教皇のバビロン捕囚 – 世界史用語集

「教皇のバビロン捕囚」とは、14世紀にローマの教皇庁がフランス南東部のアヴィニョンへと拠点を移し、約70年にわたりそこに常住した出来事の通称です。聖書の“バビロン捕囚”になぞらえ、教皇がローマを離れたことを批判的に呼んだ言葉で、当時の人びとには「教会の中心が異郷に囚われている」という強い印象を与えました。要は、フランス王権との緊張・ローマの治安悪化・イタリア政治の混乱などを背景に、教皇庁が行政の効率化と安全確保を求めてアヴィニョンに移り、そこで高度な官僚制と財政システムを整えた時代を指します。この移転は教皇権の国際的信頼に複雑な影を落とし、のちの「西方教会大分裂(大シスマ)」の直接的な前段にもなりました。以下では、移転の背景、アヴィニョンでの制度と政治、ヨーロッパ社会への影響、ローマ帰還と大分裂への連結、歴史的評価を、わかりやすく整理します。

スポンサーリンク

背景と成立――なぜローマを離れ、アヴィニョンへ向かったのか

13世紀末から14世紀初頭、ローマ教皇とフランス王権は、課税権や聖職者の身分をめぐって深刻に対立していました。ボニファティウス8世は教皇至上権を強く打ち出しましたが、フィリップ4世(仏王)との確執は『ウナム・サンクタム』(1302年)の発表やアナーニ事件(1303年)で極点に達します。ボニファティウス死後、遺恨と混乱を収める必要が生じ、枢機卿団はフランス出身のクレメンス5世を選出しました。彼は1309年、ローマの治安・衛生・政治状況の悪化とイタリア内乱の激化を理由に、ローヌ川沿いのアヴィニョンへ移って居所を定めます。

アヴィニョンはフランス王国の形式的領域外(教皇領寄進を受けたプロヴァンス伯領の一部やローヌ左岸の帝国領に近接)にあり、フランスの強い影響圏に属しながらも、法的には中立性を主張し得る地点でした。ここに教皇宮殿が築かれ(主にベネディクトゥス12世とクレメンス6世の時代に大拡張)、教皇庁の各省、財務、裁判機関が集積します。以後、グレゴリウス11世が1377年にローマへ戻るまで、七代の教皇がアヴィニョンに居住しました。

アヴィニョン教皇庁の実像――官僚制・財政・法と文化

アヴィニョン期の教皇庁は、しばしば「フランスに囚われた教皇」と描かれますが、内部から見れば、国際教会の中枢として高度な官僚制と記録主義を整備した時代でもありました。裁判・教書発給・聖職叙任・財務の手続は標準化され、教皇文書館・登録簿の整備で情報管理が進みます。枢機卿団は行政と外交の要として機能し、諸王国との通信や仲裁、修道会の統制、宣教地域の監督など、普遍教会の運営が効率化されました。

財政面では、「十分の一税(タイス)」の組織的徴収に加え、聖職叙任に伴う手数料や年貢(アナータ)、教会受益権の留保(レゼルヴァティオ)などが制度化され、教皇庁は広域に安定財源を確保します。アヴィニョンの教皇廷は国際金融の拠点ともなり、イタリア商人・銀行家(フッガー以前のトスカーナ諸家)やプロヴァンス商人が資金の流れを担いました。こうした財政整備は教皇庁の独立性を支えましたが、同時に「金銭主義」の批判も生み、各地で反教権感情や改革要求を刺激する副作用もありました。

法と裁治の側面では、教会法の判例と通達が蓄積され、婚姻無効、叙任権紛争、修道会の規律、異端審問などの案件が、アヴィニョンの法廷で審理されます。大学(とくにパリ大学)の神学者・法学者との往復は、教義や倫理の精緻化を促し、教会法学の発展に寄与しました。また、礼拝・典礼の統一基準が文書化され、秘跡規範の運用が各地で整えられていきます。

文化面でも、アヴィニョンは建築・美術・音楽の中心地となりました。巨大な教皇宮殿(パレ・デ・パップ)と城壁、装飾写本やフレスコ、礼拝音楽の洗練は、のちのローマ・ルネサンスにもつながる芸術の土台を築きます。各地から集う外交使節・学者・修道士が出入りし、多言語・多文化が交錯する国際都市となりました。

フランス王権・国際政治との関係――中立性の模索とその限界

アヴィニョン教皇庁の評価を分ける最大の論点は、フランス王権への依存度です。確かに、教皇や枢機卿の多くがフランス出身であり、仏王の影響は無視できません。テンプル騎士団の解散(1312年)は、フィリップ4世の意向に沿う形で決定され、教皇クレメンス5世の立場は厳しい現実政治に押されました。他方で、ヨハネス22世は帝国都市や皇帝ルートヴィヒ4世との対立で独自の教権を主張し、ベネディクトゥス12世やイノケンティウス6世は教会内改革に努めるなど、単線的な「フランスの傀儡」とは言い切れません。

