英仏通商条約とは、1860年にイギリスとフランス第二帝政(ナポレオン三世)が結んだ関税引下げ・最恵国待遇(MFN)を骨格とする通商条約の通称で、英側の交渉代表リチャード・コブデン、仏側の経済学者ミシェル・シュヴァリエの名から「コブデン=シュヴァリエ条約」とも呼ばれます。イギリスが穀物法廃止(1846)と航海法廃止(1849)で自由貿易へ転じた流れを、対仏二国間の協定で大陸に波及させた点に画期があり、葡萄酒・絹・綿製品・鉄鋼など主要品目の関税が段階的に引き下げられました。条約に付された最恵国待遇条項は、後続の英—ベルギー、仏—イタリアなどの条約群へ波及して「1860年代の関税自由化ネットワーク」を形成し、欧州の商工業・消費・財政・外交に長期の影響を与えました。国内では、英でグラッドストン財政改革と結び、仏では保護派との激しい論争を呼びましたが、短期的には貿易量を拡大し、産業構造の調整を促す結果をもたらしました。
成立の背景:保護から自由へ、政治と経済の接続
19世紀前半の欧州は、ナポレオン戦争後の保護主義的関税と、国家主導の産業育成政策が一般的でした。イギリスでも穀物法が国内農業に高関税の保護を与え、航海法が海運と植民地貿易を囲い込んでいました。しかし、工業化の進展と都市労働者・消費者の台頭、マンチェスター学派の自由貿易論の浸透により、1846年に穀物法が廃止され、1849年には航海法が撤廃されました。こうして英国は原料を安く輸入し、工業製品を輸出する自由貿易国家へと舵を切ります。
一方のフランスは、七月王政期から第二共和国、第二帝政へと政体が揺れる中で、伝統的な保護関税が強く、絹織物・鉄鋼・木綿などの製造業者団体や商工会議所が関税維持を求めていました。ナポレオン三世は経済近代化を看板に掲げ、鉄道・金融改革・パリ改造を進めるなかで、対英関係の改善と輸入品の低価格化による都市消費者・港湾商人への利益配分を狙います。国内の保護派を正面から刺激しないため、彼は議会審議を経ない「条約外交」によって関税改革を先行させ、国内制度の書き換えを条約履行の名で押し通すという政治技法を採用しました。
この文脈で登場するのが、自由貿易の旗手コブデンと、サン=シモン主義の流れを汲む工業主義者シュヴァリエです。二人は、鉄道・通信網の整備と関税障壁の撤廃こそが欧州の平和と繁栄をもたらすとの信念を共有し、ナポレオン三世と英内閣(パーマストン政権、財政ではグラッドストン)を説得して交渉をまとめました。国際政治的には、クリミア戦争後の英仏協調を経済面で定着させ、対独・対露の勢力均衡においても英仏連携の糸を太くする狙いが背景にありました。
条約の中身:関税引下げ・禁輸撤廃・最恵国待遇
1860年1月に署名された条約は、数年の履行期間を設けて段階的に関税を引き下げる仕組みでした。核心は次の三点に要約できます。第一に、仏の輸入禁制・高関税の撤廃/引下げです。フランスは従来の禁輸(プロヒビション)を原則廃止し、多くの工業製品に上限関税(一般に ad valorem 30%程度を天井とする枠)が設けられました。鉄・鋼材、石炭、機械、綿糸・綿布、毛織物などが対象で、数年かけて税率を段階的に削減します。第二に、英の関税撤廃・減免です。イギリスは既に多くの工業品関税を撤廃していましたが、フランスからのワインや絹製品などの関税を大幅に引き下げ、酒税体系の再調整を通じて消費市場を開放しました。第三に、最恵国待遇(MFN)条項の付与です。両国のいずれかが第三国に関税上の利益を与えた場合、相手国にも同等の利益が自動的に及ぶと定め、二国間の譲歩が他国との条約網に波及する設計でした。
条約には付属の関税目録(タリフ・スケジュール)が添えられ、品目ごとに税率・移行期限・評価の基準(従量か従価か)が明示されました。特にワインは、ボルドーやブルゴーニュの生産者にとって英市場の拡大が期待され、英国内でも中産階級が質の良いワインを手にしやすくなります。鉄・機械では、英の安価な鉄鋼と機械が仏市場へ入り、代わりに仏の高級品や葡萄酒が英へ流れるという相互補完が描かれました。
制度的には、関税引下げを税収の落ち込みに直結させないため、英ではグラッドストンが間接税体系の広範改革と歳出の再編で補いました。仏でも、酒税・通行税の整理や鉄道貨物収入の増加、関税収入の伸び悩みを輸出入量の拡大で補う設計が検討され、国家財政と通商政策の連携が深まりました。こうした「財政—関税—産業政策」の一体運用が、条約履行の実務的基盤を支えました。
