鳩摩羅什(くまらじゅう、Kumārajīva)は、4~5世紀にかけて中国で経典の大規模翻訳を主導し、東アジア仏教の「ことばの骨格」を形づくった訳経僧です。彼は西域クチャ(亀茲)に生まれ、インド仏教の学統と中央アジアの交差点で学識を深め、長安に到って『妙法蓮華経』『維摩経』『金剛般若経』『中論』『十二門論』『百論』『大智度論』などの名訳を次々に送り出しました。鳩摩羅什の訳文は、漢語としての可読性と思想の精度を高い次元で両立させ、後代の天台・三論・禅などの基盤用語を事実上確定しました。単に「原文を移し替えた人」ではなく、学僧・言語家・編集プロデューサーを兼ねた存在だった点が、彼の比類なさを示しています。彼の訳語とリズムは、千年以上にわたって読み継がれ、日本の仏教史・思想史・文学にも深い影響を与え続けています。
鳩摩羅什の仕事の核心は、思想の「眼目」を外さずに、異言語間で意味を立ち上げる方法にありました。逐語訳に偏れば読めず、意訳に走れば原意が揺らぐという難題に対し、彼は「講読→質疑→統一稿→校訂」という公開型の訳場を運用し、語義のすり合わせを共同体の知恵として制度化しました。長安の訳経場は、まさに知のワークショップであり、鳩摩羅什はそこで講師・審級・監修者の役割を兼ねていました。以下では、生涯と移動の道程、訳場の運営と方法論、訳出経典と思想的インパクト、語彙と文体の特徴、東アジアへの継承と評価、伝説と史料の問題を順に解説します。
生涯と時代背景:西域の学匠、長安へ
鳩摩羅什は、西域のオアシス都市クチャ(亀茲)に生まれました。父はインド系の出自で学問に通じ、母は篤信家として出家したと伝えられます。オアシス都市は隊商交易と宗教の交差点であり、インド系・イラン系・トルコ系・漢地の文化が同居していました。羅什は幼少から出家して律蔵・阿毘達磨系の学問に触れ、その後、中央アジアや北インド系の師について大乗思想、とりわけ中観学(ナーガールジュナの「空」の学)に学びました。西域という多文化環境は、彼に複数言語・複数伝統を自在に行き来する感覚を身につけさせ、後の翻訳実務の土台になります。
前秦の苻堅が西域へ勢力を伸ばしたのち、羅什は帰順・招聘の過程で中国側の保護下に入ります。前秦の崩壊後、彼は涼州(姑臧・武威周辺)に長く留め置かれ、十数年にわたって大規模な翻訳に着手できない時期を過ごしました。この滞留は不遇として語られがちですが、実際には漢語と中国仏教界の事情を学ぶ準備期間でもあり、漢訳に不可欠な語彙と表現の蓄積をもたらしました。やがて後秦の姚興が羅什を長安に迎えると、国家的プロジェクトとして訳場が整えられ、彼の力量は一挙に開花します。長安での活動は401年頃から没年(5世紀初頭、一般に413年)まで続き、短期間に集中して名訳が生み出されました。
羅什の人格像は、伝記文献において、博識と温厚、そして議論への開放性で描かれます。彼は学派や身分の違いを超えて議論に招き、異論を咎めず、最終的にテキストの一貫性で説得する流儀をとりました。西域出身の外国僧として漢地の文人・僧侶の信頼を得るためには、言葉だけでなく態度の説得力が必要であり、羅什はそれを備えていたと伝えられます。
訳場と方法論:公開編集としての漢訳
鳩摩羅什の訳業は、個人の机上作業ではなく、多人数が参加する公開編集の場で進められました。基本の段取りは、羅什が原典(サンスクリットあるいはプラークリット)を口誦して内容を解説し、質疑応答を経たのち、漢語の下訳を複数案並べ、最後に統一原則にもとづいて文辞を定めるというものです。筆録・潤色・対校(テキスト比較)・音訳の担当者が役割分担し、羅什は最終審級として語義と思想の整合性を担保しました。このプロセスは、口頭釈義と文書編集の往復運動であり、翻訳という行為を共同体の公開知へと押し上げています。
