沖縄返還 – 世界史用語集

沖縄返還(おきなわへんかん)とは、第二次世界大戦後に米軍の統治下(米国民政府・琉球政府体制)に置かれていた沖縄が、1972年5月15日に日本へ施政権が復帰した出来事を指します。焦点は、主権・法制度・通貨の切替などの「統治の枠組み」の回復と、在日米軍基地の継続駐留・日米安保体制との接合の二重課題にありました。返還交渉は1960年代後半に本格化し、1969年の佐藤・ニクソン共同声明で「1972年までの返還」が合意、1971年に日米間で沖縄返還協定が署名されました。返還は、沖縄の人々が経験した戦後の長い軍政と土地接収・基地集中の現実、経済・教育・社会保障の制度差を伴う「別体系」の終焉を意味すると同時に、基地問題や安全保障、地域振興の課題を残しました。以下では、戦後統治の背景、返還交渉の展開、協定の内容と実務、社会の反応と返還後の課題を順に整理します。

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戦後統治の背景――米軍政・USCARと「別体系」の日常

1945年の沖縄戦ののち、沖縄は米軍の軍政下に入りました。やがて占領行政は米国民政府(USCAR)と琉球政府の二層構造へ移行し、通貨・関税・出入国管理・交通標識・教育制度など、多くの分野で日本本土と異なる枠組みが敷かれました。通貨は戦後の一時期にB円が用いられ、その後は米ドルが流通しました。司法・警察・報道も米軍の強い統制下に置かれ、土地接収と基地拡張が進む過程で、1950年代には住民の「島ぐるみ闘争」が広がります。土地の強制使用、騒音・事故・事件、移動制限は、農漁業や生活基盤に深刻な影響を与えました。

本土との間では、関税・為替・郵便や車両の規格も異なり、同じ日本語圏でありながら制度的な「国境」が日常に存在しました。学校制度や検定教科書、医療保険、年金、税制なども別体系で、戦後復興の波に乗る本土と、軍事需給に左右される沖縄経済の構造差が広がります。こうした状況は「祖国復帰」への期待を高め、同時に、基地依存の雇用と収入という現実との板挟みを生みました。

返還要求の高まりと交渉の展開――共同声明から協定へ

1960年代に入ると、沖縄では自治拡大と祖国復帰を掲げる運動が強まります。ベトナム戦争の激化に伴う出撃拠点化、基地騒音や事故の増加、1968年のコザ・モータープール火災や1969年の毒ガス漏洩問題などは、住民の不安と反発を一層高めました。本土でも、安保改定以後の対米関係をめぐる議論のなかで、沖縄返還が重要課題として浮上します。

1967年、日本政府は「非核三原則」(持たず・作らず・持ち込ませず)を表明し、沖縄返還については「核抜き・本土並み」を基本方針としました。1969年11月の佐藤栄作首相とニクソン大統領の共同声明は、1972年までの沖縄の施政権返還で合意し、米軍施設の使用については日米安保条約の枠組みを適用することを確認しました。これを受けて、両政府は返還の実務と条件の交渉に入り、1971年6月、「沖縄の返還に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」(沖縄返還協定)に署名します。

交渉の争点は多岐にわたりました。第一は核兵器の取り扱いで、返還時に沖縄から核兵器を撤去すること、緊急時の米艦船・航空機の寄港・飛来や持ち込みに関する取り扱い(日本側の事前同意原則)などが詰められました。第二は基地の地位と使用条件で、返還後は日本国内の他基地と同様に地位協定(SOFA)の枠組みに入ること、環境・騒音・事件事故への対応などが議題となりました。第三は財政・経済措置で、返還に伴うインフラ整備、通貨切替、税制移行、公共サービスの拡充に関する費用負担と支援策が協議されました。

返還協定の内容と実務――通貨・法令・行政の切替と基地の地位

1971年の返還協定は、施政権(行政・司法・立法)の日本への復帰を定め、1972年5月15日に発効しました。最も生活に影響したのは、通貨・法令・行政の切替です。通貨は米ドルから日本円へ切り替えられ、預金・価格・賃金の換算、レジや帳簿、料金体系の変更が一斉に行われました。郵便・電気・通信・車両登録や交通標識なども本土の制度に統一され、教育・社会保障・税制が段階的に日本法へ移行します。裁判所・検察・警察の管轄と手続、土地登記や不動産制度も日本の法体系に組み込まれました。

基地の地位については、返還後の在日米軍の活動は日米安保条約と日米地位協定(SOFA)に従うこととなり、施設区域の継続使用が認められました。刑事裁判権や基地従業員の地位、環境や騒音への対応などはSOFAの枠組みのもとで扱われ、地位協定の運用改善を求める議論が以後の課題として残ります。返還と同時にすべての基地が撤去されたわけではなく、むしろ「統治の枠組みは日本法へ、安保の枠組みは維持」という二重の整理が行われたのが返還の実像でした。

経済・財政面では、日本政府は復帰特別措置として公共投資・社会資本整備・教育医療の拡充に資金を投じ、産業振興と生活基盤の整備を加速しました。道路・港湾・上下水道・空港・学校・病院の整備は、観光・サービス産業の発展を後押しする一方、基地の存在による土地利用制約や騒音・環境負荷は残存し、地域計画の制約要因であり続けました。

