カスティリャ王国(Reino de Castilla)は、イベリア半島中北部のメセタ高原を基盤とする中世・近世の王国で、最終的にアラゴン連合王国と結びついて「スペイン王権」の中核をなした国家です。もとはレオン王国の辺境伯領(カスティーリャ伯領)として始まり、11〜12世紀に王国へと昇格し、レコンキスタ(再征服運動)と開拓型社会の推進力を担いました。自治都市(コンセホ)、騎士身分、修道会、軍事修道会、ユダヤ人・ムデハル(イスラーム教徒の被支配民)といった多層の共同体が、法(フエロ)と契約に基づいて土地の再分配と防衛を支え、やがてアルカバラ(売買税)やメスタ(羊群組合)など独特の制度を整えます。15世紀末、イサベル女王とフェルナンド王の結婚により王朝同盟(いわゆるカトリック両王)が成立すると、1492年のグラナダ攻略とコロンブス航海支援を通じて大西洋帝国の扉が開かれました。カスティリャ語(スペイン語)の標準化、サラマンカ大学を頂点とする学知、騎士詩から『ミオ・シッドの歌』に至る文学と、都市大聖堂やムデハル様式が彩る文化は、半島の多文化世界と王権統合の交点を映しています。本稿では、成立と拡大の歩み、統治と法、社会経済・文化、アラゴンとの連携と「スペイン」への接続という観点から、カスティリャ王国の全体像を整理します。
成立と拡大:伯領から王国へ、レオンとの関係、レコンキスタの推進力
「カスティリャ」の名は「城(castillo)の多い土地」に由来し、イスラーム勢力との接触線に沿って築かれた小要塞の連鎖を背景に生まれました。10世紀、レオン王国の東辺防としてカスティーリャ伯が置かれ、フェルナン・ゴンサレスの時代に世襲化・自立化が進みます。11世紀半ば、フェルナンド1世がレオン王位をも継承して一時的な統合を実現しますが、分割相続と内戦を経て、カスティリャは独自の王国として歩み始めました。アルフォンソ6世はトレド(1085年)を攻略してタホ川流域を押さえ、レコンキスタの速度を上げます。12世紀にはナバラやアラゴンとの境界調整、ポルトゥカーレ(のちのポルトガル)の自立など、半島諸国の綱引きの中で版図を拡大しました。
13世紀、フェルナンド3世はレオン王国を再統合し、セビリア・コルドバなど上部アンダルシアまで南進して、グアダルキビール川流域をカスティリャ圏に組み込みました。これにより、カスティリャはメセタから大西洋・カディス湾へ通じる経済的背後地を獲得し、ムデハル住民の保護・課税・自治規定を含む新たな統治課題に直面します。アルフォンソ10世(「賢王」)は帝位請求や法文化の整備を進め、ラテン語・カスティリャ語・アラビア語の学知交流を宮廷に集めました。こうして王国は、軍事的拡大とともに法文化の統合を進め、辺境の連鎖から半島最大の国家へと変貌していきます。
ムスリム最後の拠点グラナダ王国は、カスティリャに朝貢しつつ独立を保っていましたが、15世紀末の王朝同盟下でついに攻略の対象となります。グラナダ戦争(1482–92年)は、半島秩序の最終調整であり、同時にカスティリャ王権が近代的な財政・軍事動員を試す舞台でもありました。
統治と法:フエロから『七部法典』へ、コルテスと王令、地方統治の仕組み
カスティリャの統治は、地方自治と王権立法の折衷から成り立ちました。開拓と防衛の過程で都市や村に与えられた特許状(フエロ)は、移住者の権利、土地分配、軍役義務、治安・刑罰、宗教義務を定め、住民の法的基盤を築きます。サモラ・ログローニョ・クエンカ・セビリアなどのフエロは、周辺地域のモデルとなり、開拓社会の自律と王権の利害を調停しました。
13世紀、アルフォンソ10世は『七部法典(ラス・シエテ・パルティーダス)』の編纂を推進しました。これはローマ法・カノン法・慣習法を総合し、王権の神授性、臣民の義務、裁判・契約・家族・刑罰などを体系化した大法典です。実施には時間を要しましたが、のちの近世スペイン法の骨格となり、ラテンアメリカにまで影響を及ぼします。14世紀には『アルカラ法(Ordenamiento de Alcalá)』が王令の優位とローマ法補充の原則を明確化し、フエロ・王令・学理法の優先順位が整えられました。
議会(コルテス)は都市代表と貴族・聖職者によって構成され、税の承認、嘆願(ペティシオネス)、王権への協力をめぐる交渉の場でした。都市はコンセホ(評議会)を通じて自らの行政・治安・徴税を担い、王はコレヒドール(王権代理人)を派遣して監督します。境界地帯では軍事修道会(サンティアゴ・カラトラバ・アルカンタラ)が防衛と開拓を担い、彼らの地所(コマンダリア)は半独立的な軍事行政単位として機能しました。教会裁判所、ユダヤ人アルハマ(自治共同体)、ムデハルのカディー法廷など、多元的司法の共存も特徴でした。
財政では、通行税・関税・地代に加え、取引税アルカバラが王室歳入の柱となりました。貨幣はマラベディーを単位とし、鋳貨政策は都市経済と直結しました。王権は臨時課税(セルヴィシオ)や特定用途の付加税(百万レアル税)をコルテス承認のもとで課し、戦争・宮廷・外交の費用を賄います。こうした交渉は、王国の「合意に基づく統治」のリズムを形作りました。
社会と経済:メセタの穀羊業、メスタ、都市ネットワークと多宗教社会