羅什の方法の核心は、「義(意味)をとり、辞(語)を整える」という方針でした。語の一対一対応に固執せず、文脈に即して漢語側の語順・接続・修辞を再構成し、読み手にとって自然な文章で思想を立ち上げます。他方で、専門語が概念の核を成す場合は、音訳や定訳語を採用して曖昧さを排します。たとえば「空」「中道」「二諦」「菩薩」「般若」などの語は、羅什訳で広く定着し、術語ネットワークを形成しました。彼は先行訳で行われていた「格義—儒道の語を仏典に当てはめる擬似対訳—」の弊害を自覚しつつ、漢語の美を損なわない絶妙なバランスで用語体系を磨き上げました。
訳場には、僧肇・道生・僧叡など卓越した才人が参画し、講義録・疏(注釈)・書簡を通じて解釈が循環しました。この開かれた編集文化は、テキストが単なる「訳文」ではなく、「読まれ、講じられ、書き換えられる場」を伴って広がっていったことを意味します。羅什は、自身の権威を過剰に振りかざすより、質問を引き受けて理由を示す対話者でした。結果として、羅什訳は読みやすさと権威を同時に獲得し、寺院教育と在家の読書の双方に定着しました。
訳出経典と思想的インパクト:三論・天台・禅への基礎
鳩摩羅什の訳業の代表は、般若経群・法華経・維摩経・中観系論書に及びます。『金剛般若経』は簡勁な漢語で「無住生心」などのキーフレーズを定着させ、般若思想の実践的側面を鮮やかに伝えました。『妙法蓮華経』は、比喩と教判の展開を漢文のリズムに乗せ、後の天台智顗の教学(五時八教など)を支えるテキスト基盤となります。『維摩詰所説経』は、在家の賢者が空と方便を自在に語る物語構造を、韻律と対句を活かして訳し、文人層の愛読を得ました。
論書では、ナーガールジュナの『中論』(中観思想の主柱)と『十二門論』、そして龍樹門下の『百論』(伝承上は提婆=アーリヤデーヴァ作)が特に重要です。これらはいずれも「空」を<否定ではなく縁起の自由>として理解する思考訓練であり、漢語の論理語を精緻に選ぶ必要がありました。羅什は「有・無」「因・縁」「世俗諦・勝義諦」「名・実」などの対概念を、過不足なく釣り合わせる文体で整え、後の三論学派(吉蔵ら)の教理と語法に直結します。さらに『大智度論』は、膨大な譬喩と教理整理を含む注釈的著作で、羅什訳は学僧のカリキュラムを形づくる百科全書的な役割を果たしました。
こうして成立した羅什訳コーパスは、東アジア仏教の「共通の語り口」を提供します。天台・華厳・禅・浄土といった後代の各宗は、学派ごとに重視する典籍は異なりつつも、論議の接着剤として羅什訳の語彙を共有しました。中国の科判(教理の類型化)や日本の宗論、朝鮮・高麗の注釈文化の多くが、羅什訳の文言を軸に組み立てられているのは、その証左です。
語彙と文体:わかりやすさと正確さの二律背反を超えて
鳩摩羅什の訳文は、「読みやすいのに深い」という評価で一貫しています。語彙面では、専門語を最小限の核に絞り、周囲を平明な漢語で支える層構造を採用しました。たとえば「空」は音訓を保ちつつ、説明部では「因縁相待」「假名安立」といった言い回しで理解の橋を架けます。文体面では、句の長さを呼吸に合わせて整え、対句・反復を効果的に用い、口誦に耐えるリズムを持たせました。これは、寺院の講読と信徒の読誦の双方を想定した設計です。
術語選定では、先行訳で固定化されていた語を尊重しつつ、誤解を招く用法は刷新しました。たとえば、道家語彙で仏教概念を代替する「格義」は、初期中国仏教の導入期には有効だったものの、精密な教理には限界がありました。羅什は格義を安易に踏襲せず、必要な場面でのみ控えめに用い、基幹概念では仏教独自のネットワークを形成する道を選びました。この判断が、のちの体系神学(天台・華厳)や実践思想(禅・浄土)の言語的基底を安定させます。