影響:交易拡大、価格変動、産業調整、外交波及
短中期的には、両国の貿易量は明らかに拡大しました。英の輸入における仏ワイン・絹織物のシェアは上昇し、英の対仏輸出では鉄鋼・機械・綿製品の比重が増しました。英国内では、ワイン・砂糖・茶など一部品目の価格低下が家計に恩恵を与え、実質賃金の押し上げに寄与したとされます。仏では、競争圧力を受ける部門(安価な英製鉄・機械と競合する分野)で淘汰・合併・技術投資が進み、逆に輸出が伸びる部門(高級織物・酒類など)では品質競争とブランド形成が加速しました。
同時に、1860年代の「条約ネットワーク」が生まれました。英仏条約のMFNは、英—ベルギー、仏—イタリア、英—プロイセン/ドイツ関税同盟(ツォルフェライン)などの相次ぐ通商条約に自動的に波及し、欧州各国が相互に関税を引き下げる連鎖を生みました。これにより、国際価格の収斂と交易構造の再編が進み、鉄道と電信の普及がその統合をさらに後押ししました。欧州域内市場の統合は、原材料・半製品・最終製品のサプライチェーンを越境で結び、企業財務・商法・保険・仲裁といった制度整備の需要を拡大させました。
しかし、自由化の恩恵は一様ではありませんでした。フランスの一部製鉄業・金属加工業、農業の一部(特に穀物や畜産)は輸入圧力を受け、地方の保護派議員や業界団体は反発を強めます。英でも、繊維の下級部門や手工業的生産の一部で競争激化が見られました。景気循環の局面では、関税低下が価格下落を通じて企業収益を圧迫し、労働争議が発生するなど、社会的摩擦も現れます。これらの反作用は、後の保護主義回帰(フランスでは1892年のメーリーヌ関税)につながる政治的エネルギーを蓄えました。
外交面では、条約が英仏の政治関係を安定化させたことが重要です。クリミア戦争の際に形成された英仏協調は、経済面の相互依存で補強され、情報交換・港湾インフラ・保険・海運の連携が高まりました。これは後の英仏協商(1904)に直接つながるわけではありませんが、両国が相手の核心的利害(英の工業輸出、仏のワイン・高級品輸出)を理解し、衝突を避ける実務的感覚を醸成する役割を果たしました。
評価とその後:自由貿易の頂点から保護の反転へ
英仏通商条約は、19世紀自由貿易の「象徴的勝利」として記憶されます。自由貿易論者は、価格の低下と量の拡大、競争による効率化、国際平和への寄与を強調し、条約が欧州全域の関税自由化を牽引した点を高く評価します。歴史学の一部は、条約が各国の国家財政を関税依存から離れさせ、所得税や間接税に重心を移すきっかけを与えたこと、また、港湾・鉄道・倉庫・保険といった「見えないインフラ」の整備を刺激したことを指摘します。さらに、関税の透明化(禁制から上限関税へ)が、企業の長期投資計画を容易にし、ヨーロッパの商慣習・契約実務・仲裁機関の整備を促したことも見逃せません。
他方で、批判的評価も存在します。第一に、自由化は相対価格の急変を通じて脆弱な地域経済を動揺させ、社会保障・職業再訓練・地域開発といった緩衝装置が未整備の時代には、痛みが過度に集中しました。第二に、条約ネットワークは大国中心の力学で動き、後発工業国や農業依存地域の交渉余地を狭めた面があります。第三に、1870年代以降の長期停滞(いわゆる「大不況」)と穀物価格の国際下落を背景に、農業・中小工業の保護要求が再燃し、フランスのメーリーヌ関税(1892)やドイツのビスマルク期保護関税(1879)など保護主義の復活は、条約の長期持続可能性に疑問符を付けました。
制度的寿命という観点では、英仏通商条約は10年期限を基本とし、更新・再交渉を経ながら1870年代に入るとフランス国内の情勢変化(普仏戦争、第三共和制の成立、保護派の台頭)により自由化の速度が鈍化します。英は20世紀初頭まで全般に自由貿易路線を維持しましたが、大陸では保護主義の回帰が広がり、第一次世界大戦前の国際経済秩序は、自由化と保護の混合状態へと移行しました。
総じて、英仏通商条約は、関税政策を二国間の外交ツールとして最大限に用い、国内の制度改革(税制・行政・金融)を「外圧」を利用して推進した先例でした。自由化の利益と痛み、国際関係の安定と新たな依存の発生、条約の波及効果とその逆流——これらが交錯する歴史的事例として、この条約を位置づけて理解することが重要です。学習の際は、①1860年署名、②コブデン・シュヴァリエの役割、③最恵国待遇と条約ネットワークの形成、④メーリーヌ関税などの保護回帰、という四点を年代とともに押さえると、用語の輪郭が明瞭になります。

