「アンナン(安南)」は、主として中国王朝やヨーロッパ列強がベトナム地域を呼ぶ際に用いた外名であり、時代と文脈によって指す範囲と意味が大きく変動する用語です。唐代の行政区画としての「安南都護府」に由来する呼称である一方、近代フランス領インドシナでは中部ベトナム(フエを中心とする地域)の保護国名として「Annam」が用いられました。日本の史料や教科書では、広く「ベトナム(特に北部~中部)」を指す古称として登場することがあり、用法の揺れがしばしば混乱のもとになります。本稿では、用語の成立、時代ごとの意味の差、冊封体制や植民地統治との関係、日本史との接点を整理し、誤解なく読み解くための基礎知識を提供します。
まず唐代の「安南」は、ベトナム北部を中心とする唐の辺境統治機構を意味しました。これが後世、中国側の対外呼称として定着し、独立後のベトナム王朝に対しても「安南国」「安南国王」といった表現が長く用いられます。しかし、ベトナム側の自称(国号)は時代により「大越」「大南」「越南」などと変化しており、双方の用語が必ずしも一致しない点に注意が必要です。さらに19世紀末、フランス語の“Annam”は行政上の固有名として「トンキン(北圻)」「アンナン(中圻)」「コーチシナ(南圻)」と並び立つ区分の一つとなり、同じ語形でも内容が異なる状況が生まれました。
日本においては、中世末から近世初頭にかけての銅銭流通や朱印船貿易の文脈で「安南」の名が広まり、近世後期から近代にかけては、漢籍・外交文書・新聞雑誌など多様な媒体でベトナム関連事項の総称として用いられました。もっとも、近現代史研究では、フランス植民地行政の「Annam」(中部ベトナム)と、中国的冊封関係における「安南」(広義のベトナム)を峻別して扱うのが一般的です。本稿の以下の節では、これらの背景を順に解説します。
用語の範囲と成り立ち
「安南」という漢字は、直訳すれば「南を安んずる」の意で、唐王朝が冊封・辺境統治の枠内で付した行政上の名称に由来します。唐代には「安東」「安西」など、征服・鎮撫の理念を帯びた地名が見られ、安南もその系列に位置づけられます。語源そのものは唐帝国の視点から生まれたラベルであり、土着の自称ではありませんでした。この点が、後世ベトナム側の国号や地域意識と齟齬を生む基層となります。
唐代以降、中国側の外交・礼部文書においては、ベトナム地域の王に対し「安南国王」の称号が与えられる慣例が長らく続きました。これは形式としては周辺王権を中華皇帝秩序の中に位置づける冊封体制の一環であり、現地の実質的な内政や自称の国号とは必ずしも一致しませんでした。例えば、李朝・陳朝・黎朝といったベトナムの諸王朝は、内政・文化において強い自立性を維持しつつも、対外儀礼では中国皇帝からの冊封を受け「安南国王」と記されることがありました。
一方、ヨーロッパ側の言語では、ポルトガル語やフランス語などで中国語の「安南」を転写・受容した語形が16~19世紀に広がります。とりわけフランス語の“Annam”は、19世紀末の仏領インドシナの成立とともに中部ベトナムの保護国名として定着しました。ここで注意すべきは、同じ“Annam”でも、近世以前の旅行記における漠然とした「ベトナム」指示と、植民地行政用語としての厳密な領域指示とが混在することです。歴史資料を扱う際は、いつの、どこの立場からの用語かを必ず確認する必要があります。
日本語の「アンナン」というカタカナ表記は、明治以降に欧文“Annam”の音写と、漢字「安南」の音読みが互いに影響しながら定着したものです。日本の教科書では、概説の便宜上「ベトナム(安南)」と補記される場合がありますが、近年は地域区分や時代固有の意味を踏まえたより厳密な表現が推奨されつつあります。
唐の安南都護府と中国支配の段階
