「エンコミエンダ制(encomienda)」は、スペイン帝国がアメリカ大陸(および一部フィリピン)で実施した先住民支配の仕組みで、特定のスペイン人(エンコミエンデロ)に対し、一定の地域の先住民から貢納や労役を受け取る権利を与える制度です。重要なのは、土地そのものの私有権を与える制度ではなく、先住民共同体からの貢納・奉仕を受領する権利に重点があった点です。代償としてエンコミエンデロは、キリスト教化の促進、保護、治安維持などの義務を負うとされましたが、実際には過酷な労働動員や虐待が横行し、人口減少と社会破壊を招きました。16世紀の「ブルゴス法」「新法」といった王令で制限・改革が試みられ、のちにレパルティミエント(配分労働)やハシエンダ(大農園)など他の形態へ移行していきます。以下では、成り立ち、運用の具体像、地域的差異、関連制度との違い、そして歴史的評価をわかりやすく整理します。
成立背景と基本概念――征服直後の支配をどう組み立てたか
エンコミエンダ制の直接の背景は、コロンブス到来以降に急展開した征服と植民の過程です。スペイン人征服者は、先住民社会の既存の権力構造(首長=カシーケ、朝貢ネットワーク、共同体の労働慣行)を取り込みながら支配を進めました。中央・メキシコやアンデスでは、アステカやインカにおいても朝貢や公役が制度化されており、スペイン側はこれを転用して貢納と労働を確保したのです。エンコミエンダは、文字通りには「委託」「付託」を意味し、王権が先住民の保護とキリスト教化の責任をエンコミエンデロに「委ねる」建前でした。
制度の核にあるのは、権利と義務の非対称です。エンコミエンデロは貢納や労役を受ける一方で、先住民に対して保護と宗教教育を行う責任を負うとされました。しかし、実地では監督の弱さや現地利害の優越により、義務が空文化しやすく、権利だけが前面化しました。特に金銀採掘の労働需要が高い地域では、労働の強制が制度の中心となり、先住民の生活世界が急速に崩壊していきました。
初期には征服への「報償」の性格が強く、コンキスタドールたちは軍事的功績を理由にエンコミエンダの付与を求めました。王権にとっては、遠隔地統治のためのコストを私人の手に委ねつつ、税収(五分の一税など)や信仰の拡大を図る手段でもありました。ただし王権は過度な在地有力者の固定化を警戒し、世襲の制限や監督官(コレヒドール、聴問院=アウディエンシア)を通じて統制を試みました。
制度の運用と実態――貢納・労役・キリスト教化の三つ巴
運用の実際は地域ごとに差があるものの、共通する骨格がありました。第一に、先住民共同体は一定量の貢納を物品・金銀・貨幣・農産物などで納める義務を負いました。第二に、公共工事や鉱山、農園に動員される労役(ローテーション制の動員)が課されることがありました。第三に、修道会や教区の布教と連動し、教理教育(ドクトリーナ)への参加が求められました。この三要素は、生活の時間配分・居住形態・文化慣習を大きく変える力を持ちました。
法制面では、1512年の「ブルゴス法」が先住民の待遇規定と布教義務の枠組みを提示し、1542年の「新法」は先住民の奴隷化を禁じ、エンコミエンダの世襲制限・漸次廃止を志向しました。とはいえ、地方有力者と役人、植民当局との利害が絡み、実施はしばしば骨抜きになりました。アンデスやメソアメリカのように人口密度が高く、既存の徴発制度が整っていた地域ほど、形式は改められても実質は継続する傾向が見られます。
宗教面では、エンコミエンデロは「保護」と「教化」の義務を負いました。修道会(ドミニコ会、フランシスコ会、イエズス会など)と連携し、教会・学校・礼拝空間が建設され、祭礼や婚姻・葬儀の管理が行われました。これにより先住民の共同体秩序は再編され、クリオーリョ社会の規範に沿った生活リズムが導入されます。一方で、宗教を梃子にした労働規律の強化という側面も無視できません。
