インドネシア共和国独立 – 世界史用語集

インドネシア共和国独立とは、1945年8月の独立宣言から、1949年12月の主権移譲に至るまで、植民地体制から主権国家へ移行した政治・軍事・外交の複合過程を指します。日本の降伏直後にスカルノとハッタが独立を宣言し、青年(ペムダ)や旧日本軍の義勇組織出身者、都市と村の人々が「革命(インドネシア独立戦争)」として独立を支えました。他方、オランダは連合軍の後ろ盾を得て復帰を図り、停戦と再戦を繰り返しながら軍事作戦と交渉で共和国を揺さぶりました。スラバヤの戦い、リンガジャティ協定、レンヴィル協定、二度の「軍事行動(ポリティエ・アクシー)」、国連の関与とハーグ円卓会議を経て、1949年に主権が移譲されます。独立は歓喜の瞬間だけでなく、数年にわたる戦闘・外交・国内政治のせめぎ合いの総体だったのです。

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独立宣言と「革命」の始動:1945年8月—11月

1945年8月15日の日本の降伏は、オランダ領東インドの政治空間を一変させました。青年組織(ペムダ)の急進派は即時独立を主張し、スカルノとハッタに急いで宣言するよう迫ります。8月17日、二人はジャカルタのスカルノ邸前で独立を宣言し、簡潔な文言の「宣言書」とともに共和国の誕生を内外に告げました。翌18日には「1945年憲法」が採択され、スカルノ大統領、ハッタ副大統領の体制が発足します。各地では連絡委員会や民兵が行政と治安を引き継ぎ、国旗掲揚・ラジオ放送・新聞発行・学校の再開が相次ぎました。

一方で、現場の秩序は波乱含みでした。連合国のうち英印軍が捕虜救出と治安回復の名目でジャワ・スマトラに上陸し、オランダ植民地当局(NICA)の復帰を支援します。武装解除を免れた旧日本軍の武器が各地で奪取・流通し、青年や治安部隊(PETA解散後の元隊員、警察予備など)が武装します。こうして、政治宣言と同時に「武器を持つ独立」が事実上スタートしました。

象徴的転回点が、東ジャワのスラバヤの戦いです。1945年9月末から英印軍の進駐をめぐって緊張が高まり、10月末に英国将官マロビーが武装解除命令を出すと、激しい市街戦へと発展しました。11月10日、英印軍が大規模攻勢をかけ、砲兵と空爆で市街を制圧するまでの数週間、地元の民兵・若者・宗教指導者が抵抗の中核を担い、多数の犠牲者を出しました。「11月10日」はのちに英雄の日として記憶され、共和国の抵抗意志を象徴する出来事となります。

交渉と再戦の螺旋:リンガジャティ協定、レンヴィル協定、二度の軍事行動

共和国政府は、正規軍(TNI=インドネシア国軍)の整備と並行して外交の窓口を広げました。1946年末、ジャワ・スマトラに限った共和国支配を認めるかたちで、オランダと「リンガジャティ協定」が成立します。これは〈共和国をインドネシア合衆国内の一構成体〉とし、ボルネオや東部群島にはオランダ主導の自治地域を温存する折衷案でした。協定は国内の強硬派に弱腰と映り、現場の小競り合いは収まりません。

1947年7月、オランダは「第一軍事行動(Operatie Product)」を発動し、共和国領の経済要地—プランテーションと港湾—を制圧にかかります。国際世論の反発と国連安全保障理事会の関与を受け、停戦が模索されました。1948年1月には米艦レンヴィル上で「レンヴィル協定」がまとめられ、実効支配線(いわゆるファン・モーク線)が画定されますが、共和国側にさらに不利な内容で、政局は一段と不安定になりました。地方では飢饉や物流障害が深刻化し、国内の対立—マシュミ(イスラーム系)や左派の動向—も緊張を高めます。

1948年末、オランダは「第二軍事行動(Operatie Kraai)」を敢行し、共和国の首都ジョグジャカルタを急襲、スカルノ・ハッタら指導部を拘束しました。政府中枢の機能停止を狙ったこの作戦に対し、スマトラ西部でシャフルッディン・プラウィラネガラが非常政府(PDRI)を樹立し、国内外に共和国存続を宣言します。地方のゲリラは鉄道・橋梁・通信を攪乱し、行政と兵站の基盤を揺さぶりました。国際的には、国連の〈インドネシア問題に関する調停委員会〉(後に国連インドネシア委員会=UNCI)が停戦・仲介に動き、米国は対蘭世論と経済援助のてこを通じて圧力を強めます。