唐は7世紀後半、ベトナム北部の旧来の行政単位である交州(交趾)を再編し、「安南都護府」を設置しました。都護府は辺境の軍政を統括する機関で、現地の有力者を取り込みつつ防衛と徴税を担いました。安南都護府の中心は紅河デルタ一帯で、唐の都から見て遠隔地であるがゆえに、軍政官の力量と現地社会の協力関係が安定の鍵となりました。都護府の設置は、帝国の制度的枠組みの中に北部ベトナムを組み込む試みであったと言えます。
9世紀には、南詔(のちの大理国の前身)による侵入や現地勢力の離反が相次ぎ、唐の支配は動揺しました。唐は反攻に成功して安南地域を奪回しましたが、その後は「静海軍(静海節度)」として再編し、軍事色の強い節度使による統治を進めます。こうした再編は、唐がこの地域を安定的に保持することの難しさと、周辺王権・山地勢力との力学の複雑さを物語っています。
10世紀に入ると、唐の弱体化と五代十国の混乱の中で、ベトナム北部では呉権(ゴー・クエン)らの指導のもとに自立の動きが強まり、決定的な転機として白藤江の戦いで南漢を破ったことが知られています。これを画期として北部ベトナムは実質的な独立への道を進み、丁朝・前黎朝・李朝・陳朝と王朝が継起しました。以後、中国王朝との関係は朝貢・冊封という儀礼的枠組みを通じて維持されつつも、内政面では自立化が進みます。「安南」という語は、中国側の外交・史書では存続したものの、現地の政治共同体は独自のアイデンティティと国号を育んでいきました。
明代初期には一時的に明の直接支配(いわゆる「交趾布政使司」の設置)が敢行され、ベトナムの政治共同体は深刻な危機に直面しました。しかし黎利(レ・ロイ)による抵抗戦と後黎朝の成立を経て、15世紀前半に再独立が達成されます。この過程でも、中国側資料には「安南」の語が現れ、冊封を通じて形式的な上下関係が再確認されましたが、現地の支配機構や文化は自生的な展開を続けました。
独立大越と冊封体制下の「安南」
中世~近世のベトナム王朝は、対外的には中国皇帝からの冊封を受けることで外交秩序に参画しつつ、国内では「大越」や「大南」といった自称の国号を採用しました。李・陳の時代には科挙や官僚制、朱子学の受容など、中国文明を参照しながらも独自の政治文化が形成されます。こうした状況下で、対外儀礼上の称号として「安南国王」が与えられることがあり、漢文世界の文書には「安南」の名が頻出しますが、これはあくまで中国側の秩序概念に即した表現でした。
近世後期、17~18世紀には鄭・阮の南北分裂(北の鄭氏=東京〈トンキン〉、南の阮氏=広南〈コーチシナ〉)が続き、地域間の政治・貿易圏が分立しました。ヨーロッパや日本の史料には、この時期のベトナムを指して「トンキン」「コーチシナ」「安南」といった複数の呼称が併存し、記述者の立場や接触した勢力によって語の使い方が異なります。たとえば日本の朱印船が往来したホイアン(会安)は南部の阮氏政権の港市であり、日本側の文書では「安南国」や単に「安南」と記される例が見られますが、これは「ベトナム(の一部)」を大づかみに示す便宜的な表記でした。
19世紀初頭、阮福映(嘉隆帝)が全国を再統一すると、清朝への国号申請をめぐって「南越(ナム・ヴィエト)」案と「越南(ベトナム)」案が調整され、結果として「越南」が用いられることになりました。のちに明命帝の時代には「大南」という国号が整備され、帝国儀礼や行政制度の内実が再編されます。それでも清朝や日本・欧米の文書には惰性的に「安南」が使われ続け、外称と内称のずれは存続しました。この二重性が、19世紀後半のフランス進出以降に、さらに複雑さを増すことになります。
冊封体制のもとでの「安南」は、国際秩序上の身分表示であると同時に、交易と外交の実利を得るための装置でもありました。周辺諸国は朝貢・勅命という儀礼を通じて正統性や通商権益を調達し、中国側も周辺統制の象徴として「安南国王」などの称号授与を活用しました。これを単純な服属関係とみなすのではなく、相互に利益を得る制度枠組みとして理解することが重要です。