百年戦争(1337年開始)は教皇の中立性を厳しく試す局面でした。フランスとイングランドの長期戦は、教皇庁の仲裁努力を求めた一方で、どちらかに肩入れしているとの疑念を常に呼びました。十分の一税の動員や司教任命の政治化は、各国のナショナルな自律志向(ガリカニスム、英王権の独自路線)を強め、普遍教会の統合を難しくしました。結果として、教皇庁は「国際仲裁者」と「特定王権の影響下」という二重評価の板挟みに立たされ続けます。

ローマとイタリアへの影響――空白と衰退、教皇領の再編

教皇がローマを離れた影響は、都市と半島の政治・経済に直撃しました。ローマでは巡礼と宮廷に依存する経済が縮小し、貴族間抗争や治安悪化が続きます。聖職者・官僚・職人・巡礼者が減少し、都市機能は目に見えて落ち込みました。教皇領(中部イタリア)の統治も弛緩し、各地に地方政権や傭兵隊長(コンドッティエーレ)が台頭、自治都市や領主の離反が相次ぎます。イノケンティウス6世と軍司令官アルボルノス枢機卿は、教皇領再建のために大規模な軍事・行政改革を敢行し、要塞網と都市同盟の再編に取り組みましたが、完全な掌握には至りませんでした。

この空白は、イタリアの都市国家(フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノなど)の自立と対外競争を促しました。とりわけトスカーナでは、教皇派と皇帝派(ゲルフ/ギベリン)の対立が新局面に入り、金融・貿易・織物業の動向が政治の行方を左右します。ローマ離脱は、イタリア半島の分権化と多極化を加速させる要因の一つでした。

ローマ回帰と「大分裂」へ――終幕のドラマ

14世紀後半、教会内外の改革要求が高まり、ローマ帰還を求める声が強まります。シエナの聖カタリナは、手紙と直接の働きかけで教皇に回帰を促し、各地の都市も巡礼経済と宗教的権威の回復を願いました。ウルバヌス5世は一時的にローマへ戻るものの、治安と外交の悪化で再びアヴィニョンへ退きます。最終的にグレゴリウス11世が1377年、決断してローマに戻り、翌年の死をもってアヴィニョン時代は終焉を迎えました。

しかし、帰還は新たな危機の扉でもありました。1378年の教皇選挙はローマ民衆の圧力と枢機卿団の分裂の中で行われ、ローマで選ばれたウルバヌス6世に対し、一部枢機卿は選挙の自由が侵害されたとしてアヴィニョンで対抗教皇クレメンス7世を擁立します。こうして、西方教会は約40年にわたる「大分裂(大シスマ)」に陥りました。アヴィニョン期に形成された枢機卿勢力・財政基盤・王権との結びつきが、二重教皇制を長引かせる下地になったことは否めません。最終的な収拾は1414–18年のコンスタンツ公会議とマルティヌス5世の選出を待たねばなりませんでした。

歴史的評価――行政の近代化と権威の毀損、その二面性

アヴィニョン教皇庁をどう評価するかは、一面的ではあり得ません。肯定面では、文書主義・財務・裁判・外交の整備により、普遍教会を統括する「世界組織」としての教皇庁の基礎が固まりました。記録や会計の精緻化、標準化された手続は、のちのローマ教皇庁にも受け継がれ、大学と都市を結ぶ知のネットワークは、神学・法学・芸術の発展に資しました。アヴィニョン宮殿に凝縮された建築・美術も、文化史的価値は極めて大きいと言えます。

否定面では、フランス王権への地理的・人脈的隣接が、教皇の超国家的中立性に疑念を抱かせ、各国の「国民教会」志向や反教権の温床となりました。金銭主義的と受け取られた財政手法は、下からの敬虔運動や清貧志向、後代の宗教改革の批判的語彙を準備したとも指摘されます。ローマ離脱による教皇領の空洞化は、ローマ帰還後の統治難を招き、大分裂の長期化にも影を落としました。

結局のところ、「教皇のバビロン捕囚」は、教皇庁が中世末の政治・軍事・経済・コミュニケーションの現実に向き合い、普遍性と現実政治のはざまで最適化を模索した時代でした。そこには、制度の近代化と権威の弱体化という相反する帰結が併存しています。この二面性を理解することが、のちの大分裂や宗教改革、近代の政教関係を読み解く上で大切です。ローマからアヴィニョンへ、そして再びローマへ――その往還自体が、普遍宗教の中心が地理・政治・文化の網の目の上に築かれていることを雄弁に物語っています。