「科挙(元)」は、モンゴル支配下の元王朝において、いったん停止に近い状態にあった儒学系の官吏登用試験を、14世紀初頭に再開し、民族区分や名額(クォータ)制を伴う独自仕様へと組み替えて運用した制度を指します。隋・唐・宋で育った〈学識による公選〉の原理は、異民族王朝である元でも完全には捨てられず、軍功・世官(世襲官)・勲旧と並ぶ人材供給ルートとして復活します。ただし、モンゴル人・色目人・漢人・南人の四等人制に応じた受験名額や、学校制度・郷貢の枠組み、仏教・道教・医学・算学などの専門科の併置など、運用は元ならではの折衷と制約に満ちていました。科挙は行政の文治化と漢人官僚の登用を進める一方、民族・地域のバランス政治の道具ともなり、末期の混乱とともに実効性を失ってゆきます。ここでは、再開の背景と政治的意図、制度の枠組みと民族区分、科目・出題と学校、運用の実像と社会的影響、限界と明への継承という観点から、元代科挙の要点をわかりやすく整理します。
再開の背景と政治的意図:軍功・世官から〈公選〉の回復へ
モンゴル帝国の拡張とともに、中国本土(中原)は軍事占領と分権的統治の下に置かれ、初期の人事は軍功・世官(世襲的な官職)・投下領経営の実務者に依っていました。文書行政の担い手としても、旧金・旧南宋の官僚や書吏が実務を継続しましたが、全国統治を行ううえで「共通の教養規範」と「公的に可視化された登用ルート」を回復する必要が次第に意識されます。これには二つの背景がありました。第一に、財政・法制・戸計の整備が急務になるなか、宋以来の文治的官僚術が不可欠だったこと。第二に、モンゴル支配の正統性を、儒教的秩序との折り合いのうえに再構築する必要があったことです。
14世紀初頭、朝廷は儒学系科挙の定期実施を再開し、国家学校(国子監・太学・州県学)と連結した取士ルートを整えます。これにより、地方の士人は郷貢・学校推挙を経て中央の会試・殿試に進む一般道路を再び得ました。すなわち、元の科挙は、〈モンゴル的な軍功・世官〉と〈中国的な公選〉の二本立てを制度化し、その配合比率を政治情勢に応じて調整する仕組みとして理解できます。
制度の枠組みと民族・地域配分:四等人制と名額政治
元の特徴は、受験と合格の名額を民族区分と地域に割り当てた点です。社会編成上、「蒙古人」「色目人(西域・中央アジアなどの出自)」「漢人(旧金・遼領の北方漢人)」「南人(旧南宋領の住民)」という四等人制が敷かれ、科挙でもおおむねこれに準拠する名額配分が行われました。たとえば同じ会試であっても、各等級の上限・下限が予め示され、偏りが生じないように調整されます。これは、少数者統治の安定をはかる政治上の配慮であると同時に、受験機会の不均等や序列の固定化という問題を抱える設計でもありました。
試験段階は、宋の枠組みを踏襲しつつ簡略化されます。地方の学校・郷里からの推挙(解送)を受けて中央の会試(礼部試に相当)に進み、最後に皇帝臨御の殿試で名次(状元・榜眼・探花など)を定める、という基本線です。定期性はおおむね三年一度を目標としましたが、政治・財政・戦乱の事情により実施間隔や回数は変動しました。
学校制度の再整備も重要です。州県学・路学・国子監が、郷貢・生徒の養成・資格審査の基盤を担いました。元はまた、回回(イスラーム系)や西域出自の学問伝統を利用しつつ、儒学の正統を国家学校で教えるという二重の学術政策を採用します。これにより、行政実務に必要な漢文・律令・度量衡・文書作成の技術が、広範な受験層に共有されました。
科目と出題・専門科の併置:経義・策論の復活と仏・道・医・算
筆頭の進士科では、経義(『四書』『五経』の章句理解と義理の解釈)と策論(租税・兵制・水利・刑名・辺防などの政策論述)が中心です。宋後期に固まった答案の作法—条理立て、用典の正確さ、叙述の均整—は元でも高く評価され、朱子学的注疏が「標準解」の地位を強めます。詩賦は比重が下がり、文章の技巧よりも政策の筋道と史例運用が重視されました。答案は糊名で匿名化し、採点の複数化・監試の交替など、公平性の確保策も踏襲されます。