メセタ高原の自然条件は、穀物栽培と移牧(トラッシュマの羊行路)に適し、カスティリャの経済は穀羊二本柱で動きました。13世紀末に制度化されたメスタ(大羊飼組合)は、王権から広範な牧草通行権(カニャダ・レアル)を与えられ、メリノ羊の羊毛はフランドル・イタリアの毛織業に供給されて外貨の源泉となります。都市側は羊群の通過が耕地・葡萄畑・オリーブに与える損害を巡りしばしば対立しましたが、王権は歳入と外交上の利得からメスタを厚遇し、長期的には農業多角化を阻害した側面も指摘されています。
都市は、内陸のブルゴス・バリャドリッド・サラマンカ・トレドと、川沿い・沿岸のサンタンデール・ラ・コルーニャ・セビリアなどが結節点となり、毛皮・羊毛・皮革・穀物・ワイン・オリーブ油・鉄などが取引されました。セビリアはグアダルキビール川の内港として、のちのアメリカ交易の玄関口へと変貌していきます。都市社会にはギルドが形成され、職人・商人・職能別の自律と慈善が機能しました。
多宗教社会もカスティリャの特色です。ユダヤ人共同体(アルハマ)は徴税・金融・医術・翻訳に携わり、ムデハルは農業・工芸・建築で重要な役割を担いました。14世紀末から15世紀にかけて、危機とともに反ユダヤ暴動や改宗圧力が強まり、イサベル女王治世には異端審問所の設置、1492年のユダヤ人追放令という急激な転換が起きます。改宗者(コンベルソ)と旧キリスト教徒(クリスティアノス・ビエホス)の区別は、のちの身分・就職制限(清浄血条例)を生み、社会構造を硬直化させました。ムデハルも16世紀にモリスコ問題として噴出し、宗教的統一の追求が社会の多様性と緊張を生むことになりました。
教育と学知の中心はサラマンカ大学で、法学・神学・自由七科を通じて王国の官僚・法曹・聖職者を育てました。文芸では、『ミオ・シッドの歌』に象徴される英雄詩が騎士的美徳と忠誠を歌い、のちに年代記・法文学・説教術が発達します。建築はロマネスクからゴシック、ムデハル(イスラーム意匠の折衷)、プラテレスコ(銀細工風装飾)へと展開し、大聖堂・アルカサル・橋梁が都市の威信を示しました。言語面では、カスティリャ語が王令・行政・文学の媒体として地位を高め、半島内の言語多様性を包摂する標準語へ向かいます。
王朝同盟と「スペイン」へ:カトリック両王、グラナダ陥落、大西洋への転回
1469年、カスティリャのイサベルとアラゴンのフェルナンドの結婚によって、二王国は「身は二つ、意志は一つ」の同盟関係を築きます。両者はそれぞれの法と機関を保ちつつ、外交・軍事・宗教政策で協調し、王権の再建(「王権復古」)を進めました。貴族勢力の私戦を抑え、サンタ・エルマンダッド(治安同盟)を活用し、法廷や財政の中央統制を強化します。グラナダ戦争は王権の動員力を試す総力戦であり、攻城砲、補給線、信用供与、戦費調達など近代的要素が揃いました。1492年のグラナダ陥落により、半島のレコンキスタは終幕し、同年、コロンブスの航海を後援したカスティリャは大西洋の新世界へ踏み出します。
アメリカ発見以後、対外領有権と布教権をめぐって教皇子午線の画定(トルデシリャス条約, 1494年)が行われ、実務面ではセビリアのインディアス商館やインディアス枢密院を通じて植民地統治が整備されます。帝国の中心は実質的にカスティリャにあり、銀の流入・対外戦争の費用・統治官僚の養成は同王国の財政・社会に直接作用しました。16世紀初頭、カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)即位は、ハプスブルクの広大な国際的負担をカスティリャにもたらし、都市と王権の利害は「コムネロスの乱」(1520–21年)として噴出します。反乱は鎮圧されましたが、以後のスペイン王権は「カスティリャ的中心性」を強め、他の半島王国を周縁化する傾向が進みました。
もっとも、形式的には「スペイン」は連合法の複合体で、アラゴン連合の諸王国(アラゴン、カタルーニャ、バレンシア、マヨルカ)やナバラは17世紀まで別個の法とコルテスを保持しました。統一国家の完成は、18世紀のボルボン朝(新王令)を待つことになります。その意味で、カスティリャ王国は、早くから近世国家の骨格(標準法・課税・常備官僚・言語標準)を備えながら、複合王国の一部として全体の舵取りを担った「中核王国」でした。
総括:城壁の連鎖から言語と法の中核へ—カスティリャの歴史的位置
カスティリャ王国は、辺境の城の連鎖から出発し、開拓・契約・共同体と王権の交渉を通じて、法と軍事と社会を束ねる器を育てました。レコンキスタの推進力として南へ拡大し、フエロの自律と王令の統合、コルテスの合意形成、アルカバラとメスタの財政基盤、都市と大学の知的生産、ユダヤ人・ムデハルを含む多宗教社会の盛衰を経験しつつ、最終的にはアラゴンと並ぶ二大王国の一つとして「スペイン」の中心に座しました。1492年の象徴的同時性—グラナダ陥落、コロンブス航海、ユダヤ人追放—は、カスティリャが中世と近代の境目で大西洋世界へ向けて扉を開くと同時に、内部の多様性を大きく削ぎ落としたことを示します。言語としてのカスティリャ語、法としての『七部法典』、財政・行政の枠組みは、その後のスペイン帝国とラテンアメリカ世界の長期的基盤となりました。したがって、カスティリャを学ぶことは、城と羊と市場の歴史を越えて、近代世界システムの一翼を担った制度と文化の起源をたどることにほかなりません。