誤訳や異本問題に対しても、羅什は訳注・対校を通じて対応しました。当時流通した原典は地域差・時期差が大きく、完全な「底本」を確保することは困難でした。羅什訳に残る章節の差や用語の揺れは、むしろ古代テクストの生成と伝播の事情を映し出しています。近代の校勘学は、敦煌文書や梵本写本の比較を通じて、羅什の判断の根拠と限界をより具体的に描けるようになりましたが、それでも彼の訳文の生命力は揺らぎません。
東アジアへの継承:中国・朝鮮・日本における受容と展開
中国では、羅什門下の僧肇・道生が早くから注釈と講筵を展開し、三論的思惟と法華経解釈の潮流を作りました。南北朝・隋唐期には、羅什訳は玄奘・義浄らの後代訳と併用され、文体の平明さゆえに初学者のテキストとして重視され続けました。玄奘が語義厳密な後漢訳を提示しても、寺院の日常読誦では羅什訳が根強く残ったことは、文体の力を物語ります。
朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅を通じて羅什訳が早くから受容され、僧侶の読誦と注釈の基礎テキストとして用いられました。高麗大蔵経の編集は、羅什訳を中心に歴代訳を集成する営みであり、テキストの標準化と保存に重要な役割を果たしました。
日本では、飛鳥・奈良時代から羅什訳が公的な仏教受容の柱となり、『妙法蓮華経』『維摩経』『金剛般若経』は教学と儀礼の双方で読まれました。天台智顗の教学が平安仏教の骨格を形づくる過程で、羅什の法華訳は決定的に重要であり、比叡山の講式・注釈は羅什訳の文言に寄り添って展開します。鎌倉新仏教においても、法然・親鸞・道元・日蓮らはそれぞれの立場から羅什訳に触れ、その語り口を参照しながら自派の言葉を選びました。和様漢文・和歌・俳諧に現れる仏教語彙の多くも、羅什訳を経由して定着したものです。
伝説・逸話・評価:舌の不焼とテクストの真実性
鳩摩羅什の没後、荼毘の際に「舌が焼け残った」という逸話が広く流布しました。これは、彼の訳語が真実を伝えた証という象徴譚で、訳者の倫理と技術を重ね合わせる物語として読まれてきました。史実性の判定はともかく、古代社会が翻訳に託した信頼—言葉は儀礼と救済に直結する—の大きさを物語る話です。また、羅什が弟子たちに「もし私の訳に誤りがあれば舌がただれよ」と誓ったという伝承も、訳者が背負う責任の重さを示す修辞といえるでしょう。
評価史の面では、近世以前の仏教界は羅什訳を古典の正統とみなし、近代以降の文献学は用語・異本の差を精査しました。比較の結果、羅什訳が意訳寄りである点を指摘する声もありますが、それでも思想の要点把握と漢語表現の洗練は比肩しがたく、宗派を超えた信頼は失われていません。むしろ玄奘訳など精密訳との併読は、同一思想の多角的理解を可能にし、東アジア仏教の厚みを生んでいます。
現代の研究は、羅什の西域的背景と複言語能力、訳場の社会史、テキストの受容史を立体的に照らし、彼を単独の天才から「ネットワークの結節点」へと再評価しています。翻訳は個人の技巧であると同時に制度であり、羅什の成功は、宮廷の後援、学僧の参与、文人層の支持、在家信徒の読書文化が揃って初めて成立したものだったからです。
まとめ:東アジア仏教の言語設計者として
鳩摩羅什を一言でいえば、東アジア仏教の「言語設計者」でした。彼は、西域とインドの学知を漢語に訳すにとどまらず、読誦・講義・注釈が循環できるようにテキストを設計し、語彙・文体・編集手法を制度化しました。『法華』『維摩』『金剛』『中論』に通底する彼の文体は、思想の核を取り落とさず、しかも読めば心に届くという稀有の均衡に立っています。羅什の訳語が定着したからこそ、東アジア各地の仏教は互いに議論し、学び合い、批判し合う共通基盤を得ました。私たちが今日、その文言を声に出して読んだときに感じる滑らかさと奥行きは、1500年前の訳場で練り上げられた呼吸の遺産なのです。羅什の名は、単なる古名ではなく、いまも生きて作用する言語の器の別名だといえるでしょう。

