アンコール・トム – 世界史用語集

「アンコール・トム(Angkor Thom)」とは、カンボジアのクメール王国において12世紀末にジャヤヴァルマン7世が整備した巨大な城都を指す名称で、「大きな都(ナーガラ・トム)」という意味を持ちます。南北東西それぞれ約3キロメートルに及ぶ方形の城壁と幅広い環濠、中央の国家寺院バイヨン、王宮区、王の広場、象のテラスやライ王のテラスなどの建造物群から成り、アンコール地域の政治・宗教・儀礼の中心として機能しました。チャンパーの侵入(1177年)という危機を受けて再編された新都であり、仏教的王権イデオロギーのもと、公共事業と救済の理念を掲げた都市政策が展開された点に特徴があります。アンコール・トムは単に寺院遺構の集合ではなく、道路・水利・居住域・行政機構が一体となる都市システムであり、アンコール文明の成熟を体現した空間です。

都市中央に置かれたバイヨンの多面塔に象徴されるように、アンコール・トムは視覚イメージと都市機能を巧みに絡め取り、王権の普遍性と遍在性を表現しました。五つの城門に架けられたナーガ欄干の参道、城門塔の巨大な顔、王の広場を縁取るテラス群、王宮に付属するピラミッド形寺院などは、それぞれ儀礼・軍事・行政・交通の結節点として働きました。13世紀以降の上座部仏教の浸透、15世紀頃の王都機能の退転といった長期的変化の中でも、この都市は長らく生活の場として息づき、今日に至るまでクメール文化の中心象徴として記憶されています。

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成立背景—危機からの再編と王都の理念

アンコール・トムの建設は、12世紀後半の政治的危機に対する応答として理解されます。1177年、東方のチャンパー勢力が水路を利用してアンコール域を奇襲し、一時的に都を占領しました。この衝撃に対してジャヤヴァルマン7世は反攻に成功し、旧来の王都の枠組みを越える規模と理念をもった新しい城都の建設に着手しました。新都は単に防御を強化するだけでなく、王権の慈悲と徳を全土に行き渡らせる「公共事業国家」としての自己像を視覚化する舞台でもありました。彼は道路網の整備、宿駅(ダルマサーラー)や施療院(アーローガヤサーラー)の設置を各地に進め、首都アンコール・トムはそのネットワークの中心として位置づけられました。

王権理念の面では、従来のシヴァ神中心のデヴァラージャ(神王)思想に、大乗仏教的な救済観が重ね合わされました。ジャヤヴァルマン7世は観音(ロケーシュヴァラ)信仰に篤く、王は慈悲の化身として民を包摂するというイメージを強調しました。都市計画と寺院美術はこの理念を具体化し、城門の顔やバイヨンの多面塔は、王の視線=守護が四方へ注がれることを象徴しました。新都の建設は、政治的再統合と宗教的再解釈を同時に伴う大事業であり、アンコール文明の「第二の創造」とも評されます。

地理環境も新都構想を支えました。アンコール平野はトンレサップ湖の季節変動から恩恵を受ける肥沃な稲作地帯であり、周辺には既存の貯水池(バライ)や運河網が広がっていました。アンコール・トムの設計は、これらの水利と道路を結び直すことで、防御・物流・儀礼の三要素を兼ね備える構造を目指しました。大規模な堤防と濠は外敵に対する抑止であると同時に、都市内の水管理を調整する機能を持ち、城門の前に延びる参道は儀礼のプロセッションや徴発の動線として活用されました。

都市計画と建築群—城壁・城門・王の広場・王宮

アンコール・トムの城壁は、東西南北いずれも約3キロメートルの長さを持つ方形で、高さはおよそ8メートル級、外周を幅広い環濠が取り巻いています。城門は計五つで、南・北・西にそれぞれ一つ、東壁には「勝利の門」と俗に「死者の門」と呼ばれる二門が開かれます。各門には巨大な四面の顔を刻んだ塔が載り、前面には蛇神ナーガの胴体を挟んで阿修羅(アスラ)と神々(デーヴァ)が綱引きする像列が並ぶ参道が架け渡されています。この造形は、宇宙の乳海攪拌神話をモチーフに、都へ到る道そのものを宇宙的再生の儀礼空間として演出したものです。