元の特色として、仏教・道教の教団統制と結びついた「釈教・道教の科挙(釈教試・道科)」が断続的に実施された点、そして実務系の専門科が整備された点が挙げられます。僧侶・道人に対する試験は、経典理解・戒律・作法・教団運営の能力を確認し、度牒(身分証)と職分の付与・更新に用いられました。これは宗教界の資格管理を国家が掌握する装置であり、科挙的な選抜論理が宗教行政に応用された例です。また、法律(明法)・算学(会計と度量衡)・医学(太医署系)・書吏実務など、実務能力を評価する科目が拡充され、財政・軍需・土木・市場監理といった現場の需要を反映しました。
運用の実像と社会的影響:漢人登用・出版市場・都市文化
再開後の科挙は、漢人・南人の登用経路を正式に回復し、文書行政の層を厚くしました。税制整備、塩鉄・市舶司の管理、河工(水利)や驛伝の維持、公文書の編纂・法令の施行には、宋以来の文官術が不可欠で、科挙はその供給線として働きます。漢文行政の再確立は、ウイグル文字・パスパ文字などの多文字環境の中で、法令・詔勅の二重表記や翻訳実務の整備とも結びつきました。
社会文化面では、受験需要が書籍・印刷を活性化させ、朱子学注疏・経義便覧・策例集・会試総覧といった参考書が大量に出回ります。臨安・杭州・建康・江淮・江右などの経済圏は、南宋以来の出版インフラを活かして受験市場を広げ、塾・書院・書肆が都市文化の核になりました。榜掲(合格者名の公示)は祝祭化し、状元・榜眼・探花の称号は婚姻と社交の象徴資本として機能します。
同時に、名額政治は受験生の戦略を規定しました。自らの等級・籍貫に応じて競争相手が異なるため、学資や人脈の投下配分、受験の時期選択が細かく計算されます。学校ルート(学生籍)を確保するための寄附や後援、師門の選択が、官界での将来のネットワーク形成と密接に絡みました。こうした「合理的選択」は、制度の成熟を示すと同時に、教育投資の地域格差・家産格差を拡大させる副作用も持ちました。
限界・変動と明への継承:戦乱下の断絶、制度の骨格の継承
元末には、財政難・派閥対立・天変による社会不安が重なり、科挙の定期性と信頼性は損なわれます。試験の延期・中止が続き、名額の政治操作や賄賂の風聞が広がると、制度の正統性は揺らぎました。軍事的には紅巾の乱など各地で反乱が相次ぎ、地方の実効統治は軍権を握る勢力に偏在します。文官ルートである科挙は、秩序回復の道具としての力を十分には発揮できませんでした。
それでも、元が復活させた「会試—殿試」という二段の中央選抜と、答案匿名化・複数採点・監試交替といった運用技法、学校と取士の直結、専門科の併置といった骨格は、明によって引き継がれます。明は民族区分の名額を廃し、全国統一の枠で郷試—会試—殿試の三段制を整え、〈八股文〉という規格化の極(経義・策論のフォーマット化)へと進みました。言い換えれば、元の科挙は「再開」と「調整」の時代であり、異文化統治の下で〈学識による公選〉を温存・改造し、次代の大制度化へ橋を架けたのです。
歴史的に見ると、元の科挙は二つの評価軸で読むのが妥当です。第一に、モンゴル帝国的多元性の中で、儒学の公選制度を再接続した点。第二に、民族・地域の名額政治によって公選の平等性が制限され、同時に国家統治の安定装置として利用された点です。ここから、国家が〈能力主義〉と〈統治均衡〉をどう両立させるかという問題が、近世以降に繰り返し現れるテーマであることが見えてきます。元代の経験は、制度は単に理想の写像ではなく、社会編成と政治状況に合わせて〈調律〉される現実であることを、歴史的に示しているのです。

