インド帝国とは、一般に1858年に東インド会社統治が終結して王冠統治へ移行してから、1947年のインド・パキスタン分割独立に至る英領インドの国家体制を指す語です。狭義には1876年にヴィクトリア女王へ「インド女帝(Empress of India)」の称号が付与され、以後のイギリス君主が「インド皇帝(女帝)」を兼ねた時期の政治体制と、その広大な領域—直轄州と多数の藩王国—の総体を意味します。首府はカルカッタ(コルカタ)に始まり、1911年の決定を経て1931年にニューデリーが正式開庁しました。人口は数億に達し、行政・司法・軍事・インフラが統合的に運営される巨大な植民地国家でした。他方で、その内部は英直轄領と約560前後の藩王国というモザイクで構成され、宗主権・条約・儀礼・勲章・統計・地図といった「帝国の技法」によって束ねられていました。本稿では、成立経緯と用語の射程、統治・法制度と連邦構造、経済・社会とインフラ、外交・軍事と終焉という観点から、インド帝国の実像をわかりやすく整理します。
成立と用語の射程:王冠統治、女帝号、モザイクとしての帝国
1857年の大反乱は、会社統治の矛盾を露呈させ、翌1858年のインド統治法により統治は国王(女王)名による王冠統治に移行しました。ロンドンにはインド省(India Office)が設けられ、その長であるインド相がデリー(当初はカルカッタ)の副王政府に対し最終指揮権を持つ構造が生まれます。1876年、保守党政権の下で「王号法(Royal Titles Act)」が制定され、ヴィクトリアは「インド女帝」の称号を帯びました。以後、ジョージ6世が1948年に称号を放棄するまで、イギリス君主は「王・皇帝(女王・女帝)」の二重の肩書を有し、貨幣・印章・勲章・対外文書にその威信が刻まれました。
インド帝国の領域は、大きく英領直轄州(British India)と、条約によって宗主権(パラマウンシー)下に置かれた藩王国(Princely States)に分かれていました。直轄州はベンガル、ボンベイ、マドラス、パンジャーブ、ユナイテッド・プロヴィンシズ、ビハール&オリッサ、中央州、アッサムなどの行政単位で構成され、知事・州評議会が置かれます。藩王国は大小さまざまで、ハイダラーバード、マイソール、ジャイプル、バローダなど有力藩から小領までが連なり、外交・防衛・通信・鉄道などで副王政府の監督を受けつつ、内政の相当部分で自治を保持していました。帝国は単一の領土国家というより、直轄と藩王領の連結から成る「重層的秩序」でした。
帝国の象徴政治も重要でした。1877年・1903年・1911年に開かれたデリー・ダーバール(大閲兵)では、藩王と官僚・軍が一堂に会し、忠誠の儀礼と叙勲が行われました。1911年のダーバールでは国王夫妻が実際に臨席し、首都をカルカッタからデリーへ移すことが宣言され、新都ニューデリーの建設が始まります。貨幣の銘文(IND IMP)や勲章(スター・オブ・インディア、インディアン・エンパイア勲章)、宮廷の儀礼語彙(ペルシア語・ウルドゥー語の「カイサル=イ=ヒンド」)は、帝国の統合を象徴する装置でした。
統治構造と法制度:副王政府・評議会・藩王統御
インド帝国の中枢は、副王(Governor-General and Viceroy of India)を長とする副王政府でした。副王の下には内務・財政・公共事業・教育・通信などを分担する執務評議会(Executive Council)が置かれ、法令制定は副王立法評議会(のち二院制に近い構え)を通じて行われました。ロンドンのインド省は、財政・軍事・人事・条約など戦略領域で最終判断を下し、海底電信の発達とともに「本国—現地」の往復指令は迅速化されました。
司法面では、インド刑法典(IPC, 1860)をはじめとする法典化が進み、プレジデンシー高等法院を頂点に裁判体系が整備されます。統一された法手続き・証拠法・刑事手続は、在地慣習と英法を接合しつつ、帝国内での「法の可視化」を進めました。治安は警察と特別支部が担い、出版・集会・結社の規制が政治運動に影響を与えます。行政の最末端では、ディストリクト・コレクター(区長/治安判事)が徴税・治安・司法補助・公共事業を一体的に担当し、インド文官(ICS)がその中核を担いました。
政治改革は段階的に進められました。1909年のモーレー=ミントー改革は立法評議会の拡大と宗派別選挙区の導入を行い、1919年のモンタギュー=チェルムスフォード改革は、州レベルに「二元統治(dyarchy)」を導入して教育・保健などの分野を選挙に基づく大臣へ移譲しました。1935年インド統治法では州の責任内閣制が大きく前進し、1937年選挙で多数の州政府がインド人の手に委ねられます。ただし、外交・防衛・主要財政は副王—インド省が握り続け、非常権限や条例制定権が改革の上限を画しました。