仏領インドシナにおける“Annam”と日本史の中の安南
19世紀後半、フランスは段階的にベトナムに進出し、まず南部のコーチシナを直轄植民地として編入し、のちに北部のトンキンと中部のアンナンを保護国として再編しました。1887年には仏領インドシナ連邦が発足し、“Annam”は制度上「中部ベトナム」を指す固有名詞として位置づけられます。帝都フエは形式的に阮朝皇帝の居所として残されましたが、実権はフランスの在越高等弁務官や各地のレジデント・シュペリウールが掌握し、行政・司法・教育・徴税などの重要領域が植民地権力の管理下に置かれました。
この期の“Annam”は、地理的には北はハイバントンネル付近から南はビントゥアン方面へ続く細長い中部沿岸、山地のモンタニャール(高地少数民族)の居住圏を内包しつつ、皇帝の宮廷文化とフランスの統治機構が交錯する複合空間でした。植民地期の行政・統計・観光パンフレットや新聞雑誌では、“Annam”が民族名・人種表象としても使われ、「アナミット(Annamite)」という蔑称的ニュアンスを含む語法が広がりました。現代の研究と教育では、この語が差別的含意を持つ場合があることを明示し、安易な踏襲を避ける配慮が求められます。
文化・社会面では、フランス人宣教師や官吏が推奨したクオック・グー(越語ラテン文字表記)の普及が進み、科挙的な文治主義を支えた漢字文化は徐々に後退しました。阮朝の科挙は1919年に停止され、宮廷権威の象徴的性格が強まる一方で、民族運動や近代的知識人層が台頭します。こうした潮流は、第一次世界大戦後の国際環境の変化や社会経済の再編と相まって、1930年代の各種運動や第二次世界大戦期の独立宣言へと接続していきました。
1940年代前半、日本軍の進駐と1945年3月の仏印武力解体を経て、阮朝の保大帝は名目的主権を回復して「ベトナム帝国」を称しましたが、同年の八月革命によりホー・チ・ミンらが独立を宣言し、以後のインドシナ戦争の過程でフランスの保護国としての“Annam”は事実上消滅していきます。戦後の再編で成立した「ベトナム国」(バオ・ダイ政権)やのちの南ベトナム・北ベトナムの枠組みでは、“Annam”は歴史用語としての地位に退きました。
日本史との関係では、「安南」は中世~近世の経済・文化の文脈でもしばしば登場します。室町末から江戸初期にかけて、東アジア銭貨の流通においてベトナム産の鋳銭が「安南銭」などの名で日本の雑銭市場に流入し、地方流通や寺社の納入銭として用いられることがありました。また、朱印船時代には、南部政権(阮氏)が支配したホイアンを舞台に日本町が形成され、日本製品(銀・硫黄・刀剣・漆器)とベトナム・東南アジア産品(生糸・砂糖・沈香・陶磁)の交換が活発化します。これらの交流は、江戸初期の海域アジアにおける日本の交易圏拡大と、ベトナム側の港市社会の発展を象徴する出来事でした。
さらに、日本の知識人・地理書においても「安南」の表記は普及しました。蘭学や地理学の受容を通じて、ヨーロッパ語由来の地名体系(トンキン/コーチシナ/アンナン)と、漢籍由来の地名(交趾/安南)が交錯し、近代日本の海外認識の中に多層的な名称体系が併存する状況が生まれました。今日、史資料を読む際には、文書の出自と年代、用語体系の背景を突き合わせて初めて、そこに書かれた「アンナン」が何を指すのかを的確に復元できると言えます。
総じて、「アンナン(安南)」は単なる別称ではなく、唐帝国の辺境統治から清代の冊封秩序、さらにフランスの植民地編制に至るまで、外部権力がベトナム地域に付したラベルの歴史を映し出す言葉です。同じ語形でも、ある時は紅河デルタ中心の唐の軍政区を、またある時はフエ宮廷を戴く中部ベトナムの保護国を指すなど、意味領域が大きく異なります。用語の背後にある政治的・制度的意図を読み取り、文脈に応じて精密に使い分けることが、歴史叙述の精度を高めるうえで不可欠です。