国際化と主権移譲:停戦、円卓会議、RISから単一共和国へ

1949年半ば、国際圧力とゲリラの持久に直面したオランダは停戦に応じ、指導者の釈放とジョグジャカルタへの政府帰還が実現します。8月には停戦が正式化され、主権移譲の具体設計を詰めるため、秋にオランダのハーグで「円卓会議」が開かれました。会議は、〈オランダからインドネシア合衆国(Republik Indonesia Serikat, RIS)への主権移譲〉、〈債務と資産の整理〉、〈オランダ—インドネシア連合〉などの枠組みで合意に至り、1949年12月27日に主権が移譲されます。長い植民地時代は、法的に終止符が打たれました。

ただし、移譲の形は〈連邦制〉でした。RISは共和国ジャワ・スマトラ中核の「共和国」構成体に、ボルネオや東部群島の諸「州」を加えたモザイクで、オランダは自ら影響力を残そうとしました。ところが、翌1950年にかけて連邦各地で単一国家への移行を求める運動が広がり、連邦は急速に解体の方向へ進みます。1950年8月、RISは憲法改正を経て「インドネシア共和国(単一国家)」へ移行し、スカルノ—ハッタの下で議会内閣制が再出発しました。なお、西イリアン(西ニューギニア)だけはオランダが保持し、1962年まで未解決の懸案として残ります。

国内の再編と国家建設:軍・行政・経済・社会の現実

独立はゴールではなく、国家建設の始まりでした。まず軍は、革命期の多様な民兵・地方部隊・元PETA・海軍義勇兵・警察を整理して正規化し、指揮系統・補給・軍法会議を整備する必要がありました。軍の自律性はその後の政治に影響力を持ち続け、地方反乱(スマトラ・スラウェシのPRRI/Permesta)や外征(西イリアン、対マレーシア「コンフロンタシ」)の舞台となっていきます。

行政は、日本占領期に導入された地方行政と教育・衛生の枠組み、植民地の官僚制を再編して継承しました。官僚の不足、言語と識字、地理的分散という多島国家の難題は、郵便・鉄道・港湾・電信の復旧と、学校・医療の拡充によって徐々に補われます。司法では、植民地期の法体系と新法の整合を図り、政令・省令と実務のギャップを埋める作業が続きました。

経済面では、戦闘と封鎖で痛んだプランテーション・鉱業・製糖・港湾を再建し、通貨・銀行の安定化、物価と配給、土地問題の調整が喫緊課題でした。共和国は、国営企業の拡充と民間の活力の両立を探り、外資との関係や貿易の多角化を模索します。農村では、地代・小作・開墾、用水の管理が政治課題化し、後年の土地改革論争と結びついていきました。

社会では、革命の動員で政治化した若者・女性・労働者・農民が、市民としての権利と生活の向上を求め始めます。宗教・民族・地域の多様性を抱える社会で、言語(インドネシア語)を軸とする教育・メディアの拡充が、国家統合の文化的基盤となりました。英雄の記憶—スラバヤやジャワ内陸の戦い、スマトラの抵抗—は、記念日・モニュメント・教科書の物語として共有され、国家物語の核を成していきます。

外交と国際秩序の中の独立:国連、アジア・アフリカ、冷戦のはざまで

独立過程で国連の調停が重要な役割を果たしたことは、その後の外交姿勢にも影響しました。インドネシアは早期に国連に加盟し、アジア・アフリカの新興独立国と連帯を深めます。1955年のバンドン会議は、反植民地主義、平和共存、経済協力の旗印を掲げ、新しい国際秩序の理念を提示しました。他方で、冷戦の緊張は国内政治に影を落とし、軍・民族主義・宗教・左翼の力学が国際関係と交錯します。西イリアンや「コンフロンタシ」での強硬外交は、主権と領土をめぐる執念と、地域秩序の再編を志向する姿勢の両方を示しました。

まとめ:宣言から主権へ、そして国家建設へ

インドネシア共和国独立は、1945年の宣言という起点から、都市と村の抵抗、外交と国際世論、停戦と再戦、連邦から単一国家への移行という段階を踏んで、ようやく「主権の獲得」に至りました。その後は、軍・行政・経済・社会を再編する長い国家建設の道が続きます。独立を学ぶ際には、スカルノとハッタという指導者の物語だけでなく、ペムダや地域の民兵、農村と都市の人びと、国連と諸外国の関与、法と行政の手続きという地味だが決定的な層を、あわせて見ることが大切です。そうすることで、独立が「瞬間」ではなく「期間」であり、革命が軍事・外交・制度づくりの交差点にあったことが見えてきます。