社会の反応と返還前後の出来事――島ぐるみ闘争、コザ騒動、世論の交錯

返還をめぐる社会の動きは一様ではありませんでした。1950年代の島ぐるみ闘争は、土地接収・強制使用に反対する住民運動として広がり、自治と生活防衛の旗印を掲げました。1960年代後半には、復帰運動と反戦・反基地の運動が重なり、ベトナム戦争と基地機能への批判が高まります。1970年12月の「コザ騒動(コザ暴動)」は、交通事故処理をめぐる不満に蓄積した不公平感・事件事故・騒音への怒りが爆発し、米軍車両の焼討ちなど大規模な衝突に発展しました。これは返還前夜の緊張の象徴的事件として記憶されています。

一方で、基地に雇用と所得を依存する現実も重く、返還後の経済をどう構築するかは大きな不安材料でした。観光や公共投資による成長期待と、基地関連需要の縮小への懸念が交錯し、復帰特別措置と本土資本の導入が地域社会の構造を変えていきます。復帰当日の「ゼロ時」は、法と通貨と行政の切替という実務の山場であり、那覇をはじめ各地で式典と静かな混乱が同居しました。

返還後の継続課題――基地の集中、地位協定、跡地利用と地域振興

返還後も、在日米軍施設の大きな割合が沖縄に集中する状況は続き、騒音、環境汚染、事件・事故、低空飛行訓練などが地域社会の課題として継続しました。普天間飛行場の移設問題、辺野古新基地建設をめぐる政治的対立、那覇軍港・嘉手納以北の訓練空域の問題、PFOSなど有機フッ素化合物による環境汚染懸念など、新旧の論点が折り重なります。地位協定の運用改善や環境補足協定の整備、第三者による立入・検査、事件事故時の捜査・身柄引渡しのあり方など、技術的交渉の積み重ねが続いてきました。

一方、返還・移設で生じた跡地の活用は、沖縄経済にとって大きな機会となりました。商業・オフィス・住宅・公園・大学・医療などの複合開発、観光とMICE拠点の整備、IT・BPOの誘致など、土地利用の転換は雇用と税収を生みました。インフラ整備や規制緩和、産学官の連携が成功の分岐点となり、地域の将来像をめぐる合意形成が求められています。返還の記憶は、平和学習・観光・文化行事とも連動し、歴史を踏まえた地域振興の物語づくりに繋がっています。

国際関係の文脈――日米安保、核政策、東アジア情勢との連動

沖縄返還は、東アジアの冷戦構造のなかで位置づけられるべき出来事でもありました。日米安保体制の下で、日本は米軍の極東戦略を支える役割を果たしつつ、国内の民主主義と地域の負担軽減をどう両立させるかという課題を抱えました。核兵器をめぐっては、返還時の「核抜き」の原則のもとで核兵器が撤去される一方、米軍艦船・航空機の寄港飛来や有事の持ち込みに関する取り扱いをめぐる政府間の取り決めや、後年に公開された文書の解釈をめぐって、いわゆる「密約」論争が続きました。これらは、非核三原則と拡大抑止の関係、同盟の運用透明性、国会・国民への説明責任を問う論点として、長く尾を引いています。

返還ののち、冷戦終結や地域の安全保障環境の変化に応じて、沖縄の基地機能や規模の見直しが段階的に進み、返還・移設・共同使用など多様なアプローチが試行されています。国際情勢の緊張が高まる局面では、基地機能の重要性が強調され、緊張が緩む局面では縮小・整理の議論が進む――この波に、地域の生活・経済・環境の課題が重なり、粘り強い調整が必要とされてきました。

用語と年次の整理――主要な節目

沖縄戦(1945年)→米軍軍政・USCAR体制へ/B円・米ドル流通/土地接収と基地拡張(1950年代)/島ぐるみ闘争(1950年代後半)/ベトナム戦争と基地出撃・事故問題(1960年代)/非核三原則表明(1967年)/佐藤・ニクソン共同声明(1969年)/コザ騒動(1970年)/沖縄返還協定署名(1971年)/施政権返還・通貨・法令・行政の切替(1972年5月15日)――といった流れで押さえると、政治・社会・経済の線が重なって見えます。返還後は、地位協定運用の改善要求、跡地利用の都市開発、観光・IT・教育・医療への重点投資、環境協定の整備などが継続課題として積み重なってきました。

総括的な描写――「統治の復帰」と「安保の継続」が交差した出来事

沖縄返還は、日本の法と行政の枠組みが沖縄に再適用される「統治の復帰」と、同時に在日米軍の駐留が安保体制のもとで継続されるという「安保の継続」が交差した出来事でした。生活の細部に至るまでの制度統一は、医療・教育・社会保障・公共サービスの拡充に直結し、観光や民間投資の拡大を後押ししました。他方、基地の集中、騒音・環境・事件事故、土地利用の制約という構造問題は残り、以後半世紀にわたる政治・外交・地域政策の主要テーマであり続けています。返還は終点ではなく、沖縄と日本、そして日米関係が抱える課題を可視化し続ける〈通過点〉であった、と言い表すのが実像に近いです。