戦争勃発の背景
第二次アヘン戦争(1856–1860年)は、清朝中国とイギリス・フランス連合軍の間で行われた戦争であり、「アロー戦争」とも呼ばれます。第一次アヘン戦争の敗北後、清朝は南京条約(1842年)によって香港割譲や開港などを余儀なくされました。しかし列強の要求は止まず、さらに貿易の拡大や外交上の権利強化を求めて圧力を強めました。清朝は国内の動揺や太平天国の乱など内憂を抱え、十分な対応ができない状況にありました。
このような中で、列強と清の間の緊張は高まり続け、ついに1856年、アロー号事件を契機として戦争が勃発しました。
アロー号事件とフランス宣教師殺害事件
1856年10月、広州でイギリス船籍を持つ中国船「アロー号」が清の役人によって臨検され、海賊行為の嫌疑で乗組員が逮捕される事件が起きました。イギリスはこれを「条約違反」として強く抗議し、軍事行動に踏み切りました。これが第二次アヘン戦争の発端となりました。
さらに、1856年に広西省でフランス人宣教師が殺害された事件を口実に、フランスもイギリスと連携して清に対する出兵を決定しました。こうしてイギリス・フランス連合軍が清に対して本格的な軍事行動を開始したのです。
天津条約とその未履行
1858年、連合軍は天津に迫り、清朝はやむなく天津条約を締結しました。条約の内容は以下の通りです。
- 天津・牛荘など11港の開港
- 外国公使の北京駐在の承認
- キリスト教布教の自由
- アヘン貿易の黙認
- 賠償金の支払い
しかし清朝内部ではこの条約に強い反発があり、宮廷は履行を拒みました。これにより再び戦闘が再開されることになります。
北京侵攻と円明園焼き討ち
1860年、イギリス・フランス連合軍は再び北上し、ついに北京を攻撃しました。清軍は近代兵器を備えた列強軍に対抗できず、連合軍は北京近郊の円明園に侵入して略奪と破壊を行い、世界的に有名な庭園建築を焼き払いました。この事件は列強の暴力性を象徴する出来事として、中国人の歴史意識に深く刻まれています。
その後、清は屈服し、1860年に北京条約が締結されました。この条約により天津条約の内容が強制的に実施され、さらに以下の条件が加えられました。
- 九龍半島の一部をイギリスに割譲
- さらに多額の賠償金支払い
- 公使の常駐権の確定
第二次アヘン戦争の歴史的意義
第二次アヘン戦争は、清朝が欧米列強の圧力に屈し、半植民地化の過程を決定的に進める契機となりました。特に外国公使の北京常駐や布教の自由は、中国の主権を大きく制限するものであり、国内における不満と動揺を増幅させました。
また、この戦争は太平天国の乱と並行して進行したため、清朝の国力を著しく消耗させました。結果として清朝は改革を迫られ、洋務運動などの近代化政策に取り組むこととなります。しかし一方で、列強の干渉が強まったことで中国は「半植民地・半封建社会」と形容される特殊な状況に置かれ、近代史全体に暗い影を落としました。
総じて第二次アヘン戦争は、第一次以上に清朝の主権喪失を決定づけた戦争であり、近代中国の苦難の歴史に深く関わる出来事でした。