城内の道路は幾何学的に整備され、中央のバイヨンを起点に東西南北へ直線道路が延び、各城門に接続します。道路は儀礼行列だけでなく、行政・軍事の移動、物資輸送を効率化し、都市の秩序と権威を視覚的に示しました。都市の東部には王の広場(ロイヤル・スクエア)が広がり、その西縁を王宮区が占めます。広場北側の「象のテラス」は、長い基壇の壁面に象の行列や軍隊、儀礼場面の浅浮彫をめぐらせ、王が閲兵や祝祭を行う高壇として用いられました。北東に連なる「ライ王のテラス」は、幾重もの彫刻帯をもつ層状の基壇で、蛇神ナーガや天部の像が密に刻まれています。名の由来である痩せた像は後代の置換や伝承が絡み、実際の用途は裁判・火葬・儀礼の場など諸説ありますが、いずれも王権の顕彰と可視化に関わる装置でした。

王宮区には木造を主体とする建物群があり、その中心にはピラミッド形のプラサートであるピメナカス(ピメアナカス)が鎮座しました。クメールの王宮建築は上部構造が木材であったため遺存性が低く、現在は基壇や敷地の石造部が主に残存します。王宮の南西には、11世紀建立の大寺院バプーオンがあり、のちに都市再編の中で周囲の街路や基壇が整備されました。バプーオンは当初シヴァ神に奉献されましたが、後代に大仏像(巨大な涅槃像的構成)を形成する改変を受け、宗教的重心の変化と再利用の歴史を物語ります。バイヨン、王宮、バプーオン、広場、テラス群は互いに視覚軸と動線で結ばれ、都市の中心部に王権と儀礼の劇場空間を形成しました。

城壁内には寺院や僧院、官庁的な施設、居住地、作業場が点在し、城外にも衛星的な寺院群と水利施設が広がりました。建材には砂岩とラテライトが用いられ、砂岩は細密な彫刻、ラテライトは基礎・城壁・道路の下地に適しました。都市の設計は、石と土、木と水という異なる素材の特性を活かして、恒久性と柔軟性を両立させています。水利は堀と運河、池の組み合わせで微妙な高低差を調整し、雨季と乾季の水位変動に対応しました。これにより、都市の衛生と防御、宗教儀礼の演出、農業と漁撈のリズムが統合されました。

王権表象と宗教—バイヨンの多面塔と慈悲の王

アンコール・トムの象徴たるバイヨンは、都市の幾何学中心に位置する国家寺院で、複雑な回廊構成と多数の塔を備えます。各塔の上部四方に微笑をたたえた顔像が刻まれ、その総数は200を超えるとも言われます(塔の崩落・補修により正確な数は一定しません)。この顔は観音(ロケーシュヴァラ)を表すと同時に、王の慈悲の遍在を示すとも解釈されます。すなわち、王は仏の徳を体現する者として四方を見守り、国土を救済する存在である、という理念が視覚化されているのです。

バイヨンの内外回廊には、乳海攪拌や天界・地上の物語に加えて、日常生活・市場・漁撈・戦闘・行列といった市井の情景が豊かに刻まれています。これらは単なる装飾にとどまらず、王国の繁栄と秩序、人民の活気を示す政治的図像としても作用しました。浮彫の構図は生き生きとしており、衣文や髪型、船や武器、楽器などの細部表現は、当時の技術・生活文化を知る一級の史料です。寺院配置の幾何と浮彫の物語性が重なり、都市空間は視覚叙事詩として機能しました。

