガーの海戦に参加しましたが、イギリス海軍のネルソン提督によって大敗を喫し、スペインの海軍力は壊滅的な打撃を受けました。この敗戦は、スペインの海上覇権喪失を決定づける出来事となり、以後イギリスが地中海や大西洋の制海権を握ることになります。
一方、国内政治ではマヌエル・ゴドイが権力を掌握し、カルロス4世の側近として影響力を拡大していました。ゴドイはフランスとの協調路線を進め、1807年にはフォンテーヌブロー条約を締結して、ポルトガル分割の密約を結びました。これに基づき、スペインとフランスの連合軍はポルトガル侵攻を開始し、リスボンを占領しましたが、この条約はスペインにとって大きな落とし穴となりました。
ナポレオン・ボナパルトは、フォンテーヌブロー条約を利用してフランス軍をスペイン国内に駐留させ、1808年にはスペイン王位継承危機が発生しました。カルロス4世とその息子フェルナンド7世の対立に乗じて、ナポレオンは両者をフランスに連行し、スペイン王位に自らの兄であるジョゼフ・ボナパルトを擁立しました。
この出来事に反発して、スペイン各地で民衆が蜂起し、スペイン独立戦争(1808年~1814年)が勃発しました。この戦争は、スペイン民衆によるゲリラ戦(Guerrillaの語源となった)と、イギリス軍の介入によって激しさを増しました。特にアーサー・ウェルズリー(後のウェリントン公)の指揮のもと、イギリス軍はスペイン・ポルトガルの民衆と協力してフランス軍を徐々に駆逐しました。
1812年には、スペインの反フランス勢力がカディス憲法を制定し、立憲主義の確立を図りました。この憲法は、国民主権や立法府の権限強化を定めた画期的な文書であり、スペイン史上初めての近代憲法として大きな意義を持っています。
1813年、ナポレオンの勢力が衰退し始めると、スペインでは再びフェルナンド7世が王位に就きました。彼は即位後、カディス憲法を無効とし、旧体制(アンシャン・レジーム)を復活させ、強権的な統治を行いました。これに反発して、スペイン国内では自由主義者と王党派の対立が深まり、19世紀のスペインは政情不安に悩まされることになります。
18世紀後半から19世紀初頭のスペインは、対外戦争と国内改革の波に翻弄されつつ、フランス革命やナポレオンの影響を受けながら、近代国家への道を模索する激動の時代であったといえます。次回は、19世紀以降のスペインが直面した内戦や植民地の独立運動について詳しくお話しします。