英仏協商 – 世界史用語集

英仏協商(えいふつきょうしょう、Entente Cordiale)とは、1904年にイギリスとフランスが複数の協定・宣言を束ねて締結した包括的合意の呼称で、長年の植民地競合と外交的不信を整理し、両国が相互に優先利益を認め合うことで摩擦の火種を処理した取り決めを指します。とりわけイギリスのエジプト支配と、フランスのモロッコにおける優越的地位を相互に承認したことが柱であり、加えてニューファンドランドの漁業権問題、西アフリカの境界画定、シャム(タイ)をめぐる勢力範囲のすり合わせなど、細目の清算を同時に進めた点に特色があります。英仏協商は同盟条約のように軍事的義務を規定するものではありませんでしたが、実際には両国政府・参謀本部間の協議と相互期待を強め、1907年の英露協商へと連なって三国協商(英仏露)の枠組みを生み、第一次世界大戦前夜の勢力均衡を大きく塗り替えました。さらに、1905~06年・1911年のモロッコ危機を経て、英仏の結束は具体的な安全保障協力へと深まり、やがて戦時の連合体制の基礎へと転化していきます。英仏協商は、競合を「管理」しつつ相手の核心利益を尊重することで、対独牽制の実効性を高めた、20世紀初頭の柔らかな外交装置だったのです。

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成立の背景と合意の中身

19世紀末の英仏関係は、アフリカ・アジア・太平洋各地での衝突の連鎖によって疲弊していました。象徴的なのが1898年のファショダ事件で、スーダン奥地で英仏の探検・軍事行動が正面からぶつかり、開戦一歩手前まで緊張が高まりました。この経験は、海軍力に勝るイギリスにとっても、対独競争を視野に入れ始めていたフランスにとっても、無益な消耗の記憶として残ります。20世紀初頭、英はボーア戦争を経て大陸案件に深入りする余力に限界が見え、仏はドイツの脅威を前に英との不必要な争点を解消したいという利害が一致しました。

1904年の英仏協商は、複数文書から成る「パッケージ合意」でした。第一に、エジプト・モロッコ相互承認です。イギリスは1882年以来のエジプト実効支配を、フランスが政治的に是認する代わりに、イギリスはモロッコにおけるフランスの改革・行政整備の主導権を妨げないことを確認しました。もっとも、モロッコの完全併合を直ちに許すのではなく、国際的利害(とくにスペインの利害)に配慮しつつ、フランスの主導的役割を事実上容認する段取りでした。第二に、ニューファンドランドのいわゆる「フレンチ・ショア」問題の解決で、フランスが長年保持してきた沿岸の特別漁業権を放棄する代わりに、イギリスが仏に西アフリカの一部国境調整(ガンビア周辺・ニジェリア境界の細部)で譲歩を与えるなど、アフリカの線引きを細かく修復しました。第三に、東南アジアではシャム(タイ)の独立維持を前提にしつつ、メナム流域の西側(英領ビルマ・マレー方面に近い側)を英の影響圏、東側(仏領インドシナに近い側)を仏の影響圏とみなす了解を交わし、無用の軋轢を避ける設計としました。

この合意は、同盟条約ではないために「参戦義務」や「軍事指令系統の統合」はうたわれませんでした。しかし、相手の核心利益を可視化し、外交の無駄な発火点を消していくことで、豪州・インド洋から地中海・北海に至るまで英仏の利害調整が進み、対独関係での協力が実質化します。海軍・陸軍の参謀協議が非公式に開始され、平時から輸送路・動員計画・上陸地点の擦り合わせが静かに進んでいきました。

モロッコ危機と協商の「実戦化」

英仏協商の真価が試されたのが、1905~06年と1911年の二度にわたるモロッコ危機でした。1905年、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世がタンジールを訪問し、モロッコの独立を公に擁護してフランスの影響力拡大に楔を打ち込もうとしました。これは仏を外交的に孤立させ、協商の足並みを乱す意図を帯びていました。ところが英政府は、フランスのモロッコ改革計画に一定の正当性があると主張し、国際会議(翌年のアルヘシラス会議)において仏を支持する立場に回りました。会議の結論は、形式的にはモロッコの主権と門戸開放を確認しつつ、警察整備などで仏西の役割を認める内容で、独の狙いは不首尾に終わります。

1911年の第二次モロッコ危機(アガディール事件)では、フランスが内乱鎮定や治安維持を名目にモロッコへの介入を強めたのに対し、ドイツが砲艦をアガディールへ派遣して圧力をかけ、補償としてコンゴの一部を要求しました。英はドイツの示威行動を通商・海上権益への脅威と捉え、海軍を動かして仏への政治的支援を明示し、金融面でもロンドン市場の力を背景に独側の揺さぶりに対抗しました。最終的に、フランスはモロッコ保護国化(1912)へ進み、代償としてフランス領コンゴの一部をドイツ領カメルーンに割譲する妥結を受け入れ、独は政治的成果を限定的にとどめることになります。この一連の危機対応を通じ、英仏は相互の行動計画を具体化し、参謀間の連絡は戦時動員の前提へと発展しました。