宗教編成の変化もアンコール・トムを理解する鍵です。ジャヤヴァルマン7世は大乗仏教を厚く保護しましたが、13世紀以降、上座部仏教が広く浸透し、王権の神格化表現は相対化されます。寺院は仏教的儀礼に合わせて再解釈され、ヒンドゥー像と仏像が共存する状態が生まれました。バプーオンの仏教化や、既存寺院の再利用はその象徴です。他方、城門の顔やナーガ欄干などの要素は、宗教の変化を超えて都の権威と守護の象徴として長く受容されました。宗教の多層性は、都市の柔軟な適応力の源でもありました。

王の慈悲と公共事業は結び付けて語られます。ジャヤヴァルマン7世は全国に道路・宿駅・施療院を整備し、アンコール・トムはこれらネットワークの出発点でした。都市から放射状に延びる街道は、各地の寺院・市場・集落と結びつき、物資・人・情報の循環を促進しました。宗教施設は救済と教育の場であると同時に、徴発・税・労働動員の節点でもあり、王権と社会の接続面として機能しました。都市の宗教景観は、祈りと政治が不可分であった中世東南アジアの世界像をよく伝えています。

都市生活・経済・交通—見えにくい都市の実像とその後

アンコール・トムの内部は、石造建築以外にも大量の木造・土造の住居や作業空間が広がっていました。発掘や航空レーザー測量の成果により、街路に沿った区画、貯水池や池壇(プラットフォーム)、窯跡や金属加工の痕跡などが検出され、都市が日常の生産と居住の場であったことが浮かび上がっています。稲作は周辺平野の水利に依存し、都市内では庭園的農耕、果樹、魚養殖なども行われたと考えられます。トンレサップ湖の豊かな漁撈は市場を潤し、湖と都をむすぶ水運は人と物の流れを滑らかにしました。

経済活動は、寺院の寄進地や王領、貴族領の管理に支えられ、碑文には供給すべき米・油・蜂蜜・香木・塩・織物などの品目、職員・舞姫・楽師・僧侶・工人の名が列記されます。都市は分業と再分配の拠点であり、宗教儀礼のカレンダーに合わせて祝祭と交易が盛り上がりました。城門と街路は関税や見張りの機能を果たし、都の出入りは政治的に管理されました。外来商人は王の庇護のもとで活動し、陶器・金属器・布・香料・宝石などが流通しました。こうした複合的な経済と儀礼のサイクルが、都市の持続可能性を支えました。

防御面では、濠と城壁が第一の盾でしたが、それ以上に重要だったのは、遠隔地まで延びる道路・宿駅・監視の網です。周辺の拠点寺院は情報と軍事動員の基地でもあり、危機の際には兵站の節点として機能しました。都市の治安は、宗教的権威と行政的規律の両輪で保たれ、違反者に対する罰則や供犠の規程は碑文で明文化されました。城内の秩序は、王の「見える目」としての顔塔や、門で再演される宇宙神話によっても視覚的に補強されました。

アンコール・トムのその後については、15世紀頃に政治中心が漸次的に南方へ移り、都城としての機能は低下しました。アユタヤ勢力との抗争や、長期的な環境・社会の変化、水利施設の維持負担の累積など、複数の要因が相互作用したと考えられます。ただし、都市が突然に放棄されたわけではなく、宗教施設は地域社会の祈りの場として生き続け、巡礼・儀礼・小規模な居住が継続しました。後世の修復・再利用、仏教化の進展は、都市の柔軟な持続を示しています。近代に入ると遺跡保護の試みが進み、石造群は国家的象徴へと再定義されました。

アンコール・トムの理解には、「石の都」と「見えにくい都」を往復する視点が欠かせません。壮麗な寺院やテラスは権力と美の表舞台ですが、その背後には、土と木と水でできた日常のインフラと、人間の移動と生業のリズムがありました。城門の顔は、政治権力の目であると同時に、都市の住まい手自身が互いを見守る共同体のまなざしでもありました。アンコール・トムは、政治・宗教・環境・技術が重なり合って成立した生きた都市であり、現在もその重層的な時間が遺構の間を流れ続けています。