労働現場では、鉱山(メキシコ北部、アンデスのポトシなど)や製錬、インヘニオ(砂糖工場)、家内労働、運搬(タンマメス)など多様な形態で動員が行われました。過酷な環境と疫病の蔓延は人口の急減を引き起こし、共同体の維持能力を損ないました。この結果、スペイン当局はアフリカ系奴隷の導入や、混血住民(メスティーソ)・自由民の賃労働化を拡大する方向に舵を切ります。エンコミエンダ制は、こうした労働力編成の転換の「過渡的装置」としても機能しました。
地域差と制度の変容――メソアメリカ、アンデス、カリブ、フィリピン
メソアメリカ(新スペイン)では、アステカ帝国が擁した朝貢ネットワークと地方のカリプラ(町)組織が、エンコミエンダの台座となりました。地元の貴族層(インディオ貴族、カシーケ)は、スペイン支配へ再編入される形で徴発の中間者を担い、カスティーリャ風の称号や特権を与えられることもありました。都市と農村の距離が比較的近いこと、銀鉱山への動員が強かったことから、貢納と労役の両輪が長く続きました。
アンデス(ペルー副王領)では、インカのミタ(輪番労働)の制度が下敷きとなり、エンコミエンダやレパルティミエントとともに鉱山労働が組織化されました。特にポトシの銀山は、帝国財政を支える中核であり、先住民の移住・強制労働・貨幣経済化を加速させました。高地と低地の生態縦断的な生活体系(アヤル構造)は破壊され、共同体の再生産が困難になりました。
カリブ海域(イスパニョーラ、キューバなど)では、征服と疫病の衝撃が早期に人口崩壊をもたらし、エンコミエンダによる動員基盤そのものが急速に失われました。このため、サトウキビ栽培とプランテーションが進むにつれて、アフリカ系奴隷労働が早期に主役となりました。結果的に、エンコミエンダは短命で、ハシエンダやプランテーションへの移行が急でした。
フィリピンでは、1570年代以降の征服とともにエンコミエンダが導入され、貢納の徴収と布教が結びつけられました。村落の再編(レドゥクシオン)により、教会中心の集住が促され、貢納・労役・宗教儀礼が一体化した支配が形成されます。ただし、アメリカ大陸ほど鉱山主導の労働需要が強くなかったため、地場経済や交易の性格に応じて制度は早くから分節化し、地方差が顕著でした。
関連制度との比較――レパルティミエント、ミタ、ハシエンダとの違い
エンコミエンダはしばしば他制度と混同されます。レパルティミエント(repartimiento)は、王権が先住民労働を一定期間、輪番で配分する仕組みで、理論上は賃金支払いを伴う「公的動員」です。これはエンコミエンダの私人への委託性を弱め、王権の直接統制を強める方向の制度でした。アンデスのミタは、インカ由来の輪番労働をスペインが再編したもので、特定の鉱山や工事への動員を指します。
ハシエンダ(hacienda)は、土地所有と結びついた大農園経営で、私的土地支配と小作・債務労働(ペオナーヘ)を組み合わせる点で、エンコミエンダと根本が異なります。エンコミエンダは土地の私有権を本質とせず、先住民共同体に対する貢納・労役の徴収権が中心でした。時間の経過とともに、王権はエンコミエンダの世襲や濫用を抑えつつ、土地所有に基づく経営(ハシエンダ)を通じた統治と課税へと軸足を移しました。したがって、16世紀の過渡的支配装置が17世紀以降の土地中心の経済・社会秩序へ漸進的に置き換わっていく流れが見られます。
批判と改革の試み――ラス・カサス、バリャドリード論争、王権の介入
エンコミエンダ制は、征服直後から激しい批判にさらされました。代表的人物が、ドミニコ会士バルトロメ・デ・ラス・カサスです。彼はイスパニョーラやキューバで先住民の惨状を目の当たりにし、奴隷化や過酷な労役を告発しました。ラス・カサスの提言は王権に一定の影響を与え、1542年の「新法」では先住民の自由の確認、エンコミエンダの世襲禁止、役人による監督強化が定められました。もっとも、現地の反発や経済事情により、完全な実施は困難でした。
1550〜51年のバリャドリード論争では、ラス・カサスとファン・ヒネス・デ・セプルベダが、征服の正当性と先住民の人間性をめぐって論戦を交わしました。セプルベダは「自然奴隷」論や文明の優劣を根拠に支配を正当化し、ラス・カサスは先住民の理性と権利を擁護しました。この論争は、エンコミエンダを含む植民支配の倫理的基盤を問う出来事であり、王権の改革志向を後押しする材料となりました。以後、理論上は先住民は王の保護民であり、奴隷ではないという法的建前が強化されます。
王権は監督機構として聴問院(アウディエンシア)や査察(ビシタ)を整え、エンコミエンダの移譲・廃止・再編を通じて私人権力の肥大化を防ごうとしました。同時に、租税体系の整備、国庫への銀供給の最大化、海上輸送(システマ・デ・フロタ)など、帝国運営の合理化が進められ、私人の支配に依存しない統治の基盤が固められていきます。
社会的帰結――人口、共同体、コスモポリス化
エンコミエンダは、先住民社会に深刻な人口減少と共同体の解体をもたらしました。労働強制と疫病、移動の強要、食生活の変容が複合して、16世紀の大陸規模での人口崩壊を加速させました。これにより、伝統的な親族ネットワークや儀礼体系、土地利用のノウハウが断ち切られ、社会的記憶の継承が困難になりました。都市部では、スペイン本土出身者(ペニンスラール)、新大陸生まれのスペイン系(クリオーリョ)、混血(メスティーソ)、アフリカ系、先住民など多様な人々が混在する「コスモポリス」としての性格が強まりました。
経済面では、銀・砂糖・染料などの輸出品目が帝国財政と世界商業の中核を占め、労働編成の革新と暴力が結びつく構造が固定化しました。先住民共同体の内部でも、カシーケや地元エリートが仲介者として地位を高め、二重の支配(王権と在地有力者)の板挟みが生じました。長期的には、貨幣化の浸透、裁判制度・公文書・言語の変化を通じて、ラテンアメリカ社会の近代的諸制度の基屎が形成されますが、その成立は暴力的な破壊と再編を伴いました。
用語上の注意と今日的理解――「土地制度」ではなく「人への賦課」
エンコミエンダ制を理解する鍵は、これが土地の配分ではなく「人への賦課(tribute and service over people)」を核心とする点にあります。日本語の感覚では、荘園や領地支配と類比しがちですが、エンコミエンダの本質は、共同体の構成員に課せられた義務を私人が受領する権利であり、地券や境界線を伴う近代的な土地所有とは別概念です。もちろん、実際には労働力動員が農地・鉱山・工場の運営と結びつくため、結果として空間支配に帰着しますが、法理念としては「保護と教化を条件にした賦課の授与」が出発点でした。
また、年代感覚にも注意が必要です。征服直後の16世紀前半に制度は広がり、1540年代以降は制限・再編が進み、地域により長短はあるものの、17世紀にはレパルティミエントやハシエンダ、賃労働や債務労働など別形態が表面化します。エンコミエンダを「スペイン植民地支配=全期間の一般的様式」とみなすのは単純化であり、むしろ過渡期の統治技法の一つと捉える方が実態に近いです。
さらに、フィリピンを含むアジア植民地での適用は、アメリカ大陸の鉱山主導型とは性格が異なり、貢納と布教、村落再編による支配の強化が中心でした。地域社会の条件に応じて制度の顔つきは変化し、「エンコミエンダ」という名称の下に複数の実態が併存していたことを念頭に置くと、歴史像が立体的になります。
以上を踏まえると、エンコミエンダ制は、征服の報償、王権の遠隔統治、経済開発、宗教布教という複数の目的を一体化した制度であり、その矛盾が暴力と改革、移行と持続の揺れを生みました。史料に現れる法理念と、現場の運用の落差を見抜くことが、用語の正確な理解につながります。