藩王国統治では、レジデント(駐在官)と条約を通じて宗主権を行使し、継承・婚姻・歳出・鉄道敷設・軍事貢献などを勅許・協定で管理しました。藩王の合議機関として「藩王院(Chamber of Princes)」が1921年に設置され、儀礼と合意の場が用意されます。これにより、帝国は行政一体化だけでなく、儀礼・法的契約・象徴秩序の層でも維持されました。
経済・社会とインフラ:鉄道・灌漑・通貨・飢饉、統計と国勢調査
インド帝国の経済運営は、歳入・関税・専売、そして帝国財政への送金(いわゆるホーム・チャージズ)を柱としました。鉄道に対する利子保証、軍事費、官吏年金、対外債務の利払いなどが本国との資金循環を形成し、経済は世界市場の動揺に敏感に反応しました。通貨は長く銀本位制に依拠し、銀価格や為替の変動は貿易・物価に波及しました。
19世紀後半から20世紀にかけて、鉄道網と運河・灌漑が急速に整備され、産地と港を結ぶ物流と軍事展開の動脈が形成されます。鉄道は市場統合と都市化を促し、農産物・鉱産資源の輸出が拡大する一方、在来の手工業と地域経済に負の影響も与えました。公共事業省は港湾・灯台・道路・橋梁、郵便・電信の整備を進め、行政・企業・軍の活動を支えました。教育ではカルカッタ、ボンベイ、マドラスの大学を軸に高等教育が展開し、官僚・法曹・教師・医師などの近代エリート層が育成されます。
帝国は「数える」ことで社会を統治しました。国勢調査(1872年以降の定期化)、土地台帳、耕地・収量統計、死因統計、疫病報告、地理測量、地籍図が行政判断の基礎となり、統計局やサーベイ・オブ・インディア(測量局)、考古局(ASI)が専門知を供給しました。宗教・言語・カースト分類は、行政の便宜と政治動員の双方に影響し、後世の政治地図に長い影を落とします。
飢饉と公衆衛生は帝国の脆弱点でした。19世紀末から20世紀初頭にかけて幾度も大飢饉が発生し、帝国当局は飢饉委員会の勧告に基づく公食・救貧事業・運賃補助を整えたものの、自由放任や財政規律の重視から対応が遅れ、甚大な人的被害を招いた例も少なくありません。1943年のベンガル飢饉は、米の移送・備蓄・物価統制・軍需優先の失策が重なった惨禍として記憶され、帝国統治の倫理と能力を厳しく問う出来事となりました。都市では疫病対策(水道・下水・衛生法規)と住宅問題が慢性的課題となり、農村では灌漑・用水と土地制度が生活の基盤を規定しました。
社会は多言語・多宗教・多カーストのモザイクで、帝国は「宗教的不干渉」を標榜しながら、教育・司法・個人身分法の領域で宗教共同体の境界を制度化しました。宗派別選挙区や少数派保護の枠は、代表性と分断の双方をもたらし、政治運動の言語を変えていきます。都市の公共圏—新聞・印刷・劇場・サロン—は民族運動と結びつき、スワデーシー(国産愛用)や不服従運動の舞台になりました。
外交・軍事と終焉:世界大戦、非同盟の萌芽、分割独立
インド帝国は軍事・外交の要として帝国戦略に組み込まれていました。英印軍はアフガニスタンや北西辺境での作戦、チベット遠征、第一次世界大戦・第二次世界大戦での海外派兵に動員され、兵站と財政の負担が社会にのしかかりました。戦時には配給・物価統制・検閲が強化され、政治空間は窮屈化しますが、同時に兵士・労働者・農民の政治化が進み、戦後の自治要求の高まりにつながりました。
20世紀前半、民族運動は請願から大衆動員へと質的転換を遂げ、1919年のローラット法反対とアムリトサルの惨劇、1930年の塩の行進、1942年の「インド退去(クィット・インディア)」運動を経て、帝国の正統性は大きく揺らぎます。イギリス側は1917年の「自治の約束」以来、1919年・1935年の改革や、戦時のクリップス提案などで権限移譲の道筋を示しましたが、最終主権はなお王冠側に残されました。
第二次大戦後、海軍反乱(1946年)や労働争議が象徴する社会動員、宗派間暴力の拡大、国際世論の変化の中で、キャビネット・ミッションが制憲への枠組みを提示し、1947年8月にインド連邦とパキスタンが分割独立します。インド帝国は制度上解体され、ヴィクトリア以来の「皇帝/女帝」号も1948年に放棄されました。ニューデリーの官庁街や鉄道・測量・司法・大学は再編を経て新国家に継承され、1950年にはインド憲法が施行されて共和制が確立します。帝国の遺制—行政・法・インフラ・統計—は、独立国家のガバナンスの基盤であると同時に、克服すべき植民地性の記憶としても残りました。
総じて、インド帝国は「法・官僚制・インフラ・儀礼・統計」を束ねた巨大な管理国家として成立し、直轄と藩王領のモザイクを宗主権で束ねつつ、近代化と収奪、改革と抑圧という二重性を内包していました。帝国は世界大戦と民族運動の波にさらされ、段階的改革と象徴政治の双方で延命を図りましたが、最終的には主権の脱植民地化の流れに抗しきれませんでした。その実像をつかむには、制度と儀礼、財政と社会、都市と農村、直轄と藩王の交差点を同時に見る視線が有効です。インド帝国の歴史は、近代世界の「帝国と国民国家」のせめぎ合いを内側から映す鏡でもあるのです。