英仏協商は、危機を利用して相互の「期待値(エクスペクテーション)」を調整したとも言えます。すなわち、英は仏が大陸で独を抑える拠点となることを前提に、海上での制海権・輸送の安全を保証し、仏は英の帝国的動員に呼応して陸上での戦力を整える、という暗黙の役割分担が芽生えたのです。協商は条約義務ではないがゆえに柔軟で、しかし実務は同盟に近い緊密さを帯びるという、当時特有の「しなやかな安全保障」の実践でした。

帝国秩序の再編と周辺地域への波及

英仏協商のもう一つの顔は、帝国秩序の再配置です。エジプトでの英の自由度は大きく高まり、財政・行政・運河(スエズ)運用に関して、仏からの政治的牽制が薄まりました。これは英印航路・地中海戦略に直結する利益であり、のちの第一次大戦期の中東戦域運用にも影響します。他方、モロッコではフランスが治安・司法・開発の名で保護国化を推し進め、港湾・鉄道・鉱山開発を本格化させました。協商は、門戸開放の名目と列強の勢力圏管理という相反する原理を併せ持ち、商務・金融・移民・教育など多方面で「仏主導・英協力」のモデルを形づくりました。

ニューファンドランドの漁業権問題は、フランスが「沿岸での特権的操業・施設利用」を段階的に整理・放棄する一方で、英が仏に対して他地域の国境調整で譲歩するという、見返り型の解決が採用されました。これにより、北大西洋での英漁業・海運運用の障害が減少し、仏もアフリカの行政区画を連続的に接続できる利点を得ました。西アフリカでは、英領ガンビアの回廊的領形と仏領セネガル・フランス領西アフリカとの接線で細かな境界整理が進み、ニジェリアと仏領ダホメー(ベナン)、ニジェール流域の線引きでも微修正が行われました。これらは現地社会にとってはしばしば恣意的で、民族・商圏の一体性を切断する副作用を伴いましたが、列強側は「安定的行政」の名で合理化しました。

東南アジアでは、シャムの存立を温存しながら周辺に列強の勢力圏を配するという「緩衝国家」構想が再確認されました。英はビルマ・マラヤ方面への連続性を、仏はインドシナ半島の背後地をそれぞれ確保し、シャムに対しては鉄道・関税・租借といった制度的手段で経済的影響力を行使する枠組みが整いました。これにより、露骨な軍事衝突は回避されましたが、シャムの主権は実質的に制約され、国内改革は列強の利害調整の中で進むことになりました。

太平洋でも協調の萌芽が見られます。ニューへブリディーズ(現バヌアツ)では、英仏が長年競合していた移民保護と土地所有の問題に対し、1906年に共同統治(コンドミニアム)を導入しました。これは英仏協商の直接条文ではありませんが、協商精神の延長として、列強間の摩擦を法的枠組みで管理する試みの一例です。共同統治は行政の複雑さと非能率で悪評もありましたが、武力衝突回避という目的には一定の効果を示しました。

軍事・外交運用の進化と第一次世界大戦への接続

英仏協商は、条約義務なき「協議の累積」によって安全保障を実体化させていきました。陸軍面では、仏参謀本部と英陸軍省の間で、英海外派遣軍(BEF)の投入規模・展開経路・鉄道輸送・上陸港(ル・アーヴル、ブーローニュなど)の候補、通信暗号・補給品目の互換性といった技術的項目が逐次すり合わされました。海軍では、北海・大西洋の分担、地中海における仏海軍の比重増加と英地中海艦隊の再配置など、暗黙の役割交換が模索され、通商護衛・封鎖・機雷戦に関するドクトリンが近づいていきます。1912年前後には、政治的には明文化されないものの、実務上は同盟に準ずる協力網が整い、危機時に即時運用できる水準まで成熟しました。

この柔らかな連携は、1914年7月危機において即時性を発揮します。サラエヴォ事件後の連鎖的動員の中で、英政府の参戦決定はベルギー中立侵犯という法的名分を得てからですが、参謀間の事前接続があったからこそ、BEFは短期間でフランス北部へ輸送され、マルヌ会戦の序盤段階に間に合わせることができました。協商は「同盟ではないが同盟並みの運用」を可能にし、政治判断が下りた瞬間に軍事技術・物流・金融が自動的に連動する体制を支えました。

ただし、英仏協商には限界もありました。第一に、対独抑止の心理的効果はあったものの、ドイツの戦略計算(シュリーフェン計画的な西方速決構想)を根本から変えるほどの拘束力はありませんでした。第二に、協商の対価として植民地の再配分・勢力圏の固定が進み、現地社会に境界線の切断や資源収奪の構造を強いたことは否めません。第三に、英国内の「光栄ある孤立」の伝統と、仏国内の対独強硬論・国内政治の分裂は、協商を常に政治的駆け引きの材料にし、統一的な大戦略の形成を妨げる場面もありました。

それでも、英仏協商は、19世紀型の露骨な帝国競争から、20世紀型の「管理された競合」へと舵を切る試みであり、相互承認の名の下に、衝突のコストを下げつつ第三者(この場合はドイツ)の行動空間を狭めるという、バランス・オブ・パワー外交の新段階を体現しました。英仏両国は、法的同盟の硬直性を避けながら、実務の積み重ねで同盟に匹敵する効果を引き出すことが可能であると示したのです。英仏協商はその後の英露協商と結び、三国協商として第一次世界大戦前夜の国際秩序を規定する枠組みとなりました。