ケネディ・ラウンド(GATT Kennedy Round, 1964–1967)は、関税及び貿易に関する一般協定(GATT)の下で実施された多角的貿易交渉の一つで、第二次大戦後の国際通商体制を質的に前進させた画期的な試みです。最大の成果は、工業製品関税の包括的・一括的な引き下げ(平均約35%の削減)と、アンチ・ダンピング協定(GATT第VI条の実施に関する協定)という「ルールの近代化」を同時に達成したことです。背景には、EEC(欧州経済共同体)の形成で世界市場が二大ブロック化しつつあったこと、アメリカが1962年通商拡大法で大統領に強力な交渉権限を与えたこと、そして新独立国の台頭による「開発と貿易」をめぐる新課題がありました。ケネディ・ラウンドは、単に関税を下げた出来事ではなく、交渉方法・対象範囲・途上国配慮の仕組みを拡張し、のちの東京ラウンド(非関税措置へ本格展開)とウルグアイ・ラウンド(WTO創設)への橋渡しをした節目として位置づけられます。
時代背景と開催の枠組み:EECの台頭、通商拡大法、参加国の広がり
1960年代初頭、欧州ではEECが関税同盟として共通対外関税(CET)を整備し、域内関税は段階的に撤廃されつつありました。これに対しアメリカは、巨大市場のブロック化が多角的主義(MFN原則)を掘り崩すことを懸念し、二国間交渉を積み重ねる従来方式では不十分だと判断します。1962年、米議会は通商拡大法(Trade Expansion Act)を可決し、大統領(当初はJ.F.ケネディ、のちL.B.ジョンソン)に対して包括的な関税引下げ交渉権限、場合によっては最大50%の引下げ権限を付与しました。これにより、GATTの場で大規模な横断的・一括的交渉が現実味を帯びます。
交渉は1964年5月にジュネーヴで開始され、1967年6月に妥結しました。参加国は米・EEC加盟6か国(当時)・英・日などを含む60余か国に拡大し、〈米国—EEC—その他先進国—新興独立国〉という多層的利害の調整が課題となりました。先行するディロン・ラウンド(1960–62)が「品目別の個別合意」を中心にしていたのに対し、ケネディ・ラウンドは包括的な横断方式(アクロス・ザ・ボード)での関税引下げを主軸に据えた点に革新性がありました。
交渉方式と主要成果:一括関税引下げとアンチ・ダンピング協定
ケネディ・ラウンドの核は、工業製品関税の包括的・線形削減です。米国とEECを中心に、多数の品目で「基準税率」を設定し、一律パーセンテージでの削減を重ねる方式を基本としました(最終的な平均削減率は日米欧でおおむね約35%)。この方法は、個別品目の政治的抵抗をへらし、関税構造の「高いところをより深く」落とす効果を持ちました。たとえば化学・機械・鉄鋼・繊維など主要工業品の関税が大幅に低下し、国際的なサプライチェーンの形成に追い風となります。日本にとっては、繊維・軽工業から機械・電機へと輸出構造を高度化させる環境整備に資しました。
もう一つの画期は、GATT第VI条を具体化するアンチ・ダンピング協定の成立です。従来、ダンピング(不当廉売)とその対抗措置は各国の国内法に委ねられがちで、発動基準・手続・価格比較の方法が不統一でした。ケネディ・ラウンドは、ダンピングの定義、正当な価格比較、因果関係の検証、国内産業への実質的損害の要件、調査手続の透明性などを国際的に約束し、恣意的な保護主義発動を抑制する方向性を打ち出しました。この「ルールの国際化」は、非関税障壁が増える時代に、GATTが関税以外の領域へ踏み込む第一歩となりました。
一方、農産物では欧州の共通農業政策(CAP)が価格支持と可変課徴金で強固な防壁を築いており、関税方式の横断的削減を適用しにくかったため、成果は限定的でした。穀物の国際取り決め(国際穀物協定)や牛肉・乳製品など一部の取り決めが作られたものの、構造的な市場アクセス改善は先送りとなります。農業をめぐる遺恨は、のちの東京ラウンド、さらにウルグアイ・ラウンドでの「農業の関税化・削減」へと持ち越されました。
開発と差異化:途上国配慮とGATT第IV部の定着
1960年代はアフリカ・アジアの新独立国がGATTに参加しはじめた時期であり、「貿易を通じた開発」の位置づけが争点でした。ケネディ・ラウンドの最中(1965年)にGATTへ追加された第IV部(貿易と開発)は、途上国の開発需要を正面から認め、先進国に対して市場アクセス改善の努力を要請し、互恵主義の厳格な相互主義を緩める根拠を与えました。具体的には、熱帯産品(コーヒー、ココア、天然ゴム等)や一次産品の関税・割当の緩和、輸入制限の撤廃努力、技術援助などが議題化されます。完全な無関税化には至らないものの、「途上国特別待遇(特恵)」の理念が制度に埋め込まれ、のちの一般特恵関税(GSP)導入(1960年代末〜70年代)につながっていきました。
しかし、一次産品価格の不安定や先進国の加工貿易保護、農業の例外扱いなど、途上国側の不満は残りました。ケネディ・ラウンドは、先進国中心の工業関税削減を推し進める一方で、南北問題の構造的な歪みを露呈させ、UNCTAD(1964年設立)とGATTという二つの舞台で「開発と貿易」の議論が並行する状況を生みます。
日本・欧州・米国の受け止め:産業構造転換と競争秩序の再編
日本にとって、ケネディ・ラウンドは高度成長の後押しとなりました。日本の関税水準は戦後の保護段階から徐々に低下していたものの、包括的な国際合意のもとで工業品関税が大幅に下がったことで、機械・家電・精密機器などの輸出競争力が高まりました。一方、内外の競争圧力は国内産業の合理化を迫り、貿易・為替の自由化とあわせて産業政策の質的転換(研究開発・品質管理・標準化)を促進しました。
EECは、域内統合の進展と共通対外関税の維持を両立させつつ、米国との対立を避ける微妙な舵取りを行いました。関税の横断削減はCETの見直しを迫り、欧州企業の国際競争への適応を促しました。米国は、製造業の国際化を推し進めつつ、鉄鋼や繊維の摩擦に直面し、のちに輸出自主規制のような「グレー措置」を併用する局面も生みます。ケネディ・ラウンドがもたらしたのは、「ルールに基づく自由化」と「政治対応の補助策」の併走という、現実的だが複雑な通商秩序でした。
交渉技術の進化:一括方式、例外表、セクター折衝の組み合わせ
ケネディ・ラウンドでは、従来の品目別・相互主義的削減から一歩進み、一括削減方式(アクロス・ザ・ボード)を軸にしながら、政治的に敏感な品目については例外表を設け、さらにセクター別に集中的に折衝する手法が確立しました。たとえば化学品では関税分類の見直しとともに、割戻しや関税差別が商慣行に及ぼす影響が議論され、鉄鋼では非関税的な数量規制や価格協定の扱いが問題化しました。これらの経験は、のちに東京ラウンドでの「コード型交渉」(政府調達、輸入許可手続、技術障害等)へと昇華します。
また、ケネディ・ラウンドでは統計・関税分類・評価手続の整備が前提条件となり、各国税関の事務が国際的に調和されていきました。関税減免の効果を測るための基準税率の確定、関税表の対応関係、原産地規則の理解など、技術的な基盤整備は通商交渉の「目に見えない成果」です。これは企業の実務(価格見積、サプライチェーン設計)に直結し、自由化の実効性を高めました。
評価と限界:工業関税の大幅削減と、農業・非関税分野の宿題
総合的に見て、ケネディ・ラウンドは工業製品関税の平均削減という量的成果と、アンチ・ダンピング協定という質的成果を両立させた点で、戦後GATTの大きな成功例でした。これにより、製造業を中心とする国際競争の土台は平準化し、企業は価格・品質・技術で勝負する度合いを高めました。ルール面では、恣意的なダンピング認定の抑制や手続の透明化が進み、国際紛争の処理に予見可能性が加わりました。
一方で、農業の実質的自由化が進まなかったこと、繊維などでの政治的例外措置(のちの多繊維取極/ MFAへの流れ)が並行したこと、そして非関税障壁の重要性が増したにもかかわらず包括的な対応は未成熟だったことが限界です。これらは、その後の東京ラウンドでコード合意を積み上げ、ウルグアイ・ラウンドで農業・サービス・知的財産に踏み込む長いプロセスへと委ねられました。
意義:多角的主義の強化と次世代交渉への布石
ケネディ・ラウンドの意義は、三点に凝縮できます。第一に、多角的主義(MFN)をテコにブロック化の圧力を相殺し、米欧の力学をGATTの枠の中へ吸収したことです。第二に、交渉技術の革新(一括削減+例外管理+セクター折衝)を確立し、巨大な利害調整を可能にしたことです。第三に、ルール形成の始動(アンチ・ダンピング協定、開発条項の定着)で、GATTが単なる関税引下げの場から通商ガバナンスの場へと進化する端緒を切ったことです。名称の由来となったJ.F.ケネディは交渉の途中で凶弾に倒れましたが、彼の提唱した通商拡大の政治資本はラウンド全体を通じて生き続け、戦後世界経済の礎石の一つとなりました